もろびとこぞりて
第14話
~もろびとこぞりて~
その日、生まれた赤子に私の最大の欠点が引き継がれることはなかった。
それは妻の功績に他ならない。
彼女によって、私の最大の懸念事項は解決された。
彼女には感謝しなければならない。
私の全てを受け継がなかった我が子よ。
愛しき人の子よ。
願わくばその身に人としての幸福の多からんことを。
人の理を外れる事なかれ。
私の轍をなぞる事なかれ。
ああ、愛しい我が子よ。
人として生きて、人として死んでおくれ。
さて、それはこんな話だ。
ヨシュアがメリー・メリー・メギストスに訪れてから数日が経っていた。
相変わらずフィオナは自室に引きこもっているし、レオはベルに尻を叩かれているし、ユッタは自室に引きこもっている。
変わった事と言えば、テレジアの家事能力に微々たる進歩が見え隠れした事か、或いはメリーさん(若い)の化粧の乗りが若干の翳りを覚え出した事ぐらいだろうか。
何の変哲も無い日常だった。
何ら代わり映えしなかった。
何も起こらなかった。
何もなかった。
変わらないのだ。
連綿と続く人の営みにいきなり大きな変化は起こらないのだ。
全ては極小規模な変化の連続なのだ。
そう、例えば。
「ワタクシ、お嫁さんを目指しますわぁーー!!」
「はいはい頑張ってね。」
「頑張れ。」
「頑張れよ。」
「頑張ってね。」
「頑張って下さい。」
「何ですのそのやる気ない声援は!?もっと言葉巧みにワタクシを激励して下さりませんこと!?そんな投げやりな応援では叶うものも叶いませんわぁーー!!」
食後の穏やかな雰囲気だったはずのテーブルで、エプロン姿のままのテレジアが突然何かを叫び始める。
まともに聞く耳を向ける者こそメリー・メリー・メギストスにはいなかったが、彼女はそれでも決意を新たにしたらしい。
「ワタクシ新たな目標を立てたんですのよ!あらん限りの祝福と歓待を受けて然るべきですわぁーー!!」
「ちょっと前も買収するだの取り壊しするだの辱めを受けさせるだのでしょっちゅう目的がブレてたじゃん。何回変わるのさ。」
「非常に高度な柔軟性を持って臨機応変に対処しているだけですわぁーー!!状況が変われば目標も変わる。常識ですのよ!!」
「ああもう、ああ言えばこう言う。」
「弁が立つ事に関しては他の追随を許すつもりはございませんわぁーー!!」
「うるさいですね。今何時だと思ってるんですか。良い子は寝る時間ですよ。」
「まだ正午にもならないけど。」
「やめなさい!謎の赤い物体をうねうねさせてワタクシを威嚇するのは!ワタクシ、嫁入りまでは純潔を守るつもりなんですからねっ!!」
「触手には勝てなかったよ……。」
「事後感を出すのもやめなさい!」
結果としてテレジアは赤い触手に全身を鞭打ちされ、びえぇと泣きが入るまでしこたま打たれに打たれが、それでも彼女の心の火は絶える事がなかった。
テレジアの目の奥はキラキラと光り輝き、まるで遥か上空を流れ落ちる彗星のように煌めいている。
「あれからちょっと落ち着いたせいか、あの子のやる気スイッチが入っちゃったみたいね。」
「それはあれか。面倒な事になるという事か。」
「視野の狭い子だから、一つの事に気を取られるとずっとそればっかりになるのよねぇ。」
「あーあー。猪突猛進の奴だ。迷惑な奴だ。」
「レオさん、面倒見て貰って良い?」
「何で俺が。預かったのはメリーさんだろうが。」
「私は一日一緒にいるだけでもうギブアップよ。体力持たないわ。」
「おいおい。年寄りみたいな事言わないでくれよ。それでもメリーさん(若い)か?」
「あの子底なしよ。ベルちゃんよりよっぽど元気なんだもん。」
「呼んだ?」
「呼んでない。向こう行ってろ。邪魔だ。」
「むっ。私を仲間外れにする尻はこの尻か!」
「やめろォ!お前いい加減にしろよ!」
「べー。」
「クソガキャァ!」
「逃げろー。」
「待てコラガキ!」
「やっぱレオさん子供の扱い上手いわ。って事で、よろしく。」
「ざけんな。」
数日間テレジアの世話を一手に担ったせいでヘトヘトになったメリーさんが手近な所に責任を転嫁していた。
疲労の色濃いその表情には化粧の綻びがいくつか見て取れる。
そもそもテレジアの受け入れはメリーさん(若い)がその場の勢いで言い出した事だったのだが、浅慮も浅慮、わずか数日の間に後悔を繰り返していたらしい。
当のテレジアは今までの堅苦しい実家での暮らしとは違い、同年代ぐらいの仲間に囲まれてそれはそれは楽しくやっていた。
彼女はメリー・メリー・メギストスでの生活のように、まともに相手をされた事が少ないのだろう。
はしゃぎにはしゃぎ、わずか数日で既にベテランの家政婦のような不遜な態度を取るようになっている。
かと言って、あれだけ大々的な受け入れをしてしまった手前、メリーさんもすぐにつまみ出すような事はできず、新たに頭痛の種を増やす事になってしまっているようだ。
「レオさんがあの子の相手をしていてくれないと、おちおちおゆはんも作ってられないのよ。」
「ユッタァ!」
「やだよ。僕がそういのできないのはレオが一番知ってるでしょ。」
「そう言わずにやってみろってユッタァ。前からお前は出来る奴だと思ってたんだよ俺は。」
「心にも無い事言ってないでレオがやりなよ。僕は昼寝で忙しいんだから。」
「お嬢!」
「躾と称して殺しても良いなら私がやっても構いませんが。」
「ヒイィーー!!」
「そんな事したらコーディン・ホテルとの全面戦争に突入しちゃうだろうが。」
「コイツを人質に取れば良いのでは?上手く行けば身代金もたんまり……。」
「お父様は金の亡者ですわぁーー!!そんな卑劣な人質作戦になんて絶対屈しません事よ!!」
「ほう。果たして本当にそうなのか。試してみる価値はありそうですね。」
「やめろってお嬢!相手はエログロナンセンス何でも有りの無茶苦茶インチキ集団だぞ!お嬢だって捕まったら何されるかわからないんだぞ!ダブルピースさせられるかもしれないんだぞ!」
「お、お父様はエログロナンセンスなんてしませんわぁーー!!謝罪と撤回を要求しますわぁーー!!」
「ダブルピースは否定しないんだ。」
テレジアをどうにか別の誰かに押し付けようとしたレオの目論見は儚く散った。
ユッタもメリーさんもフィオナに至るまで、お前がやれよの一点張りで一向に話が進まない。
鬱陶しい新人の世話なんて誰もやりたがらなかった。
それはテレジアの扱いの面倒臭さを思えば当然の反応であったし、事実レオの方もこの上なく面倒臭いと思っていた。
当のテレジアだって、責任を押し付けられた者は大変だろうなと相手の身を案じた程だ。
かと言って、テレジアを全くの野放しにするという選択肢は、メリー・メリー・メギストスにとってもコーディン・ホテルにとっても、とても危険な事であるというのが共通の認識だった。
最終的に折れるのはいつだってレオの役目なのだ。
それに異を唱える心清き者はメリー・メリー・メギストスには一人として存在しない。
当のテレジアだってそれが当然であるとの考えを改める事は露にも考えなかった程だ。
「じゃ、話も纏まったようですし、よろしくお願いしますわぁーー!!私を立派なレディにするとこの場で固く誓って下さいなぁーー!!」
「おいおい話が違うじゃないか。お前が誰の力も借りずに勝手に立派なお嫁さんになるんだよ!」
「個人の力だけではいずれ限界が訪れますわぁーー!!互いに協力して研鑽を積み、大きな目標に対して一丸となって達成できるような努力を共にしていこうと言っているのですわぁーー!!」
「そこだけ聞けば立派なんだけどなぁ。」
「レオさん、早速で悪いんだけど、その子連れてお買い物行って来てくれる?お金をちょろまかさないかと、指定された品物を正しく調達できるか見張ってて欲しいのよ。」
「ワタクシ、お金をちょろまかしたりはしませんわぁーー!!ただちょっと計算した金額と支払った金額に誤差が発生してしまうだけですわぁーー!!」
「ああ、頭が残念なのか。そういやそうだったな。かわいそうに。元気出せよ。」
「やめなさい!本気の同情心から励まそうと優しい言葉を投げかけるのは!」
「私も行く。」
「いいよお前は。部屋にいろ。これ以上俺のストレスゲージの伸びを加速させるな。」
「やだ。行く。」
「いいって。来るなよ。ストレスなんだよマジで。マジで。」
「行く行く行く!」
「ストレス!」
「連れて行ってあげれば良いじゃないですか。じゃりん子に社会勉強を叩きこむのも大人の大事な務めですよ。」
「お嬢、他人事だと思って……。」
「他人事ですから。」
つんと澄ましたフィオナの表情には、早くうるさいのを連れて出て行けと書いてあった。
まさか生殺与奪の大部分を握られている相手に逆らう程の度量がレオにあるわけもなく。
あえなく首を縦に振る事になった彼の狼狽した背中を、ユッタが励ますように一度だけポンと軽く叩いた。
「支度をしてきますわぁーー!!お化粧とお着替えがあるので半刻程お待ち頂きますわぁーー!!」
「おう。もう好きにしてくれ。」
「言質を取りましたわぁーー!!ワープ進化で究極完全体となったワタクシをまざまざと見せつけてやりますわぁーー!!」
「ベル、お前も帽子か何か被ってこい。」
「なんで。」
「女の角付きが何の変装もせずに表をホイホイ歩いてみろ。体の一部分を露出した黒尽くめの男達に拉致されて腹筋ボコボコにパンチ食らうぞ。」
「何それこわい。」
「まぁ、あながち間違いではないね。」
「ほら。ユッタもああ言ってる。」
「分かった。」
「僕の帽子貸してあげるよ。僕の部屋から好きなの一つ持ってきていいよ。」
「ありがと。ユッタは優しいからすき。」
「俺は?」
「ケツデカ。」
「デカくねぇよ!お前が散々早押しボタン代わりに叩くから腫れてんだよ!皮膚ってのは叩くと腫れるんだよ!勉強になったなクソガキ!」
「うん。」
ベルは短い返事を残して階段を駆け上がり、そしてものの数分もせずに駆け下りてきた。
その頭にはユッタの私物と思われる黒い帽子が乗っかっていた。
彼女の角を隠すには容量がいささか不十分だったようで、帽子の天頂が角の先端で持ち上がり、まるで動物の耳のように尖がってしまっている。
「あー……まぁ、そうなるよね。」
「どう?」
「ふっ、くくっ。似合ってるな、クソガキ。まるで獣人だ。クククッ。」
「にゃー。」
「ぶふっ、やめろお前、俺を笑い殺そうって魂胆か。」
「かわいいって言え。」
「くふっ、か、かわ、くく……。」
「言え。言わねば、折る。」
「か、わいい。」
「よし。」
「あら。ベルちゃんかわいいじゃない。いいわねぇ。年相応って感じするわ。」
「ねこです。よろしくお願いします。」
「それもう生地伸びちゃってるだろうからあげるよ。元々使ってないものだし。」
「わーい。」
「後はあの頭が足りない方のお嬢様が降りて来るの待つだけか。」
しかし、待てど暮らせど、テレジアの準備が終わる気配は無かった。
次第にイライラしてきた階下の住民は、ベルを使いに出すことで天岩戸を攻略する事を考えた。
風のように階段を駆け上るその姿は疾風怒濤。
降りる姿はさながら消防士。
戻ってきたベルは両手でバッテンマークを作り、その作戦が失敗に終わったという事をゼスチャアで語り上げる。
それを見て、いい加減堪忍袋の緒がブチブチと音を立てて千切れ始めた狭量娘(金髪)が結構な勢いでテレジアの部屋に乗り込み、まだ下着姿の彼女を無理矢理引き摺って来るというハプニングがあった。
キャーキャーわめくテレジアは震える腕で自身の身体を隠しながらその場で縮こまっていたが、メリーさん(若い)がどこからか少々流行遅れの服を持ってきて無理矢理着させると意気消沈したのかすぐに静かになったので多分大丈夫だろう。
「うぅ……辱めを受けましたわぁー……。」
「別に誰も見てないよ。」
「そうじゃなくてぇー……嫁入り前の女の体をみだりに群衆の前に曝け出すのは倫理的におかしいと言っているのですわぁー……。」
「支度が遅いのが悪い。兵は拙速を尊ぶ。常識ですよ。」
「味方がいませんわぁー……。」
「それじゃ、行ってくるわ。メリーさん、買うもののリストくれ。」
「はい。行ってらっしゃい。おゆはんまでには帰って来てね。」
「任せろ。」
ベルがなけなしの力を振り絞ってメリー・メリー・メギストスの正面の扉を開ける。
扉に備え付けられた呼び鈴は今日も軽快にチリンチリンと鳴り響く。
その門戸をくぐる者に最大限の祝福を与えるようだった。
扉の先に広がる道の果て、コーディン・ホテル。
正午近い太陽をバックに映し出される荘厳な造りが、その時だけはどことなく温かく感じられた。
第15話 ~ 万物の先輩 ~ へ続く