第6章 トオヤマの日常
トオヤマはほとんど喋らない。クラスの誰とも話さず教師に当てられても「わかりません」と答えるだけだった。青白い顔色と、あらぬところを見つめているような眼差しは、他者と交わることを遮断しているように感じられた。美術部にも入部申し込み以来一度も顔を出していない。
トオヤマはよく遅刻をした。そのため生徒指導の教師はトオヤマを目の仇のように思っていた。校門の前で毎日立って監視をしているゴリ(本名ワタナベ)は、とくにトオヤマを問題視していた。なぜならトオヤマは始業のチャイムが鳴っていても、慌てて学校に走りこもうとする様子もなくダラダラと歩いている。これまでも何度となくゴリは彼を怒鳴りあげたり、しつこく一時間も二時間も説教したが、彼はぼんやりとした表情をしているだけでほとんど反応がない。トオヤマは小学校のとき少しの間不登校だったようだが、それは彼の怠惰でだらしのない無気力な性格が原因に決まっているとゴリは判断していた。
四月の終わりの日、トオヤマは相変わらず遅刻を続けていた。
その日、ゴリは朝目が覚めたときから機嫌が悪かった。また、例の夢を見てしまったからだ。あの夢を見ると、決まって胸に異物が引っかかっているようで気分が悪い。その異様な感触が彼をいつも苛立たせる。そして彼は自分が教師であるにもかかわらず、自分の感情に従って行動していた。機嫌の悪いときは生徒を殴ってストレスを解消するのだ。そして機嫌の悪いゴリに遭遇した生徒は悲惨な状況に陥ることとなる。
ゴリはいつもよりもさらに不機嫌な顔をして、生徒たちの登校を監視していた。生徒たちは怒気を含んだゴリの視線を避けようと、足早に校門をくぐって行く。ただ一人校門の前で始業のチャイムが鳴り終わっても、だらしなく歩いている生徒がいた。トオヤマだ。その無表情の顔を見ると、突然ゴリの頭の中で何かがスパークした。(親父の無表情な顔が迫ってくる。親父は酒臭い息を撒き散らしながら、母親をそして自分たち子どもを殴り続ける)その忌まわしい映像はどれだけ振り払おうとしても、ゴリの夢の中に現れ、ふとした拍子でフラッシュバックする。次の瞬間、ゴリは思いっきりトオヤマの頬を平手で殴っていた。しかしトオヤマの表情はまったく変わらず、ぼんやりとした目で遠くを眺めていた。トオヤマの目には何も見えていないようでもあった。相手の無反応にゴリは逆上し、奇声を発しながらトオヤマの肩をつかみ石造りの校門にその痩せた体を押し付けた。ゴリの目は充血し、顔も怒りで真っ赤に染まっている。殺気を含んだ声は低く、ゆっくり一語一語丁寧に言葉を選んでいた。
「トオヤマ、おまえ、このガッコウに、く・る・な」
トオヤマの顔に変化はない。
「おまえみたいな、くずは死ね。ぼけ、カス、アホ!」ゴリはありとあらゆる悪罵を痩せた中学一年生にあびせかけた。
(シネ? 死ね、死ね、・・・・・)その言葉に初めてトオヤマは反応した。ぼんやりとした目は急に大きく見開かれ、顔は極度の緊張のため引きつっている。
トオヤマは暗い穴蔵の中にいた。ほとんど光の差さない空間にひとりでうずくまっていた。去年の夏休み以降、同級生からいじめられたり家族から愚痴を言われたりするとこの穴蔵に逃げ込んで、嵐が過ぎ去るのをただひたすら待っていた。けれども今、その穴蔵を外から破壊しようとするものがいる。この暗い空間よりもさらに深い闇がトオヤマを襲っていた。
「死ね! 死ね!」
「お前はクズだ。お前はクズだ」
「なぜ生きている! お前が生きているとまわりが迷惑する」
(自動車に轢かれた野良猫のように、ズタズタに引き裂かれ、俺は死ぬのか?)
トオヤマは突如、白目をむき声にならない叫びを上げその場に倒れた。
(トオヤマ、おい! トオヤマ・・・)トオヤマは遠くで自分の名前を呼んでいるような気がした。
目を覚ますとそこは保健室のベッドの上だった。気を失ったトオヤマをさすがに放置できず、ゴリともう一人の生徒指導の教師ナスが彼を保健室まで運んだのだった。白っぽい部屋の中は彼以外だれもいない。時計を見ると正午前だった。物音ひとつしない部屋の中で彼は自分に向かって呟いた。
「俺は・・・クズだ・・・・・・」
その言葉を聞いた者は誰もいなかった。
トオヤマにとって時間は止まっているようでもあり、瞬間的に移動しているようでもあった。ふと気がつくと教室にいて今日の最後の授業が終わっていた。自分がいつ保健室を出て、給食を食べ、教室にもどったのか覚えていない。そもそも今日の給食のメニューすら記憶になかったし、食欲はこのところまったくなかった。時の流れに沿って自分が動いている自覚もなく、自分の足が地球という惑星に接している感覚もなかった。いつもあいまいな空間を浮遊している感覚しかなかった。
「トオヤマ」
自分を呼ぶ声に、ぼんやり目を向けると、黒く鋭い目と茶色の澄んだ瞳があった。
「トオヤマ、美術部の山下先生がこのチケットくれたんだ。一年生三人で観に行かないかって」
カズは早口でそう告げると、色鮮やかなチケットを一枚トオヤマの机の上に置いた。この街の美術館でクロード・モネの美術展が企画されていた。
「それで、もしよかったら五月三日の午前九時、美術館の正面玄関前に集合して三人で観ない?」
トオヤマは無表情で小林真澄の顔を見つめた。
「あっ私、A組の小林です。入部申し込みのとき、トオヤマ君といっしょにいたでしょ。憶えていないかな?」
トオヤマはその問いを無視し、チケットを手に取り三十秒ばかり見つめていた。カズと真澄は黙って待っていた。
「行けたら行く」
トオヤマはそう言うと、チケットをポケットの中に突っ込んだ。そして席から立ち上がり、足早に教室のドアの方に移動した。その行動はあまりにも突然だったので、カズと真澄は何か言い忘れたような気がしたのだった。