月夜の逢瀬
第17話
~月夜の逢瀬~
それはとても空の綺麗な日だった。
か細き月明りは闇を暗く照らして。
それでいて、晴れやかなる星々は姿を見せずに騒いでいた。
いいや、騒いでいたのは自分の鼓動の方だったかもしれない。
だって、目の前の出来事がとても印象的だったから。
人でない人など見た事が無かったから。
いいや、それも正しくはない。
人でない人は、自分が最初に殺したのだ。
だからだろう。殺せると思っていたのだ。
人など、命など、簡単に終わるものだと思っていたのだ。
美しいと思った。
血飛沫の上がらないその断面が。
床に落ちたままこちらを見上げるその瞳が。
新しく生えてきた同じ顔が。
辛うじて視認できたそれら全てが、とても美しいものだと思った。
それに気を取られていて、後ろから迫りくる嘲笑に気付けなかった。
後にも先にもその時だけだった。尋常ならざるものに美を感じたというのは。
次に目を開けた時には、空は明るく険しくなっていた。
願わくば、もう一度あの美を感じたい。
その思いは日増しに大きくなっていったが、その時以上の感動はないだろうとも思っていた。
さて、それはこんな話だ。
辺りを夜が支配した。
街灯も消え失せ、ヘレルダイトを照らすのはただ一つ。
コーディン・ホテル。
明々と燃え立つそのホテルは、今日も夜を知らず。
コーディン・ホテルは眠らない。
ポツンと暗闇に佇むその堂々たる姿は、どこか寂しげにも見える。
極々僅かな月明りだけが、微笑むようにヘレルダイトの街を優しく包み込んでいた。
「来たか。」
メリー・メリー・メギストスの一角。
誰もいない、明りも点けない暗い部屋。
星から来る光がレオのシルエットだけを窓に青く浮かばせる。
「いいぜ。かかってきな。」
レオの独り言を皮切りに、鋭利な殺気が部屋の中に充満していく。
肌をザワつかせ、心を粟立て、その時が来るのを待つ。
「……っとぉ!」
秒どころか、それより速く。レオの鎧に切れ込みが入った。
瞬きも許さない高速の斬撃。
殺気の揺らぎを感じて咄嗟に身じろぎしていなければ確実に首を刎ねられていただろう。
「殺気を出し過ぎなんだよ。お嬢にも言われてただろ。」
軽口も束の間。更なる波状攻撃がレオに襲い来る。
「よっ、ほっ、ぐぅ、っと。」
右から左から。上から下から。音も気配も影も形もなく。
無数の一撃必殺が跳んで来る。
知らなければ避けきれないであろうその致命打は、全てレオの分厚い鎧に吸い込まれていった。
まるで紙きれのように鎧が切り裂かれていく。
およそ金属同士の衝突した音とは思えない、ぎゅんっとした鈍い音がレオの耳に届いた。
そして、その音が耳に届いた時には更に次の音が聞こえるのだ。
致命を避ければ避ける程、鎧は裂かれて無様な姿になっていってしまう。
かといって全てを完璧に回避できるような雑な攻撃ではない。
一撃一撃が的確に急所を捉えており、音も光も無く触れられた感触だけが残るその斬撃は、気配を読む以外の対処方法が無かった。
「おぐっ。」
一発。良いのが入った。
読み違いとも取れるし、単純にレオの反応速度を上回ったとも取れる。
よろめく足のその瞬間を狙ったかのように、更に良いのが一発入る。
狙いすました正確な一発。
それはレオの鎧を通り抜けて直接レオの皮膚を切り裂く。
「がひゅっ。」
こうなるともう、なぶり殺しだった。
数の暴力がレオを襲う。
「がああっ!」
どうにか防ごうと試みるも、防御の体を成していない。
防御が成立する前に次の攻撃がやって来る。
この広くも狭い室内をどのように飛び回っているのかは知らないが、四方八方縦横無尽一気呵成に切り刻まれる。
だがしかし、レオの分厚い鎧と生半な防御行動がその身を守っていた。
切り付けられた浅い傷は瞬く間に塞がり、血の一滴をも零さない。
安物の鎧だけが毛羽だったかのように傷だらけ。
「どうしたユッタァ!疲れたか!」
減らず口を一つまみ。
そう。ここまでは予定調和なのだ。
ここからが、本番。
挨拶代わりの殺陣はやがて終息に至る。
ここからは、本気の攻撃。
そしてそれは構える暇もなく襲い来る。
「……っ!」
レオの右腕の肘から先が飛んだ。
数瞬遅く瞬きをしていたら、胴体ごと真っ二つだったかもしれない。
鎧など意味を成していなかった。
物体同士が衝突した形跡がなかった。
その場所を何かが通っただけのように感じられた。
斬られたというよりは、分離させられた。
右手の切断面を見たレオはすぐさま短くなったままの腕を振り薙ぐ。
今度は何かにぶつかったような手応えがして、ゴツンと何かが転がる音がした。
「暗闇で動きを読まれてどうする。」
「僕も結構本気だったんだけど……。」
「狙いが分かりやす過ぎるんだよ。ちょっとは裏をかいた方が良いかもしれん。」
「裏の裏でもと思ってね。ちょっと決着を急ぎすぎたかなぁ。」
「せいぜい反撃には注意するんだな。相手が俺じゃなかったら今ので終わってるぞ。」
「……御忠告痛み入るよ。」
ばつが悪そうにそう言うと、ユッタの気配が再び消えた。
レオが一呼吸を置く。吐いた息が闇夜に紛れ、そして右手がじわじわと元に戻っていく。
大分早く回復している右腕が手首の形を再現し始め、それと同期するように床に落ちた右腕の残骸は煙のように空気中に溶けていく。
レオは残った左腕で腰の剣を抜き、振り返りながら横に構える。
ガチン!と刃が交錯する音が部屋に響いた。
刃から散った火花が、剣の中にユッタの驚いた顔を映して。
「バレてるのか。どうしようかな。」
「あれだけ何度も切り付けられれば、嫌でも分かるようになる。」
「ふふ。それもそうか。」
ユッタの含み笑いが薄く木霊する。
声の位置から場所を特定しようにも、声のする位置と殺気を感じる位置に食い違いがある。
恐らく高速で移動しているのだろう。
「こういうのなら、どうかな?」
レオの背中に硬いものが当たった。
それはコツンと音を立てて床に落ち、レオの足元にころんと転がる。
何かと思えばそれはビンの蓋だった。暗い星光が蓋の表面にいくらかの反射を見せる。
暗がりでそれを判別するだけの数秒が、次のユッタの攻撃を受け止めにくくした。
ガリっと鎧を削るユッタの刃。二人の影と同化している暗闇に、白い残像を残して消えた。
だがしかし、その刃はレオの肌を掠めるだけに留まり、筋繊維の一本すら千切れない。
「そんなこけおどしが通用するかよ。」
「ははは。やっぱり駄目か。」
ユッタは笑う。その口調はとても楽しげだ。
普段眠そうに食卓に着くその雰囲気とは似ても似つかない。
溜まりに溜まった感情が湧き出すかのように笑い、そしてレオを切り付ける。
その姿はまるで年の近い兄弟にじゃれる野生動物のようで。
コミュニケーションに飢えて誰彼構わずに飛び掛かるペットのようで。
遠慮も気遣いもない、ただその瞬間の享楽が全てだった。
つまるところ、ユッタはこういう時でもなければ発散の機会がないのだ。
「レオ、これはどう?これは?こっちの方が良いかな?」
頭の上から、肩の先から、手元から、やたらめったら無茶苦茶に。
部屋の備品がデタラメに投げつけられる。
おちょくられてるかのように思えるその矢弾の雨を振り払うのすら億劫になったレオは、ユッタに向かって声を張り上げた。
「だああ!遊んでんじゃねぇ!」
「なんだよ。もうちょっと付き合ってくれても良いじゃないか。減るもんじゃないんだし。」
「俺のやる気が減っていくんだよ!」
そう言うが早いか、レオは手にした安物の剣を暗闇に向かってブンブンと振り回す。
殺気のある場所を手当たり次第に叩いてはみるが、スカを食うばかりで手応えは一向にない。
闇雲に剣を振るうレオの癇癪に付き合う気力が萎えたのか。
ユッタの殺気が鋭くなった。
「そうそう。最初からそうすりゃいいんだよ。ったく。余計な手間とらせやがって。」
「ごめん、ちょっと黙るね。」
「全く最近の若者はこれだから……。」
レオがぶつくさ愚痴をこぼす。
流石に昨日の今日でストレスが溜まっているらしかった。
突然、暗闇に向かって呪詛を垂れ流すレオの開いた口が塞がる。
ヘレルダイトの明かりの一切が消えたのだ。
深夜を回ってまだ明るすぎる黄金の都の灯が、コーディン・ホテルの赤い火が、瞬きの間に消えて見せたのだ。
それは秒にすれば整数にならない僅かな時間。
たった一時の僅かな時間。
その短い時間の出来事だった。
レオの首が暗闇の宙に飛んだ。
いとも容易く豆腐のように崩れ落ちたその首は、床まで一直線に零れ落ちていく。
寸分の無照明を終えたコーディン・ホテルから再び差し込んで来た光が床まで伸び、レオの首の影をゆっくりと映写する。
ゴトリと重そうな音がして。床に二、三度跳ねて。
落ち首のまま、レオの喉がヒュウッと風を切る。
血は、やはり出ない。
不意を突かれたような、狙いすましたような。防御も回避もてんで間に合わない。
受け止める事すら満足に出来なかったユッタの最高速の一閃。
その致命の一撃を受けた側と言ったら。何でもないような様子ですぐに動き出し始めてしまった。
残された図体が周辺を眼鏡でも探すかのように床をまさぐり、大胆に転がっている自身の生首を見つけて拾い上げる。
そして、その切断面を首元に繋げて見せた。
「やりゃあできんじゃねぇか。前より進歩してるぜ。」
調子外れの声が聞こえた。その声は少し掠れていて、それでいて痰が絡んだような咳を誘発しかねない嫌な音だった。
頭と首の切断面がズレているのだ。見れば見る程に手品のようだ。
レオの肩が上下に揺れると、ピュイっと空気がおかしな所に入る音がした。
頭を押さえている両手が慌てて胡麻をするように動き出し、首と頭のベストポジションを探し始める。
やがて良さげな位置を見つけたのか、レオの声も普段の調子を取り戻す。
「今のを連発できれば言う事ないな。」
「……勘弁してよ。ちゃんと当てるだけでかなり疲れたんだから……。」
「体力が足りないなユッタ。昼寝ばかりしているからそうなるんだぞ。」
「……そちら側と一緒にしないで欲しいな。そっちはおかしなことやってるのに。」
「文句はお嬢に言うんだな。」
「今度会ったら伝えておくよ……。」
どこからともなく出現したユッタがやれやれと肩を竦めるその姿は、暗闇に慣れた目で見ると妙に堂に入っているように見えた。
ユッタがレオから視線を外し、これで終わりだと言うように歩き出そうとする。
「今伝えて下さい。」
ユッタの足が驚いたように跳ねてから止まり、行く手を遮る小さな障害物への衝突を回避した。
「お嬢。」
「……近くにいたのはなんとなくわかってたけど、どこまで見てたの?」
「最初から最後までに決まってるじゃないですか。私を誰だと思っているんですか。」
「え?うーん、人が苦しんでいる所を見るのが大好きなヤバイ奴、かな。」
「なんだ、合ってるじゃないですか。」
「合ってるのかよ……。」
疲れた様子の二人を差し置いて、フィオナの言葉は楽器を演奏するように滑らかに紡がれる。
「もう終わりですか?」
「うん。疲れた。もういいや。」
「こいついつもすぐ疲れるな。」
「ユッタはもうちょっと基礎的な体力をですね……。」
「あーやだやだ。人外はすぐそうやって努力不足のせいにするんだから。」
「ところでレオ。見ましたか。」
「ああ。コーディン・ホテルだろ。」
「珍しいね。あそこが居眠りだなんて。」
「……来るべき時が来ようとしているのかもしれません。」
「まだ一瞬だろ?当分は大丈夫なんじゃないか。」
「だと、良いのですが。」
「……お嬢達ってさ、そういう持って回った言い方多いよね。またいつもの二人だけの秘密?」
「ええ。私達デキてるので。」
「あーはいはい。」
詰まらなさそうな返事を返して、それきりユッタは興味など失せたと言わんばかりに口を噤んで部屋から出て行ってしまった。
それを音のみで確認したフィオナは、暗がりなど意に介する事もなくレオの頬に手を当てる。
指を輪郭に沿わせたまま喉の方までスッと滑らせると、細く細かい微細な触手がレオの首の塞がり切っていない裁断面から僅かに頭を出した。
上下に妖しく蠢くミクロな触手は、上のと下のとが互いに絡まり合って一つの塊になっていく。
束の間の修復が終わると、フィオナは体を預けるようにレオにもたれかかって見せた。
肩に頬を寄せたその両の瞳には明るみ始めた闇が映る。
「悪いな。久しぶりにやられた。」
「良いんですよ。私は痛く無いんですから。それより、レオ。」
「何だ。」
「死ぬ覚悟はできていますか?」
「勿論だ。お嬢の為なら惜しいものなんか何もないぜ。」
「よろしい。来る日に向けて、備えましょう。」
「……ああ、そうだな。」
気が抜けたようにニコリと力なく微笑んだフィオナの笑顔が柔らかな朝の陽ざしに染まっていく。
ふと見ると、コーディン・ホテルから放たれる悪趣味な光が忽然と消えていた。夜が明けたのだ。
時間をかけて昇り来る地平線からの太陽光が、部屋の中に重なる二人の影を一つに束ねた。
第18話 ~ 詫び石 ~ へ続く