5.森ノ宮将彦のターン
「バイトで、学園のアイドルの婚約者役やってます」の後半パートの加筆修正版です。
「森ノ宮将彦、か。……ふうん、そういうことね」
小さく呟き、ちらりとこちらに目線をよこす。
その眼差しに、今度きっちり事情をきくからなという脅しを感じ、口元を思わず引くつかせてしまう。
しかし、今、この場をどうにか乗り切りたい私は、先送りにする方向に賛成を示すべく軽く首肯しておいた。
「今度の土曜日。納得いく答え用意しとけな。で、ついでに」
「分かってる、いつもより品数多くしときます」
だから、さっさとこの場から退場してしまえ。
私の心の叫びを受け取り、素直に扉の方へと向かってくれた。
取りあえず、一難去ったので、安堵のため息をついていると、
「雪?」
先ほど以上に、低温な麗しい声に名前を呼ばれた。
ゆっくりとこちらに近づいてくる婚約者様の姿に難を逃れたはずの私の身体が再度硬直した。
「も、森ノ宮せ、」
「ゆ、き?」
うっかり、船越一香として呼びかけようとするのを、将彦さんが笑みをさらに深めて責める。
「……っ、ま、将彦さん。い、今のはですね、」
「さっきすれ違い様に、体調悪い女をこき使うんだ? って罵られたんだけど、やっぱり体調悪いの?」
椅子から立ち上がれないでいた私の傍に将彦さんが膝をつく。
「化粧で、巧く誤魔化してるね。よく見ないと分からないや。無理はするなって、オレは言ったよね」
そう。
昼休み、桃太くん経由から知ったのか、体調が悪いのなら今日は休めと連絡は頂戴していた。
それでもこのくらいならと、無理を通して大丈夫と返事をしてしまったのだ。
「でも、」
「でも、じゃない。こんなに指先も冷たいし。どこが平気なの」
扇子を握りしめていない方の手をとられ、指と指とが絡むように握りこまれる。
それは、噂の恋人繋ぎ!! と衝撃を受ける間もなくもう一方の手で頬になでられる。
「ねえ、今の男は、何者?」
「……初対面の方です」
将彦さんが雪子嬢としての対応をお望みであるのなら、多智花雪子としての、模範解答を述べる。
「でも、僕と同じ距離を許してたよね? 君は、誰の、何?」
「将彦さんの、婚約者、です」
「そうだよね。なら、今のはダメなことって分かるよね」
頬に手をあてられてなければ、ものすごい勢いで首肯していたが、今はできないので小さく頷いておく。
「ご、ごめんない。不意打ち……というか、その、眩暈を起こしてですね、とっさの判断を」
「そんな言い訳ききたくないな。この距離が許されるのは僕だけ、でしょ」
なんと言ってこの場を乗り切るか言い訳をしながら考えてると、こつん、とおでこに軽い衝撃を受ける。
何事? と視線をあげると、かつてないくらい近くに将彦さんの顔があり、驚いて距離をとろうとするも、繋がれていた手が腰にまわっていて身動きがとれない。
桃太くんにもほぼ毎回同じようなことされてるに、なんでこんなに胸がざわつくんだろう。
「今度の土曜日って、なんのことだ?」
がらりと変わった、声色と表情に、今度は船越一香に問われいていると察す。
「……森ノ宮先輩には、関係ないですよね」
それならばと、自分の意志できっちり答えを返す。
さっき遭遇した、小学生の時から続く腐れ縁の同級生との間にある、ちょっとした事情には触れてほしくない。
家族にさえちゃんと話してないことを、バイトで婚約者役を務めているとはいえ、付き合いの浅いこの人には知られたくない。
「斎郷海人。斎郷財閥の次男坊。お前とは小学一年生からずっとクラスが同じの腐れ縁の同級生だったか」
知ってるじゃないか。
そりゃ、こんな重要な役割を任すんだから身辺調査はするでしょうけど、勝手に調べられていい感情はしない。
「あと、もう一人。末本大介。この近くの大地主の孫だったか。家族で食堂を経営していて、その手伝いを不定期でしてるんだってな」
「……よく、ご存じで」
もう一方の手で、こめかみから頬、顎へと手を滑らされて、背筋になんともいえない感覚が奔る。
顎に添えられたまま、親指で下唇を撫で上げられて頬に朱が差す。
「面白くないな。この距離をオレに許すのに、他にも……がいるなんて」
だんまりを決め込む私にこれ以上は無駄と感じたのか、舌打ちをして詰めた距離をもとに戻してくれる。
その際に、呟かれた台詞は小さすぎて私の耳には途切れ途切れでしか届かなかった。
「じゃあ、教室にもどろうか?」
学園のアイドルの仮面を付け直した将彦さんが、姿勢を正し改めて私の横に膝をつく。
「はい?」
自分だけ婚約者モードにさっさと切り替えた将彦さんに意識が追いつかず、間抜けな返事を返した瞬間、ふわりと身体が持ち上がった。
ちょ、これ、お姫様抱っことかいうやつ!? まずい、体重がバレる!!? それは女子としていただけない状況だし!
「ま、将彦さん!!」
「はいはい、暴れないでね、危ないから」
抵抗する私を軽くいなして、教室を出て廊下をさくさく突き進む。
細い身体と思っていたけど、意外と筋肉ついてるんですねとか知りたくなかったし。
人の少ない放課後とはいえ、学園の有名人物が廊下を婚約者を抱っこして歩いてなんかしてるわけで、皆の視線が凄まじい。
お願いだから、見ーなーいーでー。
見たくなる気持ちは分かるけど、お願いだから私たちのことは構わずに散ってください!
「将彦さん! 止まってください!!」
「ん?」
無理、これ、絶対に無理!!
Gクラスの教室に辿り着くまでに、私のライフがゼロになってしまう。
頬を染める私の顔を、面白そうに見る将彦さんに殺意を感じる。
わざとか、わざとなのか。
絶対に私の反応を楽しんでますよね?
意趣返しか! そこまでおこだったんですか!?
雪子さんなら、どうやってこの状況を変える?
考えろ、考えろ。
いくら、将彦さんが大好きだからって、ここまで見せつけたいわけじゃないはずだ。
抱きかかえられて、うっとりするキャラじゃない、はず、ですよね、雪子さん!
どちらかというと、あれだ、あれ、すんごく有名なアレですよね、雪子さんの演じてるご令嬢は!
ツンでデレる感じの方向性ですよね。
よーし、頑張るぞーと、気合を入れる。
私の願い通り、立ち止まってくれた将彦さんの顔を見上げる。
「降ろしてくださいな」
「だーめ。雪、体調悪いんでしょう? そんな状態の雪を歩かすなんてできないよ」
「で、ですが、こんなに、皆の注目を集めるのは、」
合わせていた視線を外し、胸元に擦り寄って、将彦さんだけに聞こえるように囁く。
「……恥ずかしいですわ」
えぇ、陥ってる状況よりも、今こんなこと言ってる自分が一番恥ずかしいですけどね!?
頬染めながら、何言ってるんだよ!
こんなこと、船越一香としてなら絶対言わないし、やらないし!!
つーか、その前に全速力で逃げ出すし。
「仕方ないな。だったら今度から体調悪い時は無理したりしないって約束できる?」
顔をあげないまま、こくりと首肯しておく。
この赤く染まり過ぎた顔をあげることはできない。
「じゃあ、今度僕に嘘ついたら、おしおきだよ」
おしおきという言葉に、思わず顔をあげて将彦さんを凝視する。
え、おしおきってどういうこと。
「お、しおき、ですか?」
「そうだよ。雪がやめてって静止しても絶対にやめてあげないから、覚悟してね」
な、何をするおつもりですかっ!!?
なぜにそのように色気ただ漏れのオーラを出しやがるんですかっ!
そんな顔できるんだなら、いつもの取り巻きのお嬢さん達にその色目使って、早々に離脱してGクラスに戻ってこいや!!
私の怯えっぷりに満足したのか、ゆっくりと下ろしてくれる。
ようやく地に足をつけれて、ほっとする。
自ら二足歩行するのって大事だよね?
と、将彦さんが耳元に顔を寄せて、
「もちろん、今のはお前にも言ってるからな。覚えとけよ」
船越一香へも、トドメをさしてくる。
ぼふんと、自分の顔が赤く染まるのが分かる。
何、今の吐息多めの明らかに狙ったイケボ。不意打ち過ぎるでしょう?
照れ隠しにぷいっと、顔をそむける。
やばい。ドキドキがとまらない。
そんな様子に小さく笑いながらも、将彦さんはしっかりと私の腰に手をまわす。
……Gクラスに辿り着いたら、速攻でその腕を振り落してやる。
背けた視線の先には、私たちのやり取りを遠巻きに伺う一般生徒たち。
「見世物ではなくてよ! さっさと散りなさい!!」
見世物ですよね、見ちゃうよね、分かってるけど今は無理。
ごめんなさい、この荒れ狂う怒りをやつ当たりさせてくださいねっ!
と心の中では平謝りしながら、雪子嬢として一般生徒の皆々様に一瞥をくれておく。
「こら、恥ずかしいからって他の人に当たらないの。後でいくらでもやつ当たりでも何でも付き合ってあげるから、さっさと教室に戻るよ」
あーなーたーのーせーいーでーすー!
くそぅ、覚えてろよ、いつかぎゃふんと言わせてやるからな。
バイトの追加料金も、後できっちり櫻野さんに請求してやる。
通常料金に含まれてなんかないですからね、ここまでの絡みとか!
お仕事、お仕事、と自分に言い聞かせ、もう一仕事と婚約者様にデレておく。
「……ふん」
まだ怒ってますという体を保ちつつも、きゅっと自らも将彦さんに引っ付く。
「上出来」
私にだけ聞こえるように囁かれたお褒めのことばに、目線だけで抗議をし、移動を開始する。
その後、無事にGクラスに辿り着いた瞬間に、速攻で将彦さんを突き飛ばし、先に帰還していた左京さんに抱き着いた私は悪くないと思う。
取り敢えず、癒しが欲しかったんです。