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第12章 ホットミルクと「ワルツフォーデビー」

 その日の夕食後、カズはリビングルームのソファーに座ってテレビを観ていた。画面では中学校の校長と教頭が硬い表情で記者会見に臨んでいた。

「事件を起こした生徒は、少々体が弱く休みがちではありました。彼はおとなしい性格で目立たないタイプでしたが、特に目立った問題はなかったと担任からは聞いております」

「ワタナベ先生は柔道部の顧問で、非常に熱心に指導をしていました。生徒の生活指導にも一生懸命取り組んでいて、生徒たちも彼を信頼し彼の言うことはよく聞いておりました」

「どうして、このようなことが起こったのか、全くわからない、信じられないというのが、私どもの率直な今の気持ちです」

 主に教頭がべらべらと話し、校長は自分こそが被害者だ、と言わんばかりの憔悴しきった表情を浮かべていた。「ナイフで刺された教師は全治二ヶ月の重傷ですが、幸い命に別状はありません」と、女性アナウンサーは興奮気味に話している。

 カズはそのニュースを見て口の中に錆びたものが詰め込まれたような感触が湧き、リモコンでテレビのスイッチを切った。テレビはブチッという耳障りな音を出して、画面は暗闇に吸い込まれていった。先ほど母が作ってくれたパスタの味の名残が、今の記者会見を見たことで急速に薄れていった。

すると難しい顔をしている息子の前に、ホットミルク入りのマグカップがテーブルの上に置かれた。

「ちょっとお砂糖を入れてるからね」

 珍しく早く帰宅した母が、優しい笑顔でそう言った。彼女は事件のことについて今この時点まで何ひとつ訊かなかった。そのかわりにカズが大好きなパスタ・ぺペロンチーノを手際よくつくった。それから細かく千切りにしたキャベツに、あっさりとした和風ドレッシングを少量かけ、ポテトサラダを添えた。まったく食欲のなかったカズだったが、結局それら全部を平らげた。

 カズはマグカップのホットミルクを一口飲むと、強張った体が少しほぐれていく気がした。(いくらゴリでも殺されなくてよかった。あいつが死ぬと喜ぶやつはたくさんいるだろうけど、トオヤマにとってみれば、殺人を犯したことになる。殺人という罪を背負って生きていくことは、トオヤマにとっては重過ぎる荷物のような気がする。いや、俺にとっても耐えられそうにない。だけど他人に暴力を振るったり、傷つけたりすることを一切否定することもできない。だって俺もいじめられているとき、カッターナイフで虫や草を切り刻んでいた。それだって命を奪っていることなのだから。あのままハセガワが死なずに、いじめられ続けていたら、俺だってナイフで誰かを刺していたかもしれない。それにハセガワが死んで、俺は嬉しかったのかもしれない。少しはいじめが減るのではないかと期待したんじゃないか?)

 彼がそんなことをあれこれ考えていると、母はステレオにCDをセットした。ビル・エヴァンス・トリオの「ワルツ・フォー・デビィー」だ。ビル・エヴァンスの宝石のように美しいピアノが、部屋をしんとさせる。彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出してきて、息子の横に座った。

「カズ、あなた大変だったねぇ。それから真澄ちゃんも」

「誰から聞いた?」

「美術部の山下先生、悪い?」

「別に」

 カズは、母が事件のことをどれだけ知っているのだろうと思った。だが、そう考えると自分も含めだれがいったいこの事件のことを、正確にわかっているかとも思う。誰一人わかってはいない。真澄もトオヤマも山下先生も、もちろんゴリだって、わかっていない。まして教頭や校長などトオヤマの存在すら知らなかったのではないかと思う。

ただこのことは、ノイローゼ気味の中学生が、自分の嫌いな教師をナイフで刺したという世間ではありふれた事件のひとつだということだ。

「真澄ちゃんのうちは歯医者さん?」

「うん、知ってた?」

「小林歯科医院は有名だからね、いろいろと」

「じゃあ、兄貴が自殺したってことも?」

 母は小さく頷くと、缶ビールを一口飲んだ。ビル・エヴァンスのピアノとスコット・ラファロのベースがひそひそ話をしているように、遠くで聴こえる。

「カズ、あなた明日から学校やマスコミ、警察とかがうるさく訊いてくるかもしれないけど、そんなことより真澄ちゃんのことをしっかり考えなさい」

 彼女の表情はめずらしく真面目だった。カズはどういうことなのかと母の言葉の続きを待った。

「あなたが真澄ちゃんを好きなら、やさしくしてあげなさい。十三歳であそこまで、きちっとしているのは辛いことなのよ。彼女、カズの二倍くらい生きている感じがするのよ」

「どうせ、俺はガキだよ」

「ごめんごめん、そういう意味じゃないのよ。カズだって、いろいろ大変なのは母さんわかっているから」そう言うと彼女は息子に抱きつこうとしたが、息子はすっと身をかわして、

「もう! 俺も結構疲れているんだから、ふざけた真似やめろよ」と怒鳴った。

 母はソファーから身を起こすと

「男の子は冷たいなあ。母さんがせっかく、やさしくしてあげようと思ったのに」

 カズはその言葉に「フン」と答え、ソファーに座りなおした。

「でもね、母さんはカズのこと大丈夫だって思っているんだよ。見かけよりも強いっていうか、図太いというか鈍いっていうか」

「はいはい、わかりました」

 十三歳の少年は、冷めつつあるホットミルクのマグカップを持って、自分の部屋に向かった。彼の母は、つぶらな瞳で息子を見送った。


 翌日も雨は降り続いていた。学校は事件のため休校だった。午前中、学級担任の教師がやってきた。実際の年齢よりもかなり老けた感じのする女性教師は、昨日一日でさらに数歳、年をとった印象をカズにあたえた。

 訪問の理由は、事件によるショック受けた生徒に対して心のケアを行うということだった。しかし話の内容は、事件の内容は学校の方で調査しているので、その間マスコミの取材に対しては黙っていろということだった。この事件について、いろんな噂や情報が飛び交うと、落ち着いて学校生活が送れなくなるというのが、学校側の言い分だ。カズは中学校が極度にマスコミ報道を恐れているのを感じ、胸の内でため息をついたが、「わかりました」と感情を表に出さずに言った。担任教師はクラス全員を回らなきゃいけないのと言い残し、急いで出て行った。


 夕方のニュースで、東京都内の中学三年生男子がクラスメート男子をナイフで刺し、刺した本人も自殺を図ったと報じられた。夜九時の続報では、刺された男子は死亡、刺した男子も意識不明の重体だということだった。次の日も四国の中学二年生男子が金属バットで母親を殴り殺していた。トオヤマがゴリを刺したことが合図になったかのように、中学生たちは人を殺し始めていた。



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