1.ならば手駒にいたしましょう
最近婚約者であるフィロス王太子殿下の様子がおかしいと思ったら、どうやら女遊びを覚えたらしい。確認したところ身元確かな娼館でお楽しみのようだ。ならば問題はない。
わたくしカトレア・ブラッソ伯爵令嬢とフィロス・プベッセンス殿下の仲は険悪。そういうこともあろうと見逃していた。
────が、しかし。
「まったくおまえときたら愛嬌のひとつもない。アイビーが婚約者であればどれほど良かったか……」
月に一度の交流。フィロス殿下はそう言い捨てた。
アイビーというのは殿下お気に入りの娼婦で、正直あまり良い女性ではない。子爵令嬢であったが、たびたび問題を起こすので売られたらしい。
足りないおつむと蠱惑的な肉体にかまけた疎かな性技。童貞あがりで女の肉がそこにあれば数分擦って出すだけで満足に興奮できる殿下はともかく、経験豊富でわきまえた大人の男性には少々不評だ。
この通りフィロス殿下はいち娼婦の女性にぞっこんだ。恋していると言っていい。
貴族にとって男女問わず愛する人が別に居るのはよくある話。次期国王夫妻として互いに義務を果たそうというのならばそれでかまわない。
だが近頃はそれも怪しく思えるし、件のアイビーさんも愛妾か側妃に……うまくいけば王妃になれるのではと思い上がっているようだ。
(────と、なれば……話は変わってくるわよね)
わたくしは紅茶をひとくち飲む。
王宮の庭は広く美しい。あたたかい太陽に照らされて咲く花々を、日除けの大きな傘の下に机と椅子を置いて悠々と愛でることができる。
「わたくしたちは王命による婚約です。あなたが婚約を反故にすればどうなるか……それはご自身が1番理解していらっしゃるでしょう」
「ふん……王妃の座が惜しいのなら素直にそう言えば良いではないか」
フィロス殿下はいかにも王子様然とした美しい顔を意地悪そうに歪めた。
わたくしが王妃の座に執着しているというのは認めよう。しかしそれは国のためにもなることだ。
国王陛下は40年にわたって平和を維持している賢王である。だがそのための戦で生殖機能が低下し、20年が経過しても子どもに恵まれなかった。第2子は望めないだろう。
おかげでフィロス殿下はこれでもかというほど甘やかされた。学力は申し分ないが感情的すぎるきらいがあり、政治には向いていない。だから伯爵位ではあるものの、どこをとっても優秀なわたくしが婚約者に選ばれた。
失われた文明の残ると言われる大魔法時代を、名のある魔女として生き抜いた前世があるからこそなのだけれど。
だって現代が過去に比べてこんなに不便で劣っているとは思わなかった。大魔法時代が隕石の衝突によって終焉を迎えたのも、わたくしの研究で判明した。どうりで文明が失われるわけだ。
良いものをたくさん知っていれば、質の低いものを扱うことが苦痛になる。かつてこの手で発展させた文明をもう一度やり直すのは非常に面倒で時間がかかった……そしてこれからもかかるだろうけど、わたくしが快適になるのなら良いことだ。もちろん国にとっても。
親バカな現国王夫妻はわたくしが実権を握ってもいいから婚約者になってくれと頼み込んできた。様々な功績で全幅の信頼を得たとはいえあまりにも破格すぎる条件である。
この世には権力も贅沢も要らないから穏やかに暮らしたいと言う人間も存在する。でも、わたくしは自分の思い通りの生活をしたいなら、自分が1番上に立ってしまえばいいことを知っている。もちろん下をうまく扱えなければ失敗するけれど……今度は上手くやるから問題ない。なので陛下からの打診は喜んで受け入れた。
女性では侮られることもあるだろうから、男性の恩恵は殿下を利用して頂戴すれば良い。形だけのトップになるフィロス殿下の手綱など、簡単に扱える。
「そうだな……おまえが俺を愉しませてくれると言うのであれば、側妃にしてやらんこともないぞ?」
フィロス殿下はわたくしの胸元を見つめた。彼の目には豊かではないがメリハリのある身体に、黒のロングストレートヘアと切れ長の目のわたくしが映っているだろう。全体的に抱き心地の良さそうな、蜂蜜色のボブヘアにたぬき顔のアイビーとは真逆だ。
「……いいでしょう」
散々可愛げがないと言っておきながらわたくしはそれなりに魅力的に見えるのだろう。都合の良いこと。
ああ、殿下ったら、かわいそうに。わたくしの手のひらの上だということがわからないのね。
「フィロス殿下、わたくしがすべて致しましょう。ですからあなたはじっとしていて」
照明を絞った殿下の寝室。豪華なベッドは2人横に寝ても余裕があるだろう。
スケベ心を隠せない殿下が抱きついたわたくしの腰に手を伸ばすのを、そう言って拒絶する。不満そうな顔で無理矢理ことに及ぼうとしたので、あなたに尽くしたいからこそなのですと上目遣いに見つめて言えば手のひらを返したように機嫌を良くした。
「殿下の手は大きいのですね。わたくしよりもずっと長く、筋張って、男の人らしいわ…………」
するりと手を繋いで、男女の違いを見せつける。首の太さ、肩幅の広さ、胸の硬さ、へその位置……そうして愛撫にも満たない戯れを続ける。フィロス殿下の喉仏がごくりと鳴って、密着するわたくしの肉体を順番に視線でなぞる。
「カ、カトレア……、」
まずはわたくしへの認識を変える。
今まで冷淡で可愛げがなく鬼のような人間であった彼の中のわたくしが、細く、柔らかく、ちいさなひとりの女であることを覚えさせていく。
どうだろうか。先ほどは女性特有の膨らんだ胸しか、結合することしか頭になかった即物的な殿下が、わたくしの整えられた爪や髪にまで意識を向けるようになる。きっと次に言葉を囁けば、己のものと比べてその声の高さを意識してしまうだろう。
首に腕を回し、その肩口に顔をくっつける。まるで首筋にキスをするように、やさしく、吐息を落としていく。まさぐらない程度に服の上から身体に触れてやる。今度はすこしだけ愛撫の意図を持って。
「っ、……」
脇腹をなぞればびくっと肩が揺れた。くすぐったいからではないだろう。わたくしはあえてからかうように笑った。
「どうですか、フィロス殿下……わたくし、ドキドキして、身体があたたかくなってきました。ほら」
手を取って、ぐっと左胸に押し付ける。高鳴る鼓動を感じさせるためと口では言うけれど、柔らかな肉と自身の鼓動のほうに意識を取られて不可能であると知っている。一方でわたくしの心は完全に凪いでいて脈は正常。
濃紺で胸元だけ大きく開いたところを白く透けたレースで埋めたドレスは、色気があるのに上品だと評判だ。彼にはもう淫猥な衣装のように見えているだろうか。あんなに性急にことを進めたがったのが嘘のように言いなりだ。
服に隠されている肌には直接は触れないし、触れさせない。前戯はするが、決定的な場所には手を出さない。だというのにフィロス殿下はずいぶん興奮しているようで、男の部分の反応は顕著だった。煽るようにわたくしも荒っぽい呼吸を演出してみれば、わたくしの一挙一投足に興奮のボルテージを上げていく。
「…………今日はここまでにしておきましょう」
次を望んでいた殿下が、「なっ」と心底驚いた声を上げた。
「なあ、そう言うなよ、カトレア……きみも悪くないだろう…………」
おまえ、なんて呼んでいたのに。急に媚びるようになってしまって。おかしいこと。
「だからこそですよ、フィロス殿下」
わたくしは視線をそらし恥じらっているふうにしながら、殿下の太ももにそっと指を置いた。
「勉学に励んだあとのご褒美はつねに甘美なものですわ。耐えるほど、高みに辿り着いた時には最高の景色が待っているでしょう」
「それは……」
「一か月。あなたの夜の逢瀬をわたくしのためだけにくださいませんか」
「一か月だと!? そんな、長い期間……」
「想像してくださいませ。一か月後……わたくしたちを迎える、筆舌に尽くしがたいほどの、褒美を」
要するに、「娼館通いも己を慰めることもやめろ」と言うことだ。かなり逡巡した様子ではあったが、わたくしのあまりに魅力的すぎる言葉にフィロス殿下は息を呑んだ。
「わかった、約束しよう」
「ええ。フィロス殿下、カトレアは嬉しゅうございます」
ベッドから抜け出したわたくしを殿下は期待の目で見つめた。わたくしは礼をして寝室から抜け出す。
扉の先で待機している護衛と従者たちは、さすがプロというべきか特に何の反応も見せずにわたくしの後を追う。婚約者同士であるならば多少早い婚前交渉は認められる。とくに、もうすぐ卒業を控える身であればなおのこと。
わたくしは王妃になったら前世のように研究に没頭したり、好きなことだけして生きていたい。どうせ治世はたいして苦じゃないのだから。手に余れば信頼できる人間に分散したり、自動化したり、コストはかかるけど魔道人形でわたくしを作ればいい。雑事なんて息抜きついでにペットの面倒を見るようなもの。
研究で功績を上げればおのずと勝手に便利な世の中になって、民衆も喜び、支持されていく。今は学園のことや妃教育で忙しくて好きなことに集中しきれないけれど、それもすこしの辛抱だ。
「うふ、ふふふふふ……」
わたくしは王宮で挨拶をくれる人たちに笑顔で応える。「ブラッソお嬢様、ずいぶんとご機嫌ですわねえ」「眼福ですわ……」と囁く人の声も気にならなかった。