最終章 六月の風
「お兄ちゃんが自殺する前に、彼、私の部屋にやってきた」
彼女はそう言いながら左手首の腕時計を外し、カズの目の前に白い左腕を晒した。その左手首には細かな切り傷が数本走っていた。
「実は私、小学校五年生くらいからリストカットしていたの。カッターナイフだけどね。理由はどうしてかわからないのだけど、リストカットすると頭の中のもやもやしたものがなくなって、すーっとする感じが好きで時々やっていた。その晩もリストカットやっていたら、お兄ちゃんがドアをノックして、『真澄、入っていい?』って訊いてきた」
カズはびっくりして、彼女の白い手首を見た。
「私は慌てて左手首にリストバンドをしてお兄ちゃんを部屋に入れたのだけど、お兄ちゃん『リストカットするのなら、ナイフちゃんと火で消毒しといたほうがいいぞ』って言うの。私は家族の誰にもこのこと知られていないと思っていたから驚いたけど、気付いたのがお兄ちゃんだと思うと仕方がないなあとすぐに納得したの」
「どうして」
「お兄ちゃんはすごく勘がいいの。ううん、勘がいいと言うよりは、何か全部わかっちゃうっていうか、できてしまうっていうか。私が十とか二十とか努力しないとできないことを一だけしたらできるのがお兄ちゃんなの。ピアノなんかも私が一週間、一生懸命練習して上手くできないパートを一時間くらいの練習で弾けちゃうのよ」
「ふーん、天才的だ」カズは冷めた紅茶を飲み干しながら、呟いた。
「それで、その晩のことだけど、お兄ちゃんがベッドに座りながら訊いてきたの。『真澄、お前の血は赤いか?』って。お兄ちゃんにしては面白いこと言うのでどういうことって訊き返したら、『僕の血は透明だよ』って答えたの」
真澄はそこまで話すとティカップに口をつけた。ルドルフ・ゼルキンのピアノは三十二番の第二楽章に入っていた。
「私、いつものお兄ちゃんと違うなってそのとき気付いたの。それってどういう意味なのと訊いたら『僕はサイボーグみたいなものだよ、まわりから与えられた指示通りに動くロボットさ』って真面目な顔で答えたの。『僕は小さいときから天才だとか優等生だとか言われてきた。実際に勉強もスポーツもピアノだって人並み以上にできた。それもあまり努力しないでね。何故だかわからないけど、できてしまう。学校の勉強なんて授業をちゃんと聞いていれば、テストに出るところなんか大体予測できるし、それがほぼ的中する。みんながどうしてあんなに苦労するのか、そっちの方がわからないね。テニスの試合だってそうさ。相手のレベルがすぐわかる。対戦相手がどこを狙っているかとか、どのあたりの守備が弱いかとか見えてしまう。だから当然僕が勝つわけだ。小さい頃は嬉しかったよ。みんなは褒めてくれるし、女の子なんかもキャーキャー言うし、それに僕は男の子たちにも人気があった。でも、だんだん不安になってきた。僕はまわりの期待に応えるために動いているだけではないかと。いつの間にか自分自身というものが少しずつ削り取られて、何でもできる天才児という上っ面だけが一人歩きしているのではないかと。僕は血の通った人間ではなく、指示を受けたらそのとおりに動くロボットみたいなものなのさ』そう言って小さく笑った」
カズは小林ヒカルの隠された苦悩を聞き、かっての自分が給食でひどいものを食べさせられたときのことを思い出した。そのとき、自分自身の身体は別の物体だという意識で、その危機をなんとか乗り越えた。しかし、カズのその行為は自分の外からのいじめで仕方なくやったことで、ヒカルの場合は自分自身が自分を切り離しているように思えた。
「私驚いて、それお兄ちゃんの考えすぎじゃない、お兄ちゃんだって苦労したり困ったりすることあるでしょって訊いたの。するとお兄ちゃんは一言『苦労したことは、多分ないよ』って答えた。私その時わかったの。ああ、この人本当に神様みたいにいろんなことがすいすいとできちゃうんだなぁって。私みたいな平凡な人間とは違うってことが」
真澄はそこまで話と何か思い出すように瞳を閉じた。そして深く息を吸い込み、それからゆっくりと息を吐き出して呼吸を整え、再び話始めた。
「それからお兄ちゃんはこう言った『だけど悩みは二つある。ひとつは僕の人生がもう決まっているということさ。これから高校に進学して大学の医学部に入学し、医者になり結婚して子どもを二人くらいつくる。そして老齢になるまで医者として働くのさ。真澄、それ以外の僕の人生考えられるかい! 親もお前も友達も学校の先生たちも、僕の知っている人はみんな僕が医者になることを望んでいる。そして僕は、僕の脳はそのようにインプットされている。僕には見えるんだ。僕の周りには真っ白な壁がそそり立ち、僕を取り囲んでいる。そう、そこはまるで無菌室のようだ。僕はずっとその白い清潔な世界を歩いてきて、これからも死ぬまでそこに留まっている。まさに僕にぴったりだろう、えっ! 真澄、そうだろう!』私、お兄ちゃんの激しい口調に驚いて何も言えなかった」
彼女の言葉は空気中に吸い込まれ、部屋は全くの無音だった。ルドルフ・ゼルキンはピアノソナタ三十二番を弾き終えていた。
「それで、もうひとつの悩みは何?」カズは息苦しさを覚える沈黙を破るように訊いた。
「お兄ちゃんは自分が興奮したことに気付いて、少し黙っていた。それから、にやって笑ったの。その笑い顔がすごく怖かった。どうしてだかわからないけど、体の芯まで凍えるような笑顔だった。それからお兄ちゃんはまた話し始めた。『真澄、僕はどうしようもない人間だよ。僕は人を傷つけないと生きていけないんだ。中学に入った頃からかな。優等生の仮面を被り続けると、身体の奥底から何かわからない異物のようなものがだんだん膨らんできて身体が爆発しそうになる。だから爆発する前にナイフでいろんな生き物を殺して、そうなるのを防いできた。以前我が家で飼っていた黒猫がいなくなっただろう。あの黒猫も僕が殺した。神経を麻痺させる薬を注射して、生きたまま腹を掻っ捌いたのさ。僕のナイフはインターネットで買ったサバイバルナイフで、真澄のカッターナイフと違ってよく切れる』話しながらお兄ちゃん、ずっと笑っていた。」
カズは自分の部屋の空気がこれほどよそよそしく感じたことはなかった。深い海の底にいるのではないかと思うほど、空気が重く感じられる。
「お兄ちゃん、真っ青になっている私をちらっと見ながら話を続けた。『そのうちに、生き物を殺すことよりも面白いことを見つけた。それは言葉で人を殺すことだ。真澄、ペンは剣より強しという言葉は真実だよ。うちの中学校のクラスには大体一人か二人不登校か保健室登校の奴がいるだろ。そいつらが僕の獲物さ。僕は学級委員長か生徒会長だったから、不登校気味の奴の家を訪問する大義名分があった。それに僕は何故だかわからないけど、引きこもっている奴たちにも人気があった。だから先生を拒否する奴でも、僕とは会ってくれるんだ。それで部屋で二人きりになったとき、引きこもっている奴に、追い討ちをかけるようなひどいことを言うのさ。担任の先生はお前のことをダメでどうしようもない奴だとか、クラスの連中はお前が来なくなってクラスが明るくなったとか、でたらめを言う。そして僕はそんなひどいことを言う人たちに抵抗しているけど、なかなかうまくいかないとか言って自分だけは美化する。引きこもっている奴が僕の嘘を信じて、もっとひどく傷ついていく。僕はその哀れな姿を見ることが嬉しくてしょうがない。この間も面白いことがあった。以前通っていたテニスクラブに顔を出したとき、真澄と同い年の男子が来ていて、話しかけてきた。そいつは僕のことを崇拝しているようだった。そいつはエリート面してこう言った。僕はクラスのいじめの黒幕をしていると。だから僕はそいつにこう言ってやった。お前、いじめられている奴はお前がいじめを指揮していることも知っているし、そいつは一生お前を恨んで、何かのきっかけでお前を殺すかもしれないぞ。いじめっ子は一生殺人者に狙われる宿命だと脅してやった。僕の話を聞いて、そいつは顔が真っ青になっちまった。ははは、人間本当に顔が青くなるんだなあ、真澄』私、もう話聞きたくなくて、手で耳を塞ごうと思ったけど身体が言うことをきかなくて・・・・・・『そいつ、死んだよ。この前トラックにはねられて』ってお兄ちゃん言うの」
(そいつはハセガワのことか!)ヒカルの告白を聞きカズは天井が回っているような、不思議な浮遊感を感じた。それほどの衝撃だった。
「私ショックでしばらくぼーっとしていたら、お兄ちゃん、もう笑っていなかった。『真澄、人が死んだら、意識も魂もまったくなくなってしまうのかな? 暗黒の虚無に吸い込まれてゼロになってしまうのかな』って訊くの。私、ぼんやりした頭で、死んだらゼロになるんじゃなくて宇宙と一体になるんじゃないかなあって答えたの。どうしてそんなこと言ったのか、いまだにわからないけど。お兄ちゃん『そうか、死んだらこの宇宙と一体になるという考えもあるな。うん』と頷いて、妙にさっぱりした表情で部屋から出て行った。そして次の日の朝・・・お兄ちゃんは死んでいた・・・・・・」彼女の声は消え入りそうだった。
カズは怒りで胸が震えた。そして同時にどうして真澄がこれほど深く傷つけられ、重過ぎる荷物を一人で抱えて生きてかなければならないのか、理解した。ヒカルの最後の言葉は真澄に対してだけ語られるものだった。彼は自分の罪を語ることでこの世界と決別しようとした。そしてヒカルの罪と哀しみを背負って生きていくことができるのは、真澄しか存在しなかった。おそらく真澄はヒカルがただ一人愛した人間だったのだ。彼女は兄の死と罪を受け入れ、その贖罪のために生きていく決意をしたのだ。だからこそ狂気に蝕まれている母を守り、死の影に怯えるトオヤマを救い出そうとした。
真澄は静かに俯いていた。瞳からは涙が滴り落ちていた。そして小刻みに身体が震え始めた。
「小林・・・・・・」
その声に反応するかのように、彼女はカズの胸に顔を埋め泣き始めた。彼女がこれまで押さえ込んでいた感情が一気に溢れた。
真澄の両手は彼のトレーナーをきつく握り締めていた。
「疲れちゃった」
「淋しい・・・」
「引っ越したくない・・・」
「嫌だ、こんなの嫌だよう」
「市川君助けて・・・」
カズは真澄の言葉を聞くたびに胸が切り裂かれたように痛み、それでも必死になって彼女をやさしく抱きしめようとした。
部屋に西日が射し込んできた。
いったいどれくらい真澄は涙を流したのだろう? そう思うとカズはまた悲しくなった。明日になれば自分が大好きな少女は深い哀しみを抱えたまま、自分の前から消え去ってしまう、彼はその現実に憎しみすら覚えた。
「ごめんね、トレーナー濡らしちゃったね」涙で目をはらした真澄は、照れくさそうに小さく笑った。カズは何も言わず顔を横に振るだけだった。
「市川君、ありがとう」
彼は何も言えなかった。真澄は左手首の腕時計に目を落とした。
「お母さんが不安になるから、そろそろ帰らなきゃ」
「うん、わかった。俺、母さん呼んでくる」カズはドアを開け、母を呼んだ。
数分後、母は玄関ドアの前で待っていた。
「おば様、残念だけど私、明日母の実家に引っ越すことになって。これまでいろいろありがとうございました」
「カズから聞いたわ。残念ねぇ。あいつは大ショックでしばらく落ち込むと思うけど、私の子だしね、まあ何とかなると思うけど」
そこまで話すと母はゆっくりと真澄を抱きしめた。
「真澄ちゃん、幸せになりなさい」
真澄は少し驚いたが、すぐに母の豊かな胸に安心したように顔を埋めた。
「あなたが幸せになることを、私もカズも願っているわ。だから真澄ちゃん、自分のことをしっかりと考えて幸せになりなさい」母の胸の中で彼女は数回頷いて、顔を上げた。カズはそのとき初めて、少しリラックスした真澄を見た。
「それじゃあ、帰ります」
「うん、じゃあね。真澄ちゃん、ここに来たいときはいつでも来ていいのよ。コラッ、カズ! 何ぼーっと突っ立てるの。真澄ちゃんを家までちゃんと送りなさい。だめねぇ、男の子は」母の声に急き立てられるかのように慌てて靴を履いているカズの様子を見て、真澄はクスッと笑った。
二人はマンションのエレベーターに乗り、バスの停留所まで歩き、バスに乗り込んだ。そしてバスが彼らを、真澄の家の近くにある停留所まで運んだ。二人はバスから降りるまでほとんど話さなかった。
真澄の家は高台にあり二人は閑静な住宅街の坂道を上っていく。
上空を白く薄い雲が足早に流れていく。
夕陽は彼らの後姿をオレンジ色に染め上げていた。
カズは真澄に言いたいことが山ほどあるような気もするし、言うべきことは一言もないような気もした。ただこのまま彼女を家まで送り届けるだけで彼女と別れてしまうのは、すごく後悔するのではないかと理由もわからず、そう感じていた。
「市川君、この公園すっごく見晴らしがよくて、私のお気に入りなの。少し寄っていかない?」カズは彼女の言葉に少しほっとして「ああ」と短く答えた。その公園は無人で、今日一日の役目を終えたように見えた。真澄はカズを見晴台に誘った。
太陽はすでに西の地平線に沈み始めていた。
二人が住んでいる街は、すべて暖かなオレンジ色に包まれていた。
東の空はすでに青紫色に染まり始めている。
隣で夕陽を見ている真澄の顔は、静かに微笑んでいた。
カズはこの瞬間の風景を忘れることはないだろうと思った。
「小林・・・俺、小林がこんなに辛くて哀しい想いをしているの、全然わからなくて、ごめんな」そう言ったとき、突然彼の目から涙が溢れた。真澄は何も言わず、微笑を浮かべたまま顔を左右に振った。
「小林が俺に話してくれたこと、俺一生忘れない。それから、死ぬまで誰にも話さない」
彼女は小さく頷いた。そしていたずらっぽい眼差しで、
「市川君、私にお別れのプレゼントちょうだい」と言った。カズは「エッ?」と戸惑っていると、真澄の柔らかな両腕が首にまきついた。深く茶色に輝く瞳が目の前に迫り、暖かく柔らかな唇が彼の少し乾いた唇を塞いだ。
短く長い十秒間が過ぎた。
「市川君、ありがとう・・・さようなら」真澄はそう告げると駆け出した。
(俺はいつも小林にやられっぱなしだ)と思いながら彼は慌てて手を振った。
「小林! また会えるよな!」その声が聞こえたのか彼女は一回だけ振り返り「うん!」と大きく答えた。
そのとき一陣の風が彼女の前髪を揺らした。その六月の風は夏の匂いを含んでいた。
カズはいつまでも真澄を見送っていた。