まだ遊べる
第30話
~まだ遊べる~
上には上がいる。
それはそれは残酷な話だ。
井の中の蛙が大海を知らないように、私もまた自分以上の存在を知らなかったのだ。
憐れ格上に喧嘩を売った矮小な女はこてんぱんに叩きのめされ、今まさに死なんとしている。
彼我の差を見誤った小娘の末路としてはむべなるかな。
折れてない骨が無い。破れてない臓器が無い。裂けていない肌が無い。
何も無い。
私の肌を食い破る黒い蛭のような異形が、ぼんやりと視界に滲んで見えた。
前提が間違っていたのかもしれない。
勝てる勝てないの話ではなく、挑む事がまず禁則事項だったのだろう。
後悔などしても、もう遅い。むしろ、今頃になって何を悔やめば良いと言うのか。
ああ、こんなことなら。そう、こんなことなら。
人に産まれるのではなかった。
さて、それはこんな話だ。
弱々しく立ち上がるトウカを、三人は振り返って見ていた。
満身創痍の百孔千瘡。半死半生のままトウカは叫ぶ。
「その先には、行かせん……!」
「承知できかねます。」
「そんな状態のお前に一体何ができる。大人しくそこで寝ていた方が賢明だと思うが。」
「ぅぎっ……!」
食い縛った歯の隙間から、唾液と共に粘性の高い血が泡を噴く。
立ち姿勢も維持できずに膝を床につけて、それでもなお三人に食って掛かる。
ベルが同情的な視線を少しだけ向けたものの、レオに促されてすぐに顔を背けてしまった。
「ユッタ。」
「うん。」
レオの指示でユッタがトウカの背に忍び寄る。
折れている足を引き摺りながらの稚拙な接近ではあったが、最早トウカにそれを跳ね除けるだけの力は残っていなかった。
気力や精神力だけで動いているような状態なのだ。
かと言って、それで許してくれるほど、周囲の環境は甘くはない。
「ごめんね。すぐに楽にしてあげるから。」
「やめろっ……!私は……!私はっ……!」
「ちょっ、動くなって!ああもうっ!」
「後悔、するからなっ……!」
「ああ、くそっ、暴れるなよっ……!暴れるな……!」
ユッタのナイフがトウカの体にザクザクと何度も突き刺される。
トウカはほとんど本能でそれらを急所から外すように身じろぎし、苦痛の時間を延長させてしまう。
組み付くユッタの肘鉄や裏拳がトウカを襲う。
「がはあっ……!?」
「ほら、動くからっ……!」
「あがあっ……!」
「だから暴れるなって……!このっ!このっ……!」
「ぎいぃっ……!?」
悪戦苦闘。
致命にならない幾つもの刺し傷。
ユッタとトウカの泥沼のキャットファイトを後ろに見送り、青白い光の漏れる扉を開けた三人は異質な光景を見る事になる。
四方の隅を全て魔石で隠された青白い部屋。
視界を一部の隙も無く青白い石に埋められたその部屋は、途方もない魔力の真髄を感じさせた。
音もなく。風もなく。ただもうもうと噴き上げる魔力の奔流が三人の身体を強張らせる。
「これはまた……。」
フィオナが正気も定かに言葉を発する。
その横ではベルが青白い床に膝をついて、ぜいぜいと肩で呼吸をしていた。
「これ全部吸い尽くせるのか。この量は尋常じゃないぞ。」
「……できます。できますが……。」
「何が起こる。」
「私が私でなくなるやも……。」
「何だ、珍しく弱気じゃないか。」
青白い化粧を施されたレオの額が、水晶のような魔石に映って消えた。
フィオナは自身の体を乱暴に掻き抱き、内部から溢れ出る何かを必死に抑え込むような動きをしていたが、それも無駄な徒労に終わったようだった。
フィオナの持つ黒い本から生え伸びた無数の黒い触手が、蜘蛛の子を散らしたように青白い部屋の中を跋扈する。
魔石の表面を舐めとるかのように這い回る黒い触手の動きはどこか忙しない。
至上の喜びを見つけたようにも見えるし、友の亡骸を見つけて咽び泣いているようにも見える。
触手に口があれば何か慟哭のようなものを上げていたのかもしれないが。
残念な事に、今目に見える触手にはそのような器官はついてなどいない。
その長く太く黒光りする全身を、ただただ魔石に摺り寄せて擦り上げて魔力を奪うのみ。
触手が魔石を絞るきゅうきゅうとした音がなんともおぞましく聞こえる。
「げっ、げぇぁっ……おるるぉぁ……。」
「ふう、はあ、ふっ。」
床に四つん這いになって唾液を零して苦しんでいるベルの横。フィオナもまた焦点の合わない目でレオを、いや、レオのいるであろう方向を遠く眺めていた。
フィオナの顔は上気し、瞳は潤み、そして額と頬には玉になった汗がいくつか流れ出している。
それが何による作用なのかは明白だった。
「くる、しい……。」
「はっ、はっ、はあっ。」
息も絶え絶えにベルがその心情を吐露する。
胸の辺りをぎゅっと握り込み、食道が張り裂けるような膨満感との戦いを。
対したフィオナも苦しそうに艶めかしい舌を出して、ここではないどこかを見つめていた。
その間にも黒い触手は魔石を小さく噛み砕いて咀嚼し、じゅるじゅると汁でも啜るかのような下品な音を立てながら食事をする。
鞭のようにしなりながら方々を食い散らかし、細かい破片を零しながら暴れまわる様子は、酒にでも酔っているかのようだった。
触手による蹂躙で随分広くなったその部屋は、未だ青白い光を爛々と放ち、おかわりもいいぞとばかりに触手を誘惑している。
一方のレオはと言えば。
「があああああ!!」
炎上していた。
人体発火現象。自身の体温が異常に上昇し、そして衣服を、周囲を、空気を。
燃やす。燃やす。いや、燃える。
天井に昇る火柱がレオの身をローストにする。
吸う息が燃え、吐く息が燃え、視界が燃える。
足掻いても足掻いても、七転八倒のたうち回っても、命という油が注がれた火は消える事なく。
燃えた端から再生するから、さあ大変。
永遠に続きそうな程の煉獄は、レオが床の焦げ目になるまで焼き尽くすつもりなのだろうか。
さもあらんとその火はレオの耳元で囁き、メラメラと火の粉を天井のシミに数えた。
「レオ……レオ……。」
熱に浮かされた声で呼ぶフィオナにも、返事など到底返せるはずもなく。
「ろっ、おろろろろ……。」
体の中の大事そうなものごと吐き出してしまうベルを気遣えるだけの余裕もなく。
「ばああああ!!ああああああ!!がはああああああ!!」
焼かれた舌から放たれる言葉は絶叫以外の意味を乗せず。
やがて部屋の青白い光を全て消灯させた触手がゲップのような不快な音を発するまで、三人の苦しみは続いた。
嘔気、発情、出火。
それぞれにはそれぞれの苦しみがそれぞれあったが、結果としてフィオナ以外の二人は立ち上がるだけの気力を失っていた。
喘鳴激しい二人はしばらくの間動けない。ヒューヒューと懸命に息を吸っては吐く。
とろんとした表情を隠しもせず、茫然としたフィオナは、光を失った部屋をぐるり見回した。
「まだ、正気ですね。」
自分自身に確かめるように声を発するフィオナ。
フィオナの汗の香りが触手の残り香に混じっていた。
「お嬢は、無事か。俺は、無事か。」
倒れたままレオが呟いた。まだ体を十全に動かすことはできないらしい。
フィオナは疲れたようにレオの上に乗って、座布団の代わりにする。
乗られた瞬間はうっと呻いたレオだったが、それ以上の抵抗を見せなかった。
「なんとか、無事ですよ。」
「どうにか、なったのか。」
「恐らくは。」
「今の、なに。」
ベルが青くなった顔でフィオナを見上げる。
フィオナの顔は紅潮していて、視線の移動すらも億劫そうにベルに顔を向けた。
「桁違いの魔力が、一度に流れ込んできた、せいですね。」
「どういう、こと。」
「大体は、本の方に流しましたが、それでも私達の体に、あれだけの魔力を浴びせられれば、体が反応してしまいます。」
「副作用、みたいな、ものって、こと?」
「端的に言うと、そうですね。」
しばらく息を切らせながら話し合った三人は、長い時間をかけて態勢を整える。
フィオナの手の中で喜ぶように震える黒い本だけが元気だった。
それだけ見れば以前よりも軽快に歩けるような気もしたが、残念なことに気のせい以上の結論は得られなかった。
ならばと元来た扉を戻って、地下浴場へと再び足を踏み入れれば、そこには。
「キイイイイイイイアアアアアアア!!!」
黒い鳥のような姿をした異形がのさばっていた。
「ユッタは!?」
ベルの心細い気持ちが叫び声を上げる。
見渡してみても部屋の中にユッタの姿は無かった。
その代わり、テレジアが部屋の隅の方で震えているのは分かった。
「ユッタはどうしたの!?」
テレジアの方角を睨みながらベルは聞く。
テレジアは歯を鳴らしながら答えた。
「こっ、殺されましたわぁっ……!!そいつにっ……!!」
ベルの手から特大の雷が飛ぶ。
その雷は黒い鳥の腹部を確実に貫き、無色透明な穴をぽっかりと開けた。
更に穴の周囲は焦げ、次なる電撃を受けて黒より黒く焦げていく。
「ユッタがぁ……!!トッ、トウカを殺したと思ったらっ……!!そいつが急にっ……!!」
ベルは無言で電撃の嵐を黒い鳥に浴びせ続ける。
テレジアの言葉など聞きたくないとでも言うかのように。
「キイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアア!!!」
裳裾のような全身を痺れさせる鳥は、甲高いさえずりを繰り返し繰り返し。
「キイイイイアアアアアア!!!」
藻掻くように。足掻くように。
「ユッタもっ、抵抗したのですけどっ……!!胸をっ、突かれてっ……!!」
物々しい姿で、黒い鳥が雷の海に沈んでいく。
「倒れたユッタをっ……!!そいつがぁっ……!!」
漏れたテレジアの涙は恐怖のせいか、悲しみのせいか。
「キイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
燃え上がった雷海が黒い鳥の全てを焼き尽くす。
「何度もっ……!!何度もぉっ……!!ユッタをっ……!!ユッタをぉっ……!!」
最早煤と化した黒い鳥の残骸に追い討ちの大雷撃が放たれて。
「アアアアアアアア…………!!」
燃え殻に盛る雷炎はまるで恨み節のよう。
「ワタクシッ……!!見ているだけしかっ……!!」
黒い鳥が焼け死んだ跡には、灰と、小さな魔石だけが。
ユッタの足跡は残っていなかった。
全てが塵芥になっていた。
全てが雷炎の渦の中に溶けて消えていた。
「ベル、やめろ。それ以上は石まで焼ける。」
灰の髄まで焼き尽くすつもりだったベルを制止するレオ。
すると、ベルは鬼気迫る形相でレオを睨んだ。
見上げたレオの表情は伺い難い。
まるで動じていない素振りでいるレオの能面のような視線に怯んで、思わず語気が強くなる。
「だって!!だって……!!」
「もう、やめろ。」
「……ユッタがっ!!」
「いずれ来る時が来ただけだ。気持ちは分かるが、無駄な魔力を使うな。まだ終わってないんだぞ。」
「~~~~ッッ!!」
「堪えられましたね。えらいですよ。」
悶えるベルの頭を数度撫で、フィオナは煤で黒く汚れた魔石を拾い上げる。
辛うじて燃えカスにならずに済んだ小さな魔石。
その魔石にはもう何も残っていなかった。魔力も。何も。
後ろから這い寄ってきた触手に渡すと、触手はそれを念入りに握り潰して、その破片が灰の上に降り注いだ。
崩れ飛ぶゴミの山はもう既に跡形もなく。
ユッタが生きていた証なんて、どこにもなかった。
「ユッタ……。」
ベルの寂しそうな独り言が地下浴場に反響してやけに大きく聞こえる気がする。
それを聞いたテレジアがびくっと肩を震わせ、おずおずとしゃしゃり出て来た。
「これ……。」
「これは……?」
「ユッタの……。」
テレジアの手にしたそれは、ユッタが投げ飛ばした一本の小刀だった。
その刀身をじっと見つめるベルの目は暗い。
テレジアは小刀をベルに渡そうとして、ベルが静かに首を振ってそれを断った。
「ごめんなさい……ワタクシ……何も……。」
「別にお前が悪いわけじゃない。誰も責めたりしていない。」
「でも……。」
「俺達はまだやる事がある。お前はどうだ?あるか?」
「……ありますわぁ。」
「そうかい。」
「ワタクシ、ユッタの仇を取りますのよ。」
「そうかい。」
「今度は止めませんのね。」
「……止めて欲しいのか?」
「いいえ。ワタクシ、人の忠告は極力聞かないようにしてますの。」
「そうだな。」
滲んだ涙を袖で隠して。弾ける鼻汁を手巾に預けて。
テレジアは一人減った三人の後ろをついていく。
来る時にに全て開けてしまった扉達は、開かないものなど既に残っておらず、ユッタの力はもう必要ではなかった。
テレジアはしょんぼりとしたベルの背中に向けた手を伸ばしたり引っ込めたり。
手にしたユッタの形見を強く握りしめるだけで精一杯だった。
悲しむ暇もくれない状況が忌々しかった。
涙を堪えてレオの後を追うベルの背中が痛々しかった。
かと言って、何もできない自分の無力が腹立たしかった。
やがて、何事もなくエントランスまで戻ってきてしまった一行は、そこで遊ぶ物体に目を奪われる。
「またいる……!」
「まだ生きてたか。往生際が悪過ぎるだろ。」
ふわふわとエントランスに毒の粉を撒き散らす白い蛾が、無傷のままエントランスで踊っていた。
第31話 ~ ホワイトデイ ~ へ続く




