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第9章 真澄の秘密

 春の終わりの風は、木々の梢を揺らしていた。

 陽の光が新緑に反射し、そのまわりの空間を薄い緑色に染めていた。木々の若葉は暴力的ともいえるエネルギーを放射していた。

 真澄は背の高い木々を嬉しそうに見上げていた。時折強く吹く風が彼女の柔らかな髪を舞い上げる。夏用の制服は真っ白で、紺とグレーのチェックのスカートはしなやかな肢体にフィットしていた。

 カズは神社の濡れ縁に座って、目の前の樫の木をスケッチしていた。

 この神社の境内に十時に集まるはずだったが、十五分過ぎてもトオヤマの姿はなかった。

真澄がカズの隣に座り、左手にはめてある腕時計をちらりと見ながら呟いた。

「トオヤマ君遅いねえ」

「うん」

「今日も来ないのかなあ」

 真澄は紺色のディバッグの中身を確認しながら、不安そうに訊いた。バッグの中にはクッキーの袋とポットが入っている。

「いや、あいつ、今日は来ると思う」

「どうして」

 彼女のまっすぐな視線を受け、カズは少しどきまぎしながら答えた。

「あいつ、昨日ちゃんと返事をしただろ。俺同じクラスだけど、あいつがまともに返事したの、中学に入ってから初めて聞いた。だから多分今日は来るよ」

「そうかな」

「ところで、小林は本当にクッキーとお茶以外に何も持ってこなかったんだ。すごいな」

「すごいって当たり前でしょ。市川君はどうしてスケッチブックなんか持ってきたの」

「どうしてって今日はスケッチしに来たんだろ」

「もう、市川君ってわかってないのね」

「えっ、なになに? どういうこと」

 彼女の言葉にカズは動揺した。その仕草がおかしかったのか、真澄はぷっと吹き出しながら優しく笑って答えた。

「今日はともかく、トオヤマ君が出て来やすくすることが第一なのよ。彼は全然部活動に参加していないから、いきなりスケッチしようと言っても難しいでしょ」

「あーっ、そうかあ。俺ってにぶいなあ」

「ふふっ、でもその図太いところが、市川君のいいところでもあるんじゃない」

 カズはその言葉を聞き、心底嬉しかったが表情には出さずにスケッチを見直す振りをした。

「おい」

 背後で低く感情を押し殺した声がした。

 二人は驚いて声のする方に目をやると、ゴリことワタナベ教諭が疑り深い表情をして立っていた。灰色のトレーニングウェアは盛り上がった胸のところでだらしなく大きく開いており、その威圧的な姿は教育者というよりは、暴力を生業とした人間に見える。

 すぐさまカズと真澄はゴリに言われるまでもなく座っていた濡れ縁から降り、彼の前に立った。ゴリは何も指示していないが、二人ともそうしなければいけないような気がしたからだ。

 ゴリはまず真澄の足元に視線を落とし、靴、靴下、スカート、ディバッグ、ブラウス、顔、髪と順番にその疑り深そうな三白眼でチェックしていった。その視線は、体の内部まで強引に入り込むようで、彼女は急に息苦しさを覚え脈拍も速くなってしまった。

 カズはゴリの高圧的で無遠慮な態度に激しい嫌悪感を抱いていた。このままじっと彼の冷酷な視線に自分たち二人が無抵抗のまま晒されることは、正しくないことに従っている気がした。しかし、彼は自分が何をどうしてよいのかわからなかった。だから無様に感じていても突っ立っているしかなかった。

 ゴリは無言のまま二人の全身をくまなくチェックした。

「お前ら何年何組だ?」

「・・・一年B組、市川和男」カズはぶっきらぼうに答えた。

「一年A組、小林真澄です」

「小林・・・・・・小林ヒカルの妹か?」

「ハイ」静かに頷く真澄をゴリはしばらく凝視していた。彼の頭の中に解決のつかない問題が突然現れ、そのことについて思い悩んでいる、そんな表情が一瞬浮かんだ。しかし次の瞬間、彼は我に返っていた。

「お前ら、土曜の朝からこんな所で何やってんだ!」

「俺たち美術部で、デッサンの練習のためここに来ているんです」

「デッサンの練習? 小林! お前はスケッチブックとか持ってきてないじゃないか。いい加減なこと言うな!」

「美しい風景を見ることも絵を描く勉強だと、山下先生は言っていました」真澄は必死に返答した。

「嘘だと思うのなら山下先生に聞けばいいじゃないですか」カズの言葉は怒気を含んでいた。

「なんだぁ、その口のきき方は! それが教師に対する態度か。あん? 文化部の奴らは口だけは達者だなあ。おい、お前ら、お前らみたいな頭でっかちが、恋愛の真似事をしてややこしい事件を起こすんだ。部活にかこつけてデートなんかするなぁ! ボケ!」

 カズは学校での息苦しい雰囲気の原因はこいつだと悟った。中学生の自由な発想だとか繊細な感性とかを不要で有害なものと見なし、教師の考えを押しつけることが教育だと思い込んでいる典型的な人物が目の前にいた。

 彼はこれまでの経験から、ゴリのような教師が理不尽な行動をするのは仕方がないと割り切っていた。けれども真澄がすっかり元気をなくしていることは、彼はとても気がかりだった。ゴリの攻撃対象が自分ではなくて彼女だという気がして不安でもあり、徐々に怒りがこみ上げてきた。

「おい、一年の美術部員は二人しかいないのか? ええ、小林どうなんだぁ」

「三人いる」

 ふいに後方から聞き覚えのある声がして、ゴリは驚いて振り返った。

「トオヤマ」

 トオヤマの動かない目がゴリの目をまっすぐ見つめていた。

 息を呑む雰囲気があたりを包み、その状態が数秒間続いた。風が止んでいた。やわらかな五月の陽光は無関心に降り注いでいる。

「お前みたいな奴が美術部か。お似合いだよ。どうせ幽霊部員だろ」

「そんな言い方ひどいじゃないですか。トオヤマ君が体調を崩していることは先生だった知っているでしょう」

 真澄の声は珍しく感情的に響いた。

「フン! お前ら、よく聞けよ。中学生くらいまでは身体を鍛えなければダメだ。社会はお前らが思っているほど甘くない。生きるってことは自分で自分を守るということだ!  身体も心も強くなければ生き延びることはできないんだよ! 小林、お前なら、この意味がわかるだろ、あん? 他の二人の馬鹿に教えてやれ」

 ゴリの細い目がジロリと真澄の方へ動いた。その時、彼女は右手に持っていたディバッグをストンと落としてしまった。けれども彼女はそのことにまったく気付いてはいなかった。彼女の顔色は蒼白になり体は小刻みに震えていた。カズもトオヤマも彼女のこのような姿を初めて見たのでびっくりしてしまい、いったい何が起こったのか、さっぱりわからなかった。

 チェッと舌打ちすると、ゴリはこれ以上話しても仕方がないといった表情を浮かべ、その場を足早に立ち去った。

 真澄は膝を抱え座り込んでしまった。目をつぶり、持病の発作が通り過ぎるのを待つような感じで、長く深く呼吸している。彼女は数分間そのままの姿勢で同じことを繰り返しただろうか。すでに先ほどまでの体の震えは消えていた。

 カズはゴリがいなくなったことと、彼女の様子が落ち着いてきたこともあって少しほっとした。彼も座り込んで彼女の顔を眺めたが、真っ青だった頬も少しずつ赤みがもどってきたことがわかり、ようやく安心した。

 その間トオヤマはゴリの帰っていった方向を険しい目つきでずっと見ていた。

 しばらくすると真澄は立ち上がり、うーんと言う声とともに大きく背伸びをした。そして少しあっけにとられているカズに向かって

「市川君、心配した?」と、いたずらっぽく問いかけてきた。

 予想外の言葉にカズは、「ああ、ウン」と答えるしかなかった。

「小林」

 突然のトオヤマの声に二人はびっくりした。そして、なぜかその声は彼らを緊張させた。

「小林の兄貴は、小林ヒカルか?」

 その言葉のために再び真澄は息が止まったかに見えたが、彼女はトオヤマの問いに小さく頷いた。するとトオヤマは何かを考えているような、何かに耳を傾けているような表情を浮かべ、そして突然頭を両手で抱えこんだ。

「あのブタ野郎が、すべて悪いんだ。ぶっ殺してやる、ぶっ殺してやる!」

 トオヤマは独りでぶつぶつ言いながら、二人に背を向けて歩き始めた。カズは慌ててトオヤマの左肩に手を掛け引きとめようとした。だが彼はその手を乱暴に振り解き、反射的にカズを睨んだ。その目の光はいつもカズが教室で目にしたものとは、明らかに違っていた。どんよりとした力のない目ではなく、凶暴で狂気に満ちた光を放っていた。その禍々しい視線にカズは圧倒され、その場に立ち尽くした。

「トオヤマ君、待って!」

 真澄の悲鳴に近い言葉に、トオヤマは「はっ」と反応した。そして彼女の存在に初めて気がついた表情を浮かべ、彼女を見つめた。その目には先ほどまでの凶暴な光はなく哀しみの色が浮かび、また泣いているようにも見えた。しかし、彼女の声がトオヤマを引き止めることができたのはほんの数秒間で、彼は突然走り出し、二人の視界からあっという間に消えてしまった。全力で走りながら、何事か言っているその姿は、二人をひどく不安にさせた。

 カズはトオヤマが走り去った方をぼんやりと眺めながら考えていた。(せっかくトオヤマの奴を元気づけようとみんなで準備したのに。ゴリの野郎のせいでぶち壊しだ。だけど小林の兄貴、ヒカルっていってたっけ。その名前が出ると小林は落ち込むし、トオヤマは切れるし、ゴリの野郎まで変な顔をするし、一体どういうことだ?)

真澄の兄に関わることについて、カズは自分には手に負えないような問題があるのでは、漠然とそんな気がしてきた。

 彼は気を取り直して真澄の方を振り返った。彼女は思いつめたような、何か辛いことを思い出したような表情を浮かべていた。

 カズはまたわけがわからなくなってしまった。こんなに感情が不安定な真澄を見るのは初めてだ。そのとき彼は自分が強く心惹かれている女の子が、自分とは全く違った遠い世界に住んでいるのではないかと感じられた。それは彼にとって淋しく辛く想いだった。そして自分が十三歳であることを悔やんだ。自分の力の弱さ、知識の乏しさ、心の狭さをまざまざと意識してしまう。「はぁー」と深いため息が知らずに出ていた。その声に気付き、真澄も少し疲れた声でポツリと言った。

「市川君、クッキー食べようか」

 二人は自分たちを縛っている重苦しい空気を跳ね除けるかのように、神社の方へ足を進めた。


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