第13章 土曜日の午後
街はいまだに灰色に染まっていた。雲はいったいどれくらいの水量を含んでいたのかと思われるほど、雨は無表情に地面を叩いている。
真澄は事件が起こってから十日以上、学校を休んでいた。
そしてトオヤマは医療施設に入所措置された。
カズは自分の部屋の窓から、ぼんやりと外を眺めていた。家々の灯りが鈍い光を放っている。ラジオのFM放送からはクラシックのピアノ曲が流れていた。彼はつい先ほどかかってきた電話のことを考えていた。
電話の相手は真澄からだった。受話器から聞こえる彼女の声は、いやに落ち着いていてカズを緊張させた。
「明日の土曜日、昼から市川君の家に行っていい? 話したいことがあるの」
カズにとって断るはずのない問いかけであり二つ返事でOKした。要件はそれだけで、あっけなく電話での会話は終わった。久しぶりに真澄の声を聞き嬉しいはずなのに、重苦しい不安が胸の内に渦巻いている。こういう勘って大体当たるんだよなぁと思うと、その夜はほとんど眠ることはできなかった。
次の日、雨は霧雨のようになり空も少しずつ明るさを取り戻しつつある。
カズは朝から自分の部屋を片付けたり掃除機をかけたりしていると、不審に思った母が嬉しそうに訊いてきた。豊かな髪をひとつにまとめ、厚手のカーキ色ズボンはゆったりとしていて動きやすそうだ。白のTシャツにはジミ・ヘンドリクスがプリントしてある。
「今日、真澄ちゃんがうちに来るんでしょう?」
「そうだよ」
「何、無愛想な顔しているのよ。そんな表情していたら彼女に嫌われちゃうわよ」
「うるさいなあ、邪魔だからあっち行けよ」
「はいはい、わかりました。ところで真澄ちゃんは何時に来るの?」
「一時過ぎです」と言いながらカズは母を部屋から追い出し、ドアをバタンと閉めた。
カズが母に言ったとおり真澄は午後一時過ぎにやって来た。薄い緑色のワンピースの上に白い半袖のカーディガンという服装は、彼女を少し大人っぽく見せている。玄関の黒いドアを開けたのは、カズではなくて母だった。彼女は嬉しそうに小柄な訪問客を迎えた。
「真澄ちゃん、久しぶり」
「こんにちは、おば様。あの、これつくってきたので二人で食べてください」
真澄はそう言うと、肩口に下げていた大き目の白い布の鞄から小さめのケーキ箱を取り出した。ドアの横には薄いピンク色の傘が立てかけてあった。
「ありがとう、後で紅茶入れるわね。カズ、何しているの? 真澄ちゃん来たわよ」
カズは真澄が自分の家にいることが何とも不思議な気がして、どう振舞ってよいのかわからなかった。彼女が白い靴を脱いで、玄関からカズの部屋に歩いてくる間も彼の口からは「よっ!」とか「こっち」とか、あまり意味のない、そして気の利かない言葉しか出てこなかった。
ひさしぶりに会った真澄は、いつものように涼しげで少し哀しそうな微笑を口元に浮かべている。カズの部屋にある折りたたみ椅子に真澄が座ると、彼女は興味深そうにあたりを見回した。
「へぇー、市川君って読書家なんだ」
本棚には世界名作全集や村上春樹のハードカヴァーが並んでいた。カズは自分の椅子に背をもたれながら彼女の言葉を聞くと、少しずつ落ち着いてきた。
「今、村上春樹が一番気に入っているんだ」
「村上春樹って読んだことがないけど、どんな感じなの?」
「どんな感じ。ウーン、あの人の小説を読んだ後、ちゃんとしなきゃいけないっていうか、しっかりしようって思う、俺は。たとえば部屋の掃除をしたくなったりするんだぜ」
「ふーん、そうなんだ。私も読んでみようかな。そうしたら、キレイ好きになるかもね」
「それは人それぞれだから」
その言葉を聞いて真澄がわざとらしくカズを睨んだとき、ドアがノックされ、部屋の主が返事をする前に母が入ってきた。
「何だよ、勝手に入ってきて」カズの文句を無視して、母はチーズケーキと紅茶をテーブルに置いた。
「男の子と可愛い女の子が密室で二人きりという状況は危険でしょ。母さんは真澄ちゃんを守る義務があるのよ」
「また、なに訳の分からないこと言ってんだよ」カズは口を尖らせて反論したが、母は馬耳東風といった感じで、真澄に話しかけた。
「真澄ちゃんの作ったチーズケーキ美味しいわね。繊細で甘さ控えめで、私感動しちゃった」
「何だよ、もう食っちゃったのかよ。食ってばかりだ。だから余分な肉が付くんだよ」
「カズ、あなた真澄ちゃんの前だからって、いい格好しようとする気持ちはわかるけど、無理しない方がいいわよ。それから真澄ちゃん、カズが変なことしようとしたら大声で叫ぶのよ。おばさんが隣でちゃんと見張っているから。でもキスくらいは許してやってね」
真澄は小さく笑いながら「わかりました」と答えると、母は緑色のお盆を小脇に抱えながら、真澄に軽くウインクをして部屋から出て行った。
カズは母の言動に呆気にとられていたが、紅茶を飲んで気を取り直そう努めた。
「しばらく学校来なかったけど、大丈夫だった?」
「うん私は大丈夫。あのとき雨に濡れて、少し風邪を引いたけどそれほどたいしたことなかったし」彼女の声は低く響いた。
「これ、貰うわ」と言いながら、カズはチーズケーキに小さなフォークを突き刺し口に運んだ。
「山下先生が言っていたけど、トオヤマの奴だいぶ落ち着いてきたってよ。家族もあいつのこと、ようやくわかろうと思い始めたらしい」
「そう」白いティーカップを両手で支えながら、真澄は呟くように答えた。
「それで、あいつ事件のこと、ほとんど覚えていないらしい。それどころか中学に入ってからの記憶もほとんどないみたいで、唯一覚えているのが俺と小林の顔だってさ」
「うん」
「それからゴリの奴も回復は早いらしい。精神的にはかなりショックだったらしいけど」
「そう・・・」
彼女の反応にカズは戸惑った。母が部屋から出て行ってからなぜか空気が少しずつ重くなっているように感じる。カズが次の言葉を捜していると、彼女は困った表情で口を開いた。
「私、転校するの」
「エッ?」
「明日、お母さんの実家に引っ越すの。だから今日、市川君にお別れの挨拶をしに来たの」
彼は自分の勘のよさを悔やんだ。昨夜の不吉な予感は的中した。
「どうして?」
カズの口から言葉が勝手に飛び出した。でもそれは彼の素直な気持ちだった。
真澄はテーブルのティーカップに視線を落としていたが、ゆっくりと顔を上げ彼を見つめた。そして深く静かに息を吐き出した。
「市川君、私のお兄ちゃんが去年の夏、自殺したこと知っているよね」
「うん」
「ナイフで左手首を切って死んだの。お母さん凄いショックで・・・・・・あの日からお母さんの時間は動いていない」
カズはまた自分のマグカップに口をつけた。少し冷めた紅茶は、あまり味がないように感じる。
「お母さんにとってお兄ちゃんの自殺は現実離れしたものだった。自殺した日も、お兄ちゃんいつもと同じ様子だったし遺書らしきものもなかった」
真澄は向かい合っているカズのクリーム色のトレーナーに視線を落とし、しばらく呼吸を整えていた。
「お母さんはお兄ちゃんが自殺してから今まで、お兄ちゃんが死んだことをずっと受け入れずに生きてきた。そうしないと生きていけないって本能的に感じていたみたい。だけど私がトオヤマ君の事件に関わったことで、お兄ちゃんの自殺のことを思い出したみたいで、パニックになったの」
「それはナイフのこと?」
「そう、トオヤマ君がナイフでワタナベ先生を刺して、それから自分も刺そうとしたとき私が止めたでしょ。どうしてそのことを母さんが知ったのか、わからないのだけど、そのことをものすごく怖がって。ヒカルが真澄を連れて行くとか、二人とも何処かへ行ってしまったとか、そんなことを言い出したりするようになったの」
カズはただ彼女の話を聞くしかなかった。
真澄は淡々と話を続けていく。
「それでお父さんがこの街を離れる方がいいって判断して、引っ越すことになった。お母さんにとってこの街は辛いこと悲しいことが多過ぎるから。引越し先はお母さんの実家で私とお母さんが先に行って、お父さんもいろいろ整理がついたら後から来るってことになった。向こうにはおじいちゃんもおばあちゃんもいるし、お母さんも落ち着くと思う」
「そこは遠いの?」
「列車で三時間くらい」
「そうか、結構遠いな」
「うん」
そこまで話すと真澄は一息つき、紅茶をゆっくり飲んだ。それから白い鞄の中からCDケースを一枚取り出しカズに渡した。
「これ、私からのプレゼント。このCD聴くと元気がでるの。市川君も気に入ってくれると思う」
「ベートーヴェン、ピアノソナタ三十番、三十一番、三十二番。ルドルフ・ゼルキン」
カズはCDケースのライナーに映っている老ピアニストの写真に目を移した。老眼鏡を外し、本を読んでいる姿は安らいでいるようで、落ち着いた印象をカズに与えた。しかし彼はそのCDなどほしくはなかった。
「ルドルフ・ゼルキン晩年の演奏だけど、正直っていうか誠実っていうか、彼の暖かな人柄が伝わってくるよ。とくに三十二番が」
「今から聴く?」
「うん、お願い」
カズは椅子から立ち上がると、ミニコンポにCDをセットしスイッチを入れた。ルドルフ・ゼルキンの思慮深いピアノが部屋を包んでいく。
「市川君、ひとつお願いがあるの」
彼女の表情はいつになく硬かった。カズは少し青ざめた彼女の顔を見て内心戸惑いながらも、「何?」と答えた。
真澄は唇を噛み、瞳を閉じ俯いた姿勢で迷っていた。それは彼女の内部に巣食っている何かと戦っているようにも見えた。
「これから話すことは、まだ誰にも言っていないの。市川君、あなただけに聞いてほしい。あなたにだけ。それから、この話は他の誰にも言わないって約束してくれる?」彼女の声は小さく震えていた。
カズはその様子に不安を感じながらも「わかった」と答えた。
真澄は遠くを眺めるような眼差しで語り始めた。