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第11章 雷雨の中のサバイバルナイフ

 ゴリがいなくなりトオヤマが走り去った後、二人は神社の濡れ縁にならんで座った。

「小林、これ、うちの母さんから」

 カズはそう言うと、ディバッグから写真を二枚取り出して、彼女に渡した。

「あー、これ連休のとき、お母さんに撮ってもらったやつ」

「ああ」

 彼女はフフッと小さく笑いながら、その写真を見た。真澄の横顔を見ながら、カズはその写真を受け取った時、言った母の言葉を思い出していた。(真澄ちゃんってすごく可愛いけど、何ていうか深い笑顔だよね。中学生でこんな表情ができるなんて、びっくり)仕事柄たくさんの人に接している母だからこそ感じることがあったのだろうか? カズは母の言葉の意味がはっきりとはわからなかったが、心の片隅に引っかかる感触があった。

「市川君は写真嫌いなの? なんだか怒っているみたい」

彼の思索は中断された。

「俺の顔はそんなもんだよ」その言葉に反応したように、真澄は二人が腕を組んでいる写真とカズの顔を見比べた。彼女に自分が見つめられていることを意識して、カズは落ち着かなかった。

「でも、この写真ワタナベ先生に見つかったら、完璧にデートだと思われたよね」

 真澄の口調は秘密を打ち明けるようだった。

「小林こそ、バッグの中見られたらやばかったじゃん」

「えへっ、そうだね。そうそうクッキー食べようよ」

 彼女もディバッグから黄色いポットと紫と紺と紅の模様が入ったスチール製の容器を取り出した。その容器には星型、ハート型、林檎型と様々な形をした小さなチョコレートクッキーが入っていた。カズは星型のクッキーを口にした。チョコレートの香りと控えめな甘さが消耗した体を少し励ましてくれた。

「どう、美味しい?」

「うん」

「トオヤマ君もいてくれたらよかったのに」

 カズはトオヤマが走り去っていった道をぼんやり眺めていた。その道の近くに樫.の大木が立っている。カズがトオヤマやハセガワたちにいじめられ、憎しみや苛立ち、悲しみや孤立感による淋しさをカッターナイフにこめて、あの大きな樫の木にぶつけたのは少し前のことだ。カズにとって世界のほとんどすべてのものが苛立ちや憎しみの対象だったあの頃、そしてその象徴だったあの大木を、今は穏やかな気持ちで白いスケッチブックに描くことができる。大好きな女の子と座って、彼女の作ってくれたクッキーを食べながら、やさしい風に吹かれている。だけどトオヤマは心を病み憎しみに蝕まれ、あの木の横を何事か呟きながら走り去っていった。(もしかして、俺がトオヤマで、トオヤマが俺であってもおかしくなかった。去年の夏ハセガワが死ななければ、俺はずっといじめられ続け、そして小林とも出会うこともなかったかもしれない)

 カズは暖かい紅茶を口に感じながら、そんな思いにとらわれていた。

「でもトオヤマ君来てくれてよかったね」真澄の呟きに彼は現実に戻った。

「ああ、あいつが来てくれたから助かった」

「ワタナベ先生、どうしてあんなこと言うのかなあ」

 その時、神社を取り囲んでいる木々が上の方でザーと鳴った。強い風が上空で舞っている。深い緑色の葉が、様々な形の葉が空から落ちてきた。新緑の季節でも、年老いた葉は大地に還る。

「あいつ、ゴリのこと、ぶっ殺すって言っていたよな」

「市川君、あの言葉、本気じゃないのかな」真澄は真顔で言った。どのような理由で彼女がそう言ったのか、カズには理解できなかった。だが彼は彼女の言葉に頷いた。自分もまた、まったく同じように感じていたのだ。


 結局、月曜日の登校時にトオヤマを二人で待ち伏せする約束をして、その日は別れた。テレビのサスペンスドラマのようだが、カズにとっても真澄にとっても極めて現実的な問題なのだ。カズはベッドの上で天井を見続けていた。白い天井をしばらく見続けていると、視界が白一色に塗りつぶされたように見える。(月曜日にトオヤマの奴が思いっきり遅刻して、ゴリと会わなければいいんだけどな)真澄の不安そうな表情を思い浮かべながら、そう思った。


 月曜日の朝、空には黒っぽい雲が垂れこめている。手を伸ばせばそれらの雲に届くのではないかと思われるほどの低さだ。そのためか大気は重く、湿度は百パーセントを越えているようにも感じられる。風は全くなく、すべてのものが静止しているかのようだ。今にも大粒の雨が落ちてきそうで、生徒達は足早に校門をくぐっている。

 校門は国道沿いに位置しており、赤茶けた鉄製の扉は無機物の塊として存在している。強力な掃除機がゴミを吸い取るように、生徒たちは校門に向かって吸い込まれるかのように小走りになって急いでいる。

 校門の前にはいつものように生徒指導担当のゴリとナスが立っていた。週の最初の日、たるんだ生徒はいないかと二人は目を光らせていた。

「おはようございます」と挨拶をしながらも、生徒たちは誰も彼らと目を合わせようとはしない。それは暗黙の了解であり、ある意味儀式的ともいえた。

 カズと真澄は校門の右手と左手に別れてトオヤマを待っていた。トオヤマはいつもカズの待っている方の道、校門から向かって左手から登校してくるのだが、もしものことを考えて真澄はもう一方の通学路で待っていた。

「ベチャ」という音とともに、歩道に大きな雨粒が落ちてきた。パラパラと硬質な音を響かせ、暗い空から無数の雨粒がいっせいに降ってきた。

 カズは慌てて傘を広げ、腕時計を見た。後三分で校門が閉まる。彼も真澄も校門から五十メートルくらい離れたところで待っているので、そろそろ移動しなければ遅刻してしまう。一昨日の神社の件もあり、週の初めからゴリに睨まれるのはまっぴらだとカズは思った。彼はトオヤマが来る方を再度確認したがトオヤマらしき姿はなく、校門に向かって走っている数人の男子生徒の姿だけが目に映った。(またあいつ遅刻か、まあゴリに会わなくていいや)と思いながら、カズも駆け出した。学生鞄と傘がじゃまになり走りづらい。歩道にはすでにかなりの量の水溜りが、ところどころにできていた。彼が校門の前に着くと、真澄も水溜りを気にしながらやってきたところだった。カズが真澄に(トオヤマは来なかった)と顔で合図すると、彼女も頷いた。

「あと二分!」

 降りしきる雨が作り出す様々な音をかき消すように、ゴリの低音が響いた。二人は校門をくぐるとなぜが少しほっとした。人を待つ作業はそれなりに緊張するものなのだ。彼らが校舎に向かって歩いていると「あと一分!」という生徒指導教諭の声が再び響いた。

 真澄はその声に反応するように後ろを振り返ると、不思議な光景が目に飛び込んできた。ゴリが笑っていた。そして、嬉しそうに叫んでいた。

「トオヤマ、走れーっ。がんばれ。あと三十秒だぞ、間に合うぞ!」

(トオヤマ君が走っている?)真澄はそう思うと、胸の中から発生した異様な圧迫感に衝き動かされた。

「市川君!」彼女はそう叫ぶと、傘も鞄も放り投げて校門に向かって走り出した。(やばい!)カズもダッシュし、真澄の後を追った。

 二人が校門で目にした場面は異様であり滑稽でもあった。ナス教諭は傘もささず腰を抜かして「あわわわわ・・・」と意味をなさない言葉を発している。ゴリはあらぬ方を向きながら、自分に何が起こっているのかわからないという顔をして立っていた。彼の左手は左わき腹のところでトオヤマの右手をつかみ、右手はまったく力が入っていないかのように、ぶらぶらと揺れている。トオヤマは相撲のぶつかり稽古の姿勢のように、ゴリの懐に前傾姿勢で飛び込んでいた。そして右手には黒い柄のサバイバルナイフを握り締めていた。ナイフの刀身の部分はすっかりゴリの左わき腹に刺さっていて見えない。だがそのサバイバルナイフが十二分に機能していることは、刺さっている箇所から血が流れ出て足元を伝い、アスファルトの歩道を薄っすらと赤く染めていることで証明されていた。カズは頭の中が白く霞んでいた。脳が数秒間、思考停止していた。

「バリバリ!」という轟音とともに激しい閃光が視界を包み「ドーン」という落雷音が地面を揺らした。地面の揺れがおさまると、トオヤマはゆっくりナイフを抜いた。それに合わせるように鮮血が吹き出た。 ゴリはその時初めて激痛を感じたのか、両手で傷口を塞ぐようにつかみ、力なく座り込んだ。

「誰かーぁ! 先生方、誰かあ、誰かぁ来てください!」

ナス教諭は甲高い声で叫びながら、一目散に職員室の方へ走っていった。異変に気付いた生徒が何人か校門の方へ集まってきた。

 雨は滝のように降ってきた。あたりは夕闇にでも包まれていると錯覚するくらい暗い。ゴー! という轟音しか聞こえない凄まじい雨の中、トオヤマはサバイバルナイフの先端を目の上にかざした。その刀身にあったゴリの血は豪雨で流されていた。彼は無表情にナイフをゆっくり首筋に近づけた。そして何かの反動をつけるように、右手を伸ばした。

「だめー!」

 その瞬間、真澄はラグビーのタックルのように全身をトオヤマの体にぶつけていた。激しい衝撃に、無防備なトオヤマはもんどりうって仰向けに倒れた。しかしその右手には、サバイバルナイスが固く握られている。真澄は必死にトオヤマに抱きつきながら叫んだ。

「市川君、ナイフ!」カズはその声に、今自分が何をなすべきか本能的に把握した。彼はあわててトオヤマの傍に走りより、ナイフの握られている右手首を思い切り踏んだ。

「コラァ! トオヤマ、離せ!」

 カズは相手の痛みなど想像することなく、トオヤマの右手首を踏み続けた。手首の凝り固まった感触が、運動靴を通じて伝わってくる。けれども渾身の力で踏み続けるうちに、トオヤマの右手はゆっくりと開いていき、真っ黒い柄のナイフが彼の手から滑り落ちた。そのサバイバルナイフをカズは思いっきり左足で蹴り飛ばした。ナイフは水の上を滑るように走り、「キン」と小さな音を立てて校門の黒い滑車に当たり止った。

 カズは荒い息をしている真澄の腕を取り、トオヤマの体から離した。それでもトオヤマは歩道に仰向けのままだった。口を開け、目を開いている。カズも真澄も全身ずぶ濡れで、体は冷え切っていた。真澄の柔らかな髪からは雨が滴り落ち、夏服の白いブラウスは何の役にも立たない。右腕には先ほどトオヤマとともに倒れこんだときにできた擦り傷で血がにじんでいる。それでも彼女はトオヤマの横に座って、彼を見つめていた。

「助けてくれ・・・」トオヤマが呻くように言った。

「助けてくれ、ここから出してくれ・・・・・・」力のない声が、カズと真澄の胸に突き刺さった。

「トオヤマ君、ごめんね、ごめんね」

真澄は泣きながらトオヤマの右手を掴んだ。

「助けてくれ、ここから出してくれ・・・・・・」トオヤマは真澄に手を握られていることに気付いていないのか、同じ言葉を言い続けていた。激しい雨粒をまるで感じていないのか、両目は見開かれたままだ。(トオヤマの奴、何も見えていないのか)カズは大の字になって雨に打たれているトオヤマが蝋人形か死人のように見えた。

「キャー」

「ワタナベ先生!しっかり」

「こらぁ! 生徒は近づくな」

「救急車はまだか!」

 駆けつけた教職員たちの怒号が飛び交った。教師たちのヒステリックな声に混じり、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

「トオヤマ君」山下先生の声が聞こえた。

 カズと真澄二人にとって、その声だけが救いだった。山下先生はゆっくりトオヤマの体を抱き起こした。

「助けて・・・・・・」

 トオヤマは震えながらも、小さな声で言い続けている。山下先生はトオヤマの顔をその痩せた胸に抱いて、大丈夫だ、大丈夫だよと答えていた。カズと真澄は二人の横に佇むしかなかった。

「市川君」

 真澄の声は震えていた。彼女はゆっくりと涙に濡れた顔をカズの胸にうずめてきた。その瞬間カズは彼女の中にある、あまりにも深い哀しみを感じた。その哀しみがどこからきて、どのようなものなのか、彼にはわからなかった。しかし彼は彼女の哀しみをはっきりと感じたのだ。そしてそれは十三歳の少女が背負うには、あまりにも重過ぎるものだった。カズは彼女の哀しみの深さに驚き、怒りさえ感じた。自分たちのまわりには、なんて理不尽な暴力や絶望や哀しみが溢れているのだろう、誰か、どうにかしてくれ! と天に向かって叫びたかった。

 薄暗い闇の中、救急車の赤い点滅する光が近づいてきた。

 大地が唸るような雷鳴は遠ざかっていった。

 雨はまだ激しくアスファルトの歩道を叩いていた。世界は雨で黒く塗りつぶされていた。



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