いま生きている(ねこ)たちの為にできること
どんな時でも、元気のいい「ねこ婆」にも、時々静かな日がある。
あれ?と、感じるほど黙り込み仕事をこなすのだが、ねこ婆自身も仕事に集中できない様子である。
管理職とは、社員全員の体調管理も見なければいけないと思う事から、顔色が悪いとか、言葉に元気がないと感じた時は(体調は大丈夫)の確認をするように心掛けている。
この日も、ねこ婆には確認しようと思ったのだが、どうも話しかける空気にはなれなかったので、時間を置いてから聞いてみようと思って仕事に入った。
午後になっても、ねこ婆は変わらない。お昼ごはんも、あまり受け付けないようであった。
姉さんからも(朝から悲しい顔をしてるよ)と言われていたので、(なにかあった?)と聞くことにした。こういう時に話しかけることには、どうも苦手だ。
ねこ婆は隠すことなく、昨日の晩にいちばん甘えん坊だった(ねこが亡くなった)と、話してくれた。
一晩中、その(ねこ)を抱いて泣いていたようだ。
本来であれば、仕事にも出たくもない心境であろう。
今すぐにでも帰って、そばに居たい気持ちだろうと思い(うちに帰ってもいいよ)と、伝えたのだが、ねこ婆は(大丈夫です)と言って仕事を続けていた。えっ大丈夫なの?とは聞けない。
ただ、ねこ婆は色々と話してくれた。ねこを飼っていると、生まれる(ねこ)もいれば、亡くなる(ねこ)もいる。かわいい家族が亡くなることは、一番辛いことだということを真剣な顔で教えてくれた。
オレはそういう場面の経験がないから(そういう時は仕事を休んでもいいよ)と気遣うつもりで、帰ってもいいよと言ったのだが、ねこ婆には怒られてしまった。
ねこ婆にとって、自分の「いのち」より大事な(ねこ)が亡くなることは、何よりも辛く悲しい現実であり、そんな時に仕事などしたいはずもないに決まったいた。帰れるものなら帰りたい。だけど、ねこ婆がその気持ちを抑えて仕事を続けるのは、「いま生きているねこたちの為でしかない」のである。
働かなきゃ、他のねこたちに、ごはんを買ってあげられない。この言葉は、心がいたかった。
ねこ婆は、一晩中亡くなった(ねこ)を抱きながら泣き続けて朝を迎えていた。寝不足なんて気にもしない。泣き続けるねこ婆のまわりには、他のねこたちが心配そう集まり、ねこ婆を励ましてくれるという。
そんな優しいねこたちがいるから、泣いてばかりはいられないし、働かなきゃいけないんだと、ねこ婆は教えてくれた。こころでは今も泣いている。それは、からだ全体ににじみ出てもいた。
ねこ婆の言葉が現実だと思った。
自分に守らなければいけない大切なものがある以上、自分の感情を押し殺してでも、やらなければいけないことがあるということを実感させられた瞬間であった。
人の事情も考えずに、軽々しく言葉を発してしまうことはないか?そういうことも考えるようになったのも確かだ。
世の中は、自分中心で回っていると勘違いしている人間が多いように思える。過去にオレも、そういう人間であったことで注意された覚えが蘇える。言われて知ることがほとんどだが、言われてもわからない人間が多いから、本当にやっかいだと思うこともある。
自分にとっての優しさも、相手にとったら迷惑だということもあることは、学ぶべきだと感じた。
言葉はむずかしい。同じ言葉であっても、話す人により受け止め方も変わるし、言い方も変わる。
その時の気分で良くもとれるし、悪くもとれる。だから、学ぶことはおもしろともいえるのかもしれないと、前向きにも考えよう。学びは人間にとり絶対に必要なことであるのだから、失敗や挫折といった場面に出くわした時には、次に繋がる学びでしかないと思えばいい。切り替えが苦しくても、無理やり切り替えるように別の事を考える努力をする。
そう考えるようになってから、失敗しての落ち込みは少なくなったようにも思える。悩む時間はもったいない。(1日24時間)は、みんな同じである中で、何かを引きずり悩む時間ほど無駄なものはないのだと思うようにしよう。
今、何かの壁にぶつかっていることがあるなら、苦しむのではなく、前を向いて考えるようにすればいい。悩んだり、泣いたりする前にやるべきことをやることが大事なんだと切り替える。
自分がこの世で一番苦しいわけじゃない。自分よりも大変な思いをして生きている人や、苦しんだり泣いたりしている人だっているという事を、忘れてはいけないと思う。そうすれば、自分の悩みや苦しみが小さなことであることに気づくかもしれない。
オレは思う。自分が辛い時、ひとりで悩やんだり苦しんだりせずに誰かに話すことも大事だと。
気の利いた結果にはならないかもしれないけど、悩みも、苦しみも半分になるかもしれないのだから。
ねこ屋敷で想像していた先入観と現実の違いは大きい。
人として大事なものがたくさん詰まっている「ねこ屋敷」から学ぶことは多い。ねこ婆は、泣いてる時間や、亡くなった(ねこ)を、抱きしめる時間は誰よりも欲しはずなのに、いまの自分がやるべきことを知っている。やるべきことをやってから、思いっきり泣いていたことは、出勤して来た時の目の腫れでわかる。でも、それを言い訳にせずに気持ちを切り替えて仕事する姿は、見習う事しかない。自分が守る「いのち」を、強い気持ちで守り通している。
ねこの寿命は人間に比べて短い。
だから生きているなかで、出来るだけの愛情と、しあわせをあげようと精一杯がんばるんだと、ねこ婆は話してくれた。自分がうどんやパンを食べてでも、ねこたちには美味しいものを食べさせる為に働く。
ねこに使うお金は惜しまないし、ねこの為だけに働いている。その分、自分が節約すればいいんだとも言って1円の無駄使いもしない。ねこ婆には、たまには自分に(ごほうび)をあげてもいいじゃないのとさえ思えるけど、ねこ婆はきっと、ねこたちと一緒に居られることがいちばんの贅沢なんだ。という事もわかっている。
すべてに言えるが、言葉にすることは誰にでも出来るけど、行動に移すことは誰もが出来ることではない。
ねこ婆が常に言葉にすることがある。
「自分がいなくなった後のねこたちの心配」だ。
ねこ婆の頭の中は、ねこで詰まっている。ここまで出来る人間だからこそ、ねこ屋敷といわれる家があることもわかる。
実際、オレも野良猫を見れば、おやつをあげてみたり、かわいいといって近寄ってもいるけど、その野良猫を飼ってあげたいと思っても行動にはできない。アパートに住んでいるからとか、持ち家だからとかの問題ではなく、部屋が汚される、トイレのしつけが出来ない。などの理由が先走る事で飼う勇気がないのが正直なところだ。
いくら理想があっても行動に移せないおれは自分で最低だという事もわかっている。だから会社に来るねこも連れて帰れないのが現実だ。
そんな話をねこ婆に話した時があったが、ねこ婆は(それならわたしが連れていく)と、即答する。
ねこ婆にとったら、表面だけでかわいいと扱うおれみたいな人間が、一番嫌なのだと思う。
おれのように自分の環境を考え、ねこの安全やしあわせを考える事ができない人間もいることは仕方ない事だとは、自分でもわかっているけど、ねこ婆の言うことは、ごもっともでしかない。
中途半端な(かわいい)では、ねこの為にはならないということは、理解すべきことなのだろう。
ねこ婆は、ねこは家の中で閉じ込めてあげる事が(しあわせ)なんだよ。と、教えてくれた。
狭い家でも、ねこにとったら安心していられる環境が大事なんだという。
確かに野良猫には常に危険が起きるし、ごはんもない。
野良にとって安心する場はどこにもないのである。
そんな野良たちに安心を与えられる場所が「ねこ屋敷」であり、誇りある素晴らしい家なんだと思う。
あれから何度、ねこ婆が目を腫らして出勤して来ただろう。
逆に、新しい「いのち」の誕生に、笑顔で出勤することもある。
ねこ婆が居るから、助かる「いのち」がある。