しゃっくりをする蝙蝠男
あなたは、しゃっくりが止まらなくなって困ったことはありませんか?
これからあなたの心は、しばしの間、この不思議な時間の仲へと入って行くのです。
みなさんは、海野十三という作家のことをご存じだろうか?
日本SF界の先駆者である海野十三は、一八九七(明治三〇)年、徳島市徳島本町に生まれ、早稲田大学理工科で電気工学を学び、逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、執筆活動を開始した、異色の経歴を持つ作家である。
やがて作家専業となって、科学知識を駆使した探偵小説やSF小説で読者を魅了し、
『火星兵団』
『深夜の市長』
『蝿男』
『十八時の音楽浴』
『四次元漂流』
など、幅広い作品群で戦前戦中戦後を通じて大活躍をした。そしてその死後も、多くの読者に愛され、今なお新しいファンを開拓している、まさに日本を代表するSF作家の一人なのだ。
その海野十三に、幻の作品とされている一篇がある。
ファンの方ならよくご存じの通り、「しゃっくりをする蝙蝠」という短篇小説である。
この作品の存在が知られるようになったのは、探偵作家にしてモダン雑誌『新青年』の編集長だった経歴を持つ横溝正史によって書かれた、海野十三への追悼文(『宝石』一九六三(昭和三八)年一月号に掲載された「海野十三氏の処女作」というエッセイで、のちに横溝の著書『探偵小説五十年』に収録された)によるものだろう。
彼が海野に原稿依頼をするきっかけになったのが、その「しゃっくりをする蝙蝠」という作品だったというのだ。
横溝は小説の内容についても具体的に記している。
ある科学者が亡くなる前、最後に残したのが「しゃっくりをする蝙蝠」という不思議な言葉だった。
助手がその言葉の謎を追って、蝙蝠の生態について調べたりしたのだが、結局それは、科学者の愛用のコウモリ傘のバネが狂って、しゃっくりをするような動作をするのが気になっていたのだといオチになる。
ちょっととぼけた味わいのある作品のようだった。
海野十三の死後、全集が刊行されはじめた時、われわれ読者はてっきり、この愛すべき「しゃっくりをする蝙蝠」が読めるものだと思っていた。
ところが、編年体で編まれた全集の第一巻に、それは収録されていなかったのである。編集委員の懸命な捜索にもかかわらず、遂にその作品は発見出来なかったのだというのだ!
嗚呼、という感嘆の言葉は、こういう場合にこそふさわしいと思ったものである。
その後も、研究者諸氏の血のにじむような探求にもかかわらず、「しゃっくりをする蝙蝠」の行方は杳として知れず、挙げ句の果てには、そのような作品はそもそも存在しなかったのではないかと言い出す者まで現れる始末だ。
ところが、海野自身が「しゃっくりをする蝙蝠」という自作があることを言及した文章が発見され、幻の作品はグッと現実味を持った存在となったのである。
こうした経緯を見るにつけ、海野十三という作家が、いかに読者に愛されているかということが解るだろう。
この原稿を執筆している二〇二三年二月現在、まだ作品が発見されたという報はない。
果たしてわれわれは、生きているうちに「しゃっくりをする蝙蝠」を読むことが出来るのであろうか?
これから紹介する作品は、とある古書店で偶然発見したもので、地方のSF同人誌に掲載されていた小説である。
その同人誌を手に取ったのは、たまたま表紙のイラストに描かれた美少女に心惹かれたからだったのだが、目次を開いて驚いた。妙な小説が載っていたからだ。
タイトルは「しゃっくりをする蝙蝠男」!
作者は海野十四。
もちろん十三の幻の小説のことを知った上で書かれたパロディというか、巻末の作者の言葉によれば、ユニークなタイトルにインスパイアされたオマージュである。
タイトルといい筆名といい、ふざけるのもいいかげんにしろとお怒りになる方もおられるかも知れないが、ここにあえて紹介をするのは、これはこれで面白いと思ったからだ。
ちなみに、奥付に記されていた同人誌の主催者に連絡をとったところ、この作者は数年前から消息不明なのだという。たまたまインターネットで知り合い、作品を寄せてくれたが、例会にも合評会にも姿を現すことなく、そのうちに連絡も取れなくなってしまったらしい。
一応、主催者のご理解を得た上でここに紹介させていただくのだが、作者について、どなたかお心当たりの方がおられましたら、是非ご一報いただきたく思う次第です。
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しゃっくりをする蝙蝠男 海野十四
その頃、日本中の少年少女たちの間では「しゃっくりをする蝙蝠男」の噂で持ちきりでした。
その噂は、大人たちには知られることなく、何故だか子供たちの間にのみ、まるで地下水脈のようにひたひたと浸透して行ったのでありました。
しゃっくりをする蝙蝠男とは何か?
それは、ある夜、夢の中に現れる不思議な男のことです。
全身が黒ずくめで、マントを広げると、それが蝙蝠の翼のように見えるので「蝙蝠男」と呼ばれるようになったのだそうです。
男は、シルクハットをかぶっていて、その帽子を取ると、顔は蝙蝠そっくりなのだという噂もありますが、確認することは出来ません、何故なら、蝙蝠男を夢に見た少年少女たちは、一人残らず死んでしまったからなのであります。
ああ、なんと恐ろしいことでしょう!
みなさんは、「しゃっくりを百回すると死ぬ」という言い伝えをご存じでしょう。それは迷信だとか、俗説だとか、都市伝説だとか、頭の固い大人たちは言うでしょうが、賢い、良い子のみなさんは、それが真実であることを知っているはずです。
夢にあらわれた蝙蝠男は、じっと相手の顔を見すえると、おもむろにしゃっくりをはじめるのだそうです。
すると、不思議なことに、夢を見ている少年少女も、つられてしゃっくりをしはじめてしまうのだそうです。
いくら止めようとしても、しゃっくりを止めることは出来ません。
そして、夜明け前の、いちばん闇が濃い時間に、とうとう百回目のしゃっくりをしてしまうのだそうです。
学校へ行く時間になっても起きてこないわが子の部屋を開けたご両親は、口を開けたまま息絶えている息子さんやあるいは娘さんの姿を見て、驚き、嘆き悲しんだということです。
でも、大人たちにはそれが「しゃっくりをする蝙蝠男」のしわざだということが、永遠にわからないのでありました。
これからお話しするのは、徳島県に住む小学三年生の男子、大西純平くんが体験した、驚くべき真実の物語であります。
純平くんはその日、ひとりで留守番をしておりました。
ご両親は親戚に用事があって、夕方まで帰らないし、猫もどこかに散歩に行ってしまったので、家にはまったくのひとりしかいません。
でも、純平くんは、ちっともさびしくありませんでした。ひとりでいると、何でも好きなことが思う存分出来るからです。
ゲームをしたり、マンガ本を読んだり、おやつを食べたりしながら、全身で自由を楽しんでいるうちに、何だか眠くなって来ました。まだまだたくさんやりたいことがあるのに、もったいないなと思いつつも、あくびが止まりません。そのうちに、とうとうコタツに入ったまま、とろけるように眠ってしまいました。
それからどれくらい時間が経ったことでしょう。純平くんが眼をさますと、あたりは薄暗くなっておりました。
しまった!
すっかり居眠りしてしまった。
もうすぐママたちが帰って来るぞ。
もったいないことをしたなぁと思いながら顔を上げると、スイッチを切り忘れたテレビの画面が光っていました。
それはちょっと、不思議な光り方でした。画面の左右に、大きな渦巻きが映っていて、それぞれ逆方向にゆっくりと回っているのです。
ひきこまれるようにその渦巻きを見つめていると、その中心のあたりから、黒い影が翼のようなかたちに浮き上がって来ました。
そしてその黒い翼は、みるみるうちに大きくなって、テレビの画面をはみ出したかと思うと、背の高い黒ずくめの男の人の姿となって、純平くんの眼の前に立ったのです。
男がまとっていたマントを広げると、それは部屋いっぱいもあろうかと思われるほど大きな、蝙蝠の翼のようになりました。
シルクハットの下の顔は、まさに蝙蝠そのものです。顔の中心にある大きな鼻と、その両側についたつぶらな瞳、笑っているような口の前面には、大きな二本の牙が生えています。どこかこっけいにさえ見えるその顔が、逆に底知れない怖さをたたえていました。
蝙蝠男だ!
純平くんは、金縛りにあったように身体が動かなくなってしまいました。そして、吸い込まれるように、黒目ばかりの蝙蝠男の瞳から眼をそらすことが出来なくなってしまいました。
すると、蝙蝠男の肩がバネ仕掛けのように痙攣しはじめました。それと同時に、笑ったような口から「ひっく、ひっく」という声が聴こえて来たではありませんか!
しゃっくりがはじまったのです。
純平くんは、息を殺して、つられてしゃっくりをしないように身構えましたが、それがかえっていけなかったようです。
のどの奥の方から、ビー玉くらいの風船玉のようなものがこみ上げて来たかと思うと、ふいにそれが破裂して、同時に上半身全体が裏拍子を打つように「ひっく、ひっく」と動き出してしまいました。
ああ、とうとう純平くんもしゃっくりをはじめてしまったのです。
早く止めなければ、僕は死んでしまう!
純平くんは、息を止めたり、つばを飲み込んだりして、何とかしゃっくりを止めようとしました。
じっと息を止めていると、やがてしゃっくりがしなくなりました。
ああ、やったぞ、しゃっくりが止まった!
と喜んだのも束の間、静かになったノドの奥あたりがムズムズしはじめたかと思うと、壊れたバネのように、またしゃっくりがはじまってしまうのです。
蝙蝠男は、笑ったような顔で、そんな純平くんをじっと見下ろしているのでした。
そして何と、テレビの画面には、今までしたしゃっくりの回数が表示されていたのです。
42 43 44 45 46 47 48 49 50
情け容赦ないカウントは、とうとう半分の五〇回を示しました。
百回というと、すごく時間がかかるように思われますが、たとえば三秒に一回しゃっくりをしたとして、百回で三百秒、つまり、わずか五分しかかからないのです。
もう時間がない!
焦れば焦るほど、しゃっくりのスピードは速くなるように感じられました。
テレビ画面のカウントが100に近づくにつれて、蝙蝠男のしゃっくりの音が「ひゃっく、ひゃっく」とはやし立てるように聞こえます。
そしてその顔ときたら、口角が上がって、まるで純平くんを頭から呑み込んでしまうかのように開いて行くのです。
そうしてとうとう、しゃっくりのカウントは90代へと突入してしまいました。
91、92、93、94、95
両手でのどのあたりをおさえて、何とか止めようとしますが、胸のあたりが跳びはねるように脈打って、勢いよくしゃっくりが続いて行くのです。
ああ、もうだめだ。僕、死んじゃう!
96、97、98、99
テレビ画面のカウントが、あと残り一つとなった絶体絶命の瞬間、背中の方でガサッという音がしたかと思うと、何か黒いものが眼の前に飛び出して来ました。
どこかに散歩に行っていた、黒猫のポーが、怪獣のようなものすごいうなり声を上げて、蝙蝠男の前に立ちはだかったのです。
その勢いに気圧されたのか、それそも、そもそも猫が苦手なのか、蝙蝠男は、マントをひるがえすと、風のようにテレビの画面の中へと逃げて行ってしまいました。
あまりに急な展開に、びっくりしていた純平くんが我に返ると、なんと、しゃっくりは止まっているではありませんか!
びっくりした拍子に、しゃっくりが止まることがあると、どこかで聞いたような気がします。
飼い猫の突然の乱入のおかげで、純平くんは、何とか九死に一生を得たのでありました。
過ぎてしまえば、あれは夢だったのだろうかとも思えて来ます。
そもそも蝙蝠男は、夢の中に現れるはずだったからです。
でも、あれが夢ではなかった証拠に、蝙蝠男が立っていたあたりを睨み付けて、黒猫ポーが、まだ低い声でうなり続けているのでした。
了
※海野十三先生の「しゃっくりをする蝙蝠」が、一日も早く見つかることを、心よりお祈り申し上げます。(海野十四)
今宵、あなたの夢の中に、蝙蝠男が現れるかも知れません。
どうか、しゃっくりが止まりますことをお祈り申し上げます。
※この作品は『「新青年」趣味』22号(『新青年』研究会)に発表したものに、若干の加筆をしたものです。