7.葛藤と秘密
起きて時計に目をやると、時刻の針は8時きっかりにさしていた。
ぼーっとしている頭で、今日何をすべきかを考える。
まずは、アルバイトを探さないといけない。
履歴書も買いに行かないと。
そういえば、前のバイト先の制服を返さないといけないと。
色々とやらなければいけないことが思い浮かんだが、気が進まなかった。
いつもであれば、どれだけアルバイトに行きたくなくても、やらなければいけないと、そう自分に言い聞かせることで、頑張れた。
実際問題、身内に頼れる人もいないため、自分で稼がないとホームレスになる他はない。
でも、前に泣いてしまってから、自分の心の芯か何かが、ぽっきり折れてしまった感じで、自分に言い聞かせることができない。
そのまましばらくは、何をするでもなく、ただぼーっとしていた。
思い出すのは、青井さんのこと。
彼女の作る温かいご飯が食べたい。
また、撫でてほしい。
僕が何か言うたびに、目一杯に褒めてほしい。
でも、今日は晩まで会えない。
いつもは、一人でも寂しいとか感じたことがなかったのに、今日ばかりは、あの温もりが恋しくて仕方ない。
無音の空間が、小さく感じていた孤独感を増長させていく。
僕の手は知らない内に震えが止まらなくなっていた。
散らかり切った机に目をやると、飲みかけの缶チューハイがあった。
手に取ってみると、まだ三分の一ほどは残っている。
寝起きで乾いていいた口に、唾液が充満していくのを感じる。
ダメだ。理性ではそう感じていても、これを飲んでしまえば、気がまぎれるのではないかとつい考えてしまう。
理性と欲のせめぎあいで、頭はショートしてしまって、缶を持ったままの姿勢がしばらく続いていた。
また思い出したのは、青井さんのこと。
思えば、彼女がなぜ僕にここまで良くしてくれているのかが分からない。
出会いは最悪で、失礼なことだって言ってしまったはずだ。
それでも、彼女は僕にご飯を作ってくれる。
今日だって、昼を乗り越えれば、彼女の温かい料理が食べられるのだ。
そしてまた頭を撫でてくれるはず。
そう考えると心が安らいでくる。
でも、もし、このままバイトもせずにお金が無くなって、この家を追い出されたらどうだろう。
青井さんとの接点はなくなってしまうんじゃないだろうか。
そう考えると恐ろしくて、今まで折れていた心が、少し立ち直した気がした。
この昼を乗り越えるのだ。そうすれば、青井さんにあえて、彼女は褒めてくれるはずだ。
そう自分に言い聞かせる。
手の震えはいつの間にかおさまっていて、
心も安定しているように思う。
僕は手に持っていた缶を机の上へと戻した。
それからスマートフォンを手に取り、バイト探しを始めると、気づいたころには、17時を過ぎていた。
大手のバイトサイトをいくつか見て、できる限り人との接触が少なそうなものを選んで、とりあえず応募した。
ほとんど飲食業が掲載されているため、僕にでもできそうなものを見つけるのには、かなりの時間を要した。
目星をつけたのは、軽作業の工場や交通量調査員だ。
それらの仕事自体がハードなのは、なんとなく想像がついている。
しかし、自分でもできそうなものにするということを第一優先にしたのだ。
それは仕方ないことだと自分に言い聞かせる。
ピンポーンと音が鳴る。
青井さんが帰ってきたのだ。
ワクワクしながらドアを開けると、そこには期待通り彼女が立っていた。
「ちょっと早いけど、晩御飯できてるよ。おなかすいてる?」
「ぁ、あ、めっちゃすいてます」
しばらくスマートフォンとのにらめっこに気を取られていたが、昼ご飯を食べていないことに気が付き、急激に空腹感を感じる
「ふふっ、よかった」
青井さんは少し笑った。
机に並んだのは、生姜焼きにサラダ、そしてみそ汁。
「い、いただきます」
あまりの美味しさにがっついてしまい、むせてしまう。
「そんなに焦って食べなくても、まだまだあるよ。はい、お茶飲んで」
僕は、お茶を飲み干し、
「あ、ありがとうございます」
といい、青井さんに顔を向ける。
彼女は、新しいお茶をすでにそそいでくれているところだった。
その表情は柔らかな笑みで、その顔を見ると、とても安心感を覚える。
食べ終わると青井さんは、
「ちょっと、待ててね」と言って、皿洗いを始めてしまった。
早く褒めてほしい。
今日頑張った僕にご褒美が欲しい。
そう思うと、待っているこのたったの数分がとても長く感じられた。
皿洗いを終えた青井さんは、まとめていた髪をほどきながら僕の隣に座った。
彼女は、
「伊織ちゃん、なにしてほしい?」
と少し首をかしげながら僕の顔を見る。
「あ、あ、ぁ、あの、ま、前みたいに、し、してほしいです」
僕はどもりながらもすぐに答えた。
彼女は僕の体をゆっくりと抱き寄せて、僕の耳にゆっくりと触れる。
僕の耳が熱を帯びる。
そして、彼女は顔を僕の耳に近づけ、ささやく。
「前みたいにって、なに?ちゃんと言わないとわからないよ」
いつもよりゆっくりと、甘く、それでいて少し意地悪な感じで。
体が少しビクッとなってしまい。耳はより熱くなり、それが伝染するかのように顔、そして体全体が熱くなる。
「あ、あのっ、あ、頭、撫でてほしいです…」
そういうと、彼女は満足そうに微笑んで、手を僕の頭に添える。
ゆっくりと優しく手を動かす。
心地良い。
「あのね!今日がんばったの。前のバイトやめちゃったんだけどね、嫌だったけど、新しいアルバイト探したの!」
「そう…偉いね」
「えへへ…そうだよね。そうだよね。ぼくえらいよね?」
「そうだよ。偉いよ。伊織ちゃんは、頑張り屋さんで偉いね」
その言葉を聞くと、ついつい表情が緩んでしまう。
そのまましばらくは、僕は自分の話をして、彼女は僕を褒め続けてくれて、時間が過ぎた。
心が満たされて、僕は尋ねる。
「ねえ、なんでこんなに優しくしてくれるの?」
彼女に目を合わせると、微笑んでいるままなのだけれど、少し困ったような、それでいて意地悪なような色を含む、判別のつかない複雑な表情をしていた。
「んー、秘密」
青井さんはそう言って、無言で僕を撫で続ける。
僕はそれ以上は尋ねなかった。
尋ねなかったというよりも、尋ねる勇気が僕にはなかった。
なんだか、この平穏が歪んでしまう気がしたから。
理由はなんであれ、彼女は優しい。それだけで十分だった。