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第7章 二人の風景

「すごかったね、モネの絵」

 真澄はベンチに座りながら遠くを見るような目でカズに語りかけた。両手には自動販売機で買った冷えたオレンジジュースがのっている。水色のワンピースと白いコットンの靴下は五月の風にやさしく吹かれている。

「俺、感動した」

 カズは文字通り圧倒されていた。それほど、モネの絵は衝撃的だった。

「市川君、市川君はどの絵が一番よかった?」真澄は小首を傾げてと訊いてきた。カズは彼女のつぶらな瞳に見つめられ、どぎまぎしながら「えーっと、何とかのたそがれっていうやつ。ほら黄色がものすごく綺麗で、現実離れした感じで、最後の方にあった絵」と慌てて答えた。

「それって『ヴェネティアのたそがれ』じゃない。水面上に塔が建っている絵でしょ」

「そうそう、多分それだ」

「あの絵も素敵だったよね。オレンジ色と黄色の中間色の霧なのかな? すごくロマンティックで幻想的で・・・市川君ってロマンチストなのかな」

「いや、とくに、そういうわけじゃないと思うけど。小林はどれがよかった?」カズは自分がロマンチストだと言われ、気恥ずかしくなり急いで訊き返した。

「私はねぇ、『睡蓮』の連作かな、やっぱり」

「ああ、あのでかい葉っぱを、何枚も描いたやつ?」

「うん、同じ睡蓮だけれども、それぞれ全然違うよね」

「うん」

「描く時刻の違いとか、そのときの画家の気持ちとか、睡蓮自体の僅かな成長とか、いろんな状況の変化によって、違う絵が描けるのかな」

「俺には同じものに見えるけど、モネには違うように見えるのか」

「市川君もモネと同じように、いろんな見方ができると思う」

「ええっ! 俺、頭よくないし、単純だし」カズはかなり伸びた髪の毛を掻きながら、目の前の少女を不思議な思いで見つめた。目の前の少女は、彼がこれまで出会った女の子と明らかに違っていた。その違いが何なのか、それはまったくわからないのだが。

真澄はオレンジジュースを一口飲むと、小首を傾けて呟いた。

「自然って、あんなにきれいなんだね」

「うん」

「モネの絵って、自然のきれいなところだけ描いているけど、すごくリアルだよね」

「うん」

「絵を描く人って、普通の人が見ることのできないものを取り出して表現できるのかなぁ?」

「そっか。上手いこと言うなあ、小林は。でも自然をあんなふうに見ることができるなんて、モネは、目がものすごく良かったのかな」

 真澄はその言葉を聞き、少し笑いながら答えた。

「市川君、モネは晩年目の病気と闘いながら絵を描いていたの。『睡蓮』を描いていたときも、手術をしたりして大変だったのよ」

「へぇ、ベートーヴェンみたいだな。あっ、ベートーヴェンは耳が悪かったけ?」彼女はまた小さく笑いながら話を続けた。

「それでね、モネはあんなに美しい絵を描いたのだけど、守銭奴だったらしいの」

「シュセンド?」

「そう。つまりお金にいやしいっていうか、きっちりしていたって本に書いてあったの」

「ふーん、でも、あんなにきれいな絵なら、すごく高い値段で売れるだろう。モネも意外とけちなんだ。小林は美術部だけあって、いろんなこと知っているんだなぁ」

 その言葉を聞き、真澄は吹き出した。

「市川君も美術部の部員でしょう」

「あっ、そっか。そうだよな」

 カズは彼女と話すと、いつも自然と頬が緩んでしまうのだ。ときどき自分に渇を入れて、緊張感を取り戻そうと思うのだが、ついつい彼女のやわらかな雰囲気に馴染んでしまう。そして、そのことが嬉しくもあり楽しかった。

「こらぁ! 少年、何をへらへらしているのだ」

 突然ベンチの背後から、聞き覚えのある声が飛んできてカズは飛び上がった。振り向くと真っ赤なスーツをぴちっと着こなしている母がにやにや笑っていた。右手で肩までかかった豊かな髪を掻き揚げ、左手は腰に当て、まるで女優がグラビア撮影をするようにポーズをとっていた。

「母さん!」

 カズは、驚きのあまり一言しか発することができなかった。

「わが子もついにデートをするようになったか。道理で、昨夜から落ち着かず、着ていく服をあれこれ試しては、ドタバタしていたわけだ」

「違うよ! 顧問の先生が一年生三人で美術展を見に行けって、チケットくれたんだ」

「ほーお、そうですか。ところで隣のかわいい女の子は?」

「えっ、あっ、えっと」と意味をなさない言葉を言いながら、あたふたしているカズを嬉しそうに見ながら真澄はすっと立ち上がった。

「こんにちは。はじめまして、一年A組の小林真澄です。市川君と同じ美術部で、いつも楽しくやっています」

「こんにちは、小林・・・ 真澄ちゃん、よろしく。ふーん、なるほど。ふんふん」

 母は何故か頷く素振りをした。

「なんだよ、そのふんふんってのは」

「どうしてカズが美術部に入ったのか、その謎がたった今解けたのだ」と彼女は含み笑いをしつつ答えた。その言葉を聞き、カズは顔が真っ赤になった。そして何か反論しようと思ったが、話す言葉が思い浮かばなかった。

「おばさま、市川君が言ったとおり、今日は一年生三人で見る予定でした。でも、あと一人の男子が来なかったので二人で見て回ったわけです。おばさまもモネの絵を見られたのですか」

「そうなのよ。知り合いがチケットをプレゼントしてくれてね。私も絵は結構好きなの」

 カズは話題が変わり、ほっと一息つくことができた。ところが母は、急にバッグの中から銀色のデジタルカメラを取り出して、妙なことを言い始めた。

「今日はカズの記念すべき第一回目のデートだから、記念写真を撮りましょうね」

「何、わけのわからないこと言ってんだよ! それに何でカメラ持ってるわけ。小林だって迷惑だろ」

 彼は真澄に同意を求めた。が、しかし、

「私も記念すべき第一回目のデートだから、写真を撮ってもらおうかな」という予想外の答が返ってきた。「そうだよねぇ」と母はますます調子に乗り、二人の立ち位置を選んだりポーズを決めたりした。

「ほらほら、カズ。もっと真澄ちゃんに近づいて。何ぼーっとした顔してるの。いい? 撮るよ、ハイ、チーズ」

 カズはデジタルカメラのシャッター音を呆然と聞いていた。

「あともう一枚。今度は二人で腕組んでいるところね。ハイ、ポーズ!」

「そんなことできるわけないだろ。もう・・・ウオッ!」

 カズの左腕に真澄の柔らかな右腕がやさしく絡んできた。そのとき、カズは奇声を発するだけで体は硬直してしまった。真澄はその様子をいたずらそうな目で見ていた。

「そうそう真澄ちゃん、いい表情ねぇ。カズは、まあ仕方ないかぁ」

 母はそう言うと、シャッターを押した。

(どうしてこんな展開になったのだろう)

 カズは茫然自失の状態でベンチに座っていたが、真澄と母はデジタルカメラの画像を見ながら笑い合っている。

「じゃあね、カズ。真澄ちゃん、息子をよろしくね」

 と言い残すと、母は颯爽と去って行った。

「市川君のお母さんって素敵ね」

 真澄は母の去っていく後ろ姿を見ながら、しみじみと言った。

「素敵? あの人は何考えているのか、わからないんだ。だから俺は、いつも母さんに振り回されっぱなしさ」

「でも、二人ともすごく仲良さそうで、いい感じ」

「そうかなぁ。小林の母さんは、どうなの。まさか、あんな感じじゃないよな」

 彼女は口元に少し淋しげな微笑を浮かべ答えた。

「私のお母さんは、市川君のお母さんとは正反対ってとこかな」

「そうだろうなぁ、真面目でしっかりしているんだろ」

「そうね、ちゃんとしすぎているのかなぁ。私がいい加減だから・・・」

 そう言い終えると真澄は地面に視線を落とした。ときどき彼女は一瞬心を沈みこませる表情を浮かべることがあった。今もそうだ。そんなときカズは何を喋ったらいいか、またどうしたらよいか、わからなくなる。

 しばらくして真澄はポツリと言った。

「トオヤマ君、来なかったね」

「うん」

「絵に興味がないのかな」

「あいつ、今大変なんだよ」

「大変って?」

 真澄の澄んだ茶色の瞳が、まっすぐカズに向けられて問いかけていた。それに対し彼は腕を組んでうーんと言い、考え込んだ。

「あいつ、去年の二学期からいじめの標的だった」

 カズは胸に重いものを感じながら、そこまで必死になって話した。真澄は静かに聞いている。

「クラスのみんなから無視されて、それからだんだん学校に来なくなって・・・」

 カズはそこまで言うのが精一杯だった。心臓のあたりが鋭く痛んだ。俯いたまま、ハアハアと大きく息を吸い込んでは吐き出し、その痛みが消え去るのを待った。そのとき真澄の暖かい両手がカズの冷えた右手をそっと包んだ。

「大丈夫?」

 彼女の声と心配そうな表情がカズの胸に届くと、胸の痛みは少しずつ消え去っていった。

「大丈夫です」

 カズは再び顔を真っ赤にさせながら、彼女の両手に包まれている右手をどうしようか、途方に暮れていた。

「フフッ、市川君っておもしろい」

 真澄は小悪魔的な笑みをもらしながら、さっと両手を膝にもどした。

「小林って見かけによらず大胆だな」

「そーお?」

 しばらく二人は黙っていた。

「私、初めてトオヤマ君と会ったとき感じたのだけど、トオヤマ君って心と体がバラバラみたいな気がして」

(心と体がバラバラ。そうかもしれない。俺もいじめられたとき、自分だけの場所がないとおかしくなってしまいそうだった。心に別の部屋をつくらないと耐えられない)

「なんだか暗い部屋に一人閉じこもっているみたいで」

「うん」

「ねえ、そんなのって寂しいよね、つらいと思わない?」

「うん、あいつクラスでも浮いているし」

「そうなの。市川君、トオヤマ君を美術部に来るようにもっと誘ってみない? 部室は自由でリラックスできる場所だし。トオヤマ君も気に入るかもしれないよ」

「うん」

 カズはジェラシーを感じながらも、真澄の提案を受け入れた。彼女の言っていることは正しかったし、今の彼にとってトオヤマは以前のいじめっ子ではなくなっていたからだ。

「俺、ちょくちょく誘ってみるよ、でも小林は何でも知っているんだなぁ。人の気持ちまでわかるのか」

「ううん、そんなことないよ。やっぱり同じ美術部の一年生同士だから、いっしょにやりたいでしょ。それだけ」

 真澄はそう言うと腕時計を見て、「私、家で用事があるから帰るわ。今日はありがとう。楽しかった」とベンチから立ち上がった。その言葉にカズはもっと彼女と話したいと思いながらも、頷いた。



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