5.手料理
目が覚めたときには、もう昼の1時だった。
泣いたせいで、目が腫れていた。
昨日は、限界までお酒を飲む前にあんなことがあったから、はっきりとした記憶がある。
自分に嫌気がさし、もう一度布団にくるまる。
もうなにも考えたくないし、なにもしたくもない。
布団の中から、スマートフォンに手を伸ばし、アルバイト先の店長に電話を掛ける。
忙しいのか、なかなか電話に出ない。
「ただいま電話に出ることができません。着信音の後に、ご用件をお話ください」
無機質な機械音声が流れる。
「やめます。急にすみません」
そう端的に要件を伝えて、電話を切った。
正直、留守で助かった。もし、本人に出られたら、緊張して言えなかったかもしれない。
そのまま、アルバイト先の番号やlineをブロックし、寝た。
ピンポーン
インターホンの音で目が覚めた。
お酒の定期配達便だろうか。
何も考えたくない僕の脳みそは、完全に機能停止している。
ドアを開けると、夕暮れの空を背景に、青井さんが立っていた。
「あの後、大丈夫だった?」
口調は柔らかい。心配してくれているのだろうか。
「ぃ、ぃ、いや、だ、大丈夫なんで…」
「本当に?君、すごい過呼吸起こしてたんだよ。それに…すごい辛そうだったし…」
「も、もう元気なんで…大丈夫です」
緊張する。声が尻すぼみに小さくなっていくのを感じる。
「この後予定とかある?」
「な、なにも」
本来は夕方からアルバイトがあったのだが、さっきやめた。
「晩御飯、もう食べた?」
青井さんは質問を続ける。
「ま、まだです」
「うちに食べにきなよ。この家の感じだと、ろくなもの食べてないでしょ」
「い、いゃ、そんな」
「いいから、アルコール依存症直すには、規則正しい生活からだよ」
「うぇ、あ、わ、わかりました」
いつもなら、意地でも断っていただろう。
親切にされても返せるものがないからだ。
でも、背中をさすってくれた彼女の手を思い出すと、了承してしまった。
あの時、ものすごく心が安らいだ。
「お、お邪魔します」
青井さんの部屋は、僕の乱雑とした部屋とは対照的に、きれいに整理整頓された部屋だった。
「ビーフシチューでいい?」
「あ、ぃ、は、はぃ」
「そこに座って、ちょっと待っててね」
「は、はい」
他人の家に入るのは初めてのことだから、少し緊張する。
大学生なのだろうか。本棚には、教科書とクリアファイルがきれいに並んでいた。
「歳は確か16歳だったよね。フルネームなんて言うの?」
何かを包丁で刻みながら、青井さんが尋ねる。
「ゃ、柳川伊織です」
「いい名前じゃない。伊織ちゃんね」
下の名前で呼ばれたのは、何年かぶりだ。
しかし何故『ちゃん』なのだろうか。
僕は男なので『くん』ではないだろうか。
そんなことに引っ掛かりながらも、言い出せず、
その後は、しばらく無言の空間が続いた。
何かを炒めるような音がやんだ後、青井さんは僕の前に座った。
煮込んでいる待ち時間だろうか。やけにいいにおいがして、おなかが減る。
「いま、どういう生活してるの?高校はいってないの?」
「あ、ぁ、昼にアルバイト行ってて、そ、それで生活してて…」
もっともアルバイトは今日バックレてしまったのだが。
高校には行かなかった。勉強は得意でなかったし、
なによりも、あの家をすぐに出たくて。
「偉いね。自分で生計立ててるんだ」
青井さんは、そう優しい口調で僕を褒めた。
褒められた。
人に褒められたのっていつぶりだろうか。
口元が緩んでしまう。
「そ、そうです!偉いんです!ぼ、僕だって、結構頑張ってて…なんか、その……頑張ってるんです!」
なんだかうれしくて、興奮してしまい、少し大きな声を出してしまった。
「ぁ、あ、ごめんなさい。お、大きな声だして…」
「いいよ。伊織ちゃんはよく頑張ってるよ。偉い偉い」
青井さんはそう言って、僕の背後に回って、抱き着くようにして頭を撫でる。
彼女はいい匂いがして、それに包まれていると、いい気分になった。
それから僕の口は勝手に動きはじめた。
「ほ、ほかにもね、行くの嫌だったけど、中学校もちゃんと卒業したんだよ!あとね、あとね、ゲームも結構上手なんだよ………ぁ、あ、ご、ごめんなさい…」
何故か、小さな子どものような喋り方をしてしまったことにふと気づき、恥ずかしくて顔が熱くなる。
「どうしたの?続けて?」
僕の頭を撫でながら、
とても優しくて、甘い口調で、彼女はそう告げる。
その声を聴くと、何故だか恥ずかしさもなくなってきて、僕は一杯喋ってしまう。
「あとはね!あのね………….
話始めてから20分ほど経って、青井さんは、僕の頭を撫でるのをやめた。
「あ」
名残惜しくて、つい声が漏れ出てしまう。
「ビーフシチューができるから、そこで待ってて。また、撫でてあげるから」
彼女はそういうと、台所へ髪を括りながら戻っていった。
そういえば晩御飯を食べに来たのだった。
さっきまでは話すのに夢中だったが、
ふと我に返ると、さっきまでの自分がすごく恥ずかしくなってきた。
でも、話している時間は楽しくて心地よかった。
しばらく経ち、目の前には、ビーフシチューと、ゆで卵がトッピングされたサラダが並んでいた。
「どうぞ召し上がれ」
見守るような顔をしながら、彼女は告げる。
「い、ぃ、いただきます」
一口食べると、それからはもう止まらなくなっていた。
こんなにきちんとした料理を食べるのは、いつぶりかわからない。
無言で、すぐに完食してしまった。
「おかわりたべる?」
「ぃ、ぁ、はい」
青井さんはすぐに次のビーフシチューを入れてくれた。
それをまた一心不乱に食べる。
食べ終わり、青井さんの方に視線をやると、
泣きぼくろが特徴的なその端正な顔は、心なしか柔らかな表情をしているように感じられた。
「おいしかった?」
その表情のまま、僕にそう尋ねる。
「ぇ、う、お、おいしかったです。とても」
「ふふっ、さっきみたいな口調でいいのに」
「ぇ、う、ご、ご、ごごめんなさい」
何故かさっきはどもることがなかったけれど、またどもってしまう。
「明日も食べに来なよ。昼でも夜でも。私は明日大学無くて、一日中家にいるし」
「ぇ、ぃ、いいんですか?」
思わぬ提案に、聞き返す。
「遠慮しなくていいよ。それに、また頭も撫でてあげる」
彼女は、そう言って少し笑う。
それから、
「その代わりね、お酒はもう飲まないって約束して?それが条件」
と言って、
こちらに小指を向けた。
指切りげんまんのポーズだ。
僕もお酒を飲むのはやめたいと思っていたし、青井さんとの時間をもっと過ごしたいと考えていた。
僕は青井さんの小指に、自分の小指を重ねて言った。
「も、もう、もう、飲みません。や、約束します」
彼女は満足そうにして、強く指切りげんまんをした。