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プロローグ

 流れる髪をすいて、彼女はそこに立っていた。

 屋上の柵を越えた先の淵に、悠然と、そして毅然と。

 強風が吹いてしまえば取り返しのつかないことになってしまうという、その状況で。

 こちらから見えるのは背中だけで、表情は全く窺えない。

 時刻は夕刻。

 夕焼けが彼女の背中に翳りをつけ、その姿が透けて消えてしまうような錯覚に襲われる。

「―――ダメだッ!!」

 僕は声を張り出すと同時に地面を蹴っていた。

 自分が考えを巡らすよりも早く、しかし理想より遅く。

 走馬灯のようにスローモーションで時が流れる。水の中で動くように遅々として、今という瞬間が通り過ぎていく。

 先ほどの僕の叫びに応じるように振り返る顔が夕日に照らされて映し出される。

 驚いたように開かれたような眼と、半開きの口。

 顔の半分が覗かれたその時、突風が屋上に吹き付ける。

 彼女の背中を押す、見えない死神の手。

「ぁ…………」

 彼女の小さな呟きを聞くなり、僕は跳んだ。

 傾く彼女の身体を引き戻すように両手で肩を掴み、下半身を柵に叩きつける。

「がっ……!!」

 腹に鉄柵がめり込み呻き声が出る。

 反動で身体がくの字に曲がっていたが、なんとか彼女から手は離さないでいられた。

 華奢な肩を掴むその両手は彼女の重みを感じていた。

 無気力に、全てを委ねるような、そんな重さ。

 きっと今、手を離してしまえば彼女は十数メートル下の地面に落ちてしまうだろう。

 それが分かったから、僕は激昂した。

「―――ッ!」

 今から死のうとしている人間に対して何と言えば良いのか、僕には一つの言葉も思い浮かばない。

 僕が何故その娘を助けようとしているのかも分からないのだから、それは当然のことなのかもしれなかった。

「ふふっ」

 不意に彼女は、状況にそぐわない自然さで、笑った。

「…………?」

 頭でもおかしくなったのか、もしくは既におかしいのか―――。

 彼女はゆっくりとその両腕を広げる。

「これが船のデッキの上だったら、少しはロマンチックな雰囲気になるのかしらね」

 船……デッキ?

 一体何の関係が……と言おうとして、思い出した。

 一昔前に有名になった映画だ。

「ねぇ、デカプリオ」

「……デカプリオを名乗るに少し……いやかなり鼻の高さとか色々足りないかな」

 苦笑混じりに僕は自嘲した。

 彼女はそんな僕の声は無視して続けた。

「どうして私を助けたの?」

「――――――」

 どうして。

 死ぬ事にはそれなりの理由がある。どんなちっぽけな理由であれど、そこには確かに死ぬ覚悟に見合う理由が存在する。

 逆に、助ける側にも理由が必要なのだ。助ける為の理由。死ぬ事を止めるだけの理由。

 つまり、彼女は問い質しているのだ。

 私の死よりも重い理由をお前は持っているのか、と。

 そして僕はその理由なんて、持っていなかった。

 一つも、

 欠片も、

 微塵も、

 持ってなど、いなかったのだ。

「あなたって、最低ね」

 沈黙を受けて、彼女は僕を蔑んだ。

 その辛辣な言葉は当然のもので。

 おこがましいなんてものじゃない、むしろその対極。加虐的といってもいい。

 僕の手は彼女をきつく縛り付ける鎖だ。身体に食い込み、その痛みは痛めつけられている本人にしか分からない。

 僕には分からない。

 だから、その手を緩めない。

 はぁ、と溜息をついて、彼女は言った。

「手」

「え?」

「そろそろ離してくれないかしら」

 気付けば、いつの間にか彼女の重みは無くなっていた。

 僕の手は彼女の華奢な肩の輪郭をなぞっているだけだ。

「あ……ああ、ごめん」

 僕は手を離す。警戒するように恐る恐ると。

 彼女はしばらくそこに立ったままだった。

 呆、とどこか遠くを見ている彼女。

 その姿はどこか儚く、揺らいでいる。

 そこにあるようで、ないような。

 それを確かめるように僕はもう一度、その肩を掴んだ。

「……もうここで死のうだなんて、考えていないわよ」

 諦めたような声色で彼女は嘆息をもらした。

 彼女はそこにいた。

 ウェーブのかかった長い髪がなびき、彼女が振り返る。

 向き合う。

 彼女は僕を見上げるように、そして僕は見下ろすようにして、視線がからむ。

 その時、僕は眩暈に襲われた。

「ふぅん……。確かに、デカプリオには似ても似付かないわね」

 彼女はそう言って僕の顔をじっと見つめる―――睨みつける、のほうが正しいかもしれない。

 蛇を前にした蛙のように。

 痺れるように、

 崩れるように、

 沈むように。

 その瞳に、心を犯される。

 毒のように僕を蝕む。

「さて……と」

 彼女は僕に手を差し伸べた。

 わけも分からず、僕は目の前に突き出されたその小さな手を取る。

 彼女は微笑む。

「私の地獄に、付き合ってくれる?」

 ああ、これは、病だ。

 きっと、致命的で、救われない。

 危険だと判る。

 不自然だと気付く。

 それでも僕は強く頷いた。

 無知で無力な僕だからこそ、強く願った。

 彼女に生きていて欲しいと、強く。

藍坊主さんのハローグッバイを聞きながら読むことを推奨します。

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