第8章 美術室での会話
それから二日後、トオヤマはクロード・モネの絵の前にいた。
家にいても母親の神経質な視線が始終つきまとい窒息しそうだった。しかし彼は外出しても行きたい場所などどこにもなかった。たまたま机の上にあったモネのチケットが目に入ったので、時間つぶしになるかと思い美術館に足を運んだにすぎない。
(そういえばカズと小林という女子と待ち合わせの約束をしたな。いつだったのだろう) 今の彼は人との約束を守ることなどできなくなっていた。
トオヤマは美術館に入ると人の流れに沿って、ぼんやりとモネの絵を眺めていった。こんなもの、なにが面白いのだろうと思いながら機械的に視線を移していった。
「トオヤマ君」突然、右肩を軽く叩かれ彼は驚いて背後を振り返った。そこには山下先生が笑顔で立っていた。
「山下、先生・・・」
「トオヤマ君、市川君や井上さんといっしょに観に来なかったのかい?」
「はあ・・・」
「そうか、日程が合わなかったのかな。まあいいや。ところでどうだい。クロード・モネの絵は? すばらしいだろう」
山下先生の問いにトオヤマは何と答えたらよいかわからなかった。しばらく考え、そしてモネの絵を改めて見つめた。
「モネの絵は嘘っぽいです」
その言葉は彼自身、思ってもみなかったものだし、美術部の顧問も驚いた表情を浮かべた。
「嘘っぽいってどういうことかな」
山下先生は穏やかにたずねた。
「世の中、あんなに光り輝いているわけがない」
トオヤマは硬い声で答えた。その答えは山下先生にとって驚きだった。そして、それはトオヤマの必死の叫びでもあった。山下先生は静かに語りかけた。
「確かに世の中がどう見えるか、一人ひとり違うよね。モネにとっては、世の中が絵のように光に満ち溢れ、美しい色がたくさんあったように見えたのだろうね。僕なんかも、モネみたいに見ることはできないけれど。トオヤマ君は今の世の中、どういう風に見えるのかな」
「灰色・・・・・・」トオヤマは投げ捨てるように言った。
「灰色か。君にとって世界は灰色に見えるの?」
それっきりトオヤマは口を閉ざしてしまった。
山下先生は目の前の中学生がすでに語るべき言葉がないのだと、本能的に理解した。
「トオヤマ君、たまにでもいいから放課後、美術部に顔を出してみないか。市川君も井上さんも待っていると思うし。もちろん僕だって君が来てくれると嬉しいし。うん、調子のいい時でいいよ。辛いときはもちろん休んだほうがいいけど」
トオヤマはその言葉を聞くと小さく頭を下げ、出口の方へ足早に歩いて行った。山下先生は黙って彼を見送るしかなかった。自分が勤めている学校の痩せ細った生徒がいつの間にか消え去ってしまうではないかと、漠然と思いながらその場に佇んでいた。
ゴールデンウイークが終わってもトオヤマの遅刻は続いていた。登校する時刻も大幅に遅れ始め、学校に着くのが昼前だったりした。教室では相変わらず表情のない顔をして、自分の席を立つことはほとんどない。また体調を崩し保健室にいることも度々であった。そんなトオヤマに対してクラスの誰も声をかけるものはいなかった。唯一人、カズをのぞいて。
カズは週に一、二度トオヤマを美術部に来ないかと誘った。しかし、トオヤマは落ち窪んだ目に少し不思議そうな光を宿らせただけで、返事もせずに帰ってしまうのだった。
春の暖かさが夏の暑さに変わりかけた金曜日の放課後、カズと真澄は美術室で静物のデッサンをしていた。二人の前にはバナナとイチゴそしてりんごが皿にのっていた。
突然ドアが開きトオヤマが無表情で突っ立っていた。カズと真澄はお互い顔を見合わせ、山下先生は驚きの表情を浮かべた。しかしすぐ顔の表情を崩しトオヤマを手招きした。
「おお、トオヤマ君よく来たね。さあ、中へ入りなさい」
その言葉に反応したかのように、トオヤマはうつむき加減に歩き出し、真澄の隣の椅子に座った。真澄は彼に向かって軽く会釈をした。
「そうだ、この前の出張のとき買ったお土産があった。みんな、ちょっと休憩しよう。小林さん、僕と一緒にお茶をとりにいってくれない。トオヤマ君、少し待っていてくれる。市川君、あとはよろしく」
そう言うと山下先生は真澄と急ぎ足で美術室から出て行った。いきなり留守番をまかされたカズはトオヤマに何か話しかけねばと焦った。しかしトオヤマは机の上に置いた両腕を枕に突っ伏した格好で休んでいた。カズはその姿を見て、彼が本当に疲れているのだと感じた。いったい何が彼をここまで疲れさせ、傷つけたのかカズには見当がつかなかった。
(俺もトオヤマも同じようにいじめにあった。でも俺は今では結構うまくやっているつもりだし、毎日がそれなりに楽しい。トオヤマも今ではいじめは受けていないはずだ。でもこいつはいじめられた小学校のときより心も体も、もっと悪くなっているような気がする。何が原因でこんなにボロボロになってしまったのだろう。こんなに辛かったのなら学校に来なければいいのに)
そう思いながら十分間ほど無言でいたが、その時間がカズには、やたらに長く感じられた。ようやく山下先生と真澄が戻ってきた。手にそれぞれポットと湯のみ茶碗とお土産袋を持っている姿を見て、カズは緊張感から解放された。
山下先生は饅頭を一個ずつ配り、真澄がポットから湯のみ茶碗にお茶をついだ。番茶のいい香りがあたりを漂った。その間もトオヤマは机に突っ伏したままだ。
「トオヤマ君」
真澄が覗き込むように声をかけると、トオヤマは僅かに顔を上げた。
「食べない? おいしそうだよ」
彼はそれには答えず、少しだけお茶を飲んだ。
「さて、トオヤマ君も来たことだし、君たち三人でスケッチに行ったらどうかな。若葉のきれいな季節だし。どうだい、自然を描くことはとても勉強になるぞ」
「明日は天気も良さそうだし、ねっ、行こう」
真澄はさきほど先生と打ち合わせしたようで、すっかりその気になっている。
「は、はい」とカズは答えたが、遠山は相変わらず黙っていた。
「ねっ、市川君、どこかいい場所知らない?」
カズはいきなり真澄に訊かれ戸惑ったが、すぐに閃いた。以前よく隠れ家として利用した神社の名前を言った。確かに木々が鬱蒼と茂り、スケッチの材料には事欠かない。真澄もトオヤマもその場所は、知っていた。
「トオヤマ君、無理にスケッチしなくてもいいよ。その緑の木々を見るだけでもいい。この時期の新緑を肌で感じることができればそれで十分だ。市川君も小林さんもいるし、楽な気分で出ておいでよ」
「先生、私も見るだけでいいですか」
真澄は右手を上げつつ、おどけた調子で訊いた。
「うーん、見ることも勉強だし、まあいいか」
「市川君、いい場所考えておいてよ」
真澄はカズに何やら目配せをした。カズはようやくこの会話がトオヤマのために仕組まれたものだと気がついた。
「わかった。いいポイントを決めとくよ」
「私、クッキー作っていくから二人ともちゃんと来てよ」
「小林の手作りクッキー、大丈夫か。俺クッキーよりしょっぱいおかきの方がいいけど」
「ひどい。市川君にはクッキーなし! トオヤマ君のために作るから明日きてよね」
彼女がピンクのほほをふくらませながらトオヤマに問いかけた。
「ああ・・・」
トオヤマは初めて顔を上げ、真澄をちらっと見てそう答えた。