第1章 暴力の闇の中で
世界は暴力と破壊と絶望の深い闇に閉ざされている。少年たちは光を求め、新たな言葉を求め、ナイフを手にする。彼らはそのナイフで闇を切り裂き、生き延びることができるだろうか? それとも・・・・・・
市川和男はものごころついた頃から、カズと呼ばれていた。カズオよりもカズのほうが呼びやすいという理由だけで、他人がそう呼んでいることに他意はなかった。
カズの髪の毛は短めに刈られていて背は低く痩せぎすで、どこか頼りなさそうであった。顔は美人の母親似で目鼻立ちははっきりとしていて整っていたが、その瞳はなんとも不思議な感じを与えていた。真っ黒な瞳は常に何かを探しているようで、あらゆる物事の本質を抉り出すかのような力を持っていた。その視線を受けるとほとんどの人は、なぜか後ろめたい気持ちになった。
そしてカズは無口で愛想がなく人を寄せ付けない雰囲気があった。
学校の勉強はできなかった。おまけに運動もだめだった。同級生との共通の話題もなかった。カズはみんなに人気のあるテレビのバラエティ番組やドラマの面白さが全然わからなかった。バラエティ番組に出演している芸能人の下品な笑い顔を見続けると無性に腹が立ち、だんだん気分が悪くなってくる。陳腐な筋書きのドラマは、十分もすれば見る気が失せた。だからクラスのみんなと話すこともなく超然としていたので、当然いじめの標的となった。同級生から変な奴、エラソーな奴と思われ孤立した。小学生の高学年になると、誰ひとりカズと口をきくものはいなくなった。そして彼の存在は空気のようなもので徹底的に無視された。まるでカズがそこにいないかのようにみんなは振舞った。もちろん教師の目の前では、カズを無視する子供はいない。教師たちは彼に対するいじめにまったく気づいてはいなかった。カズは学校の教師たちの鈍感さをよく知っていたので、自分がいじめられていることを話す気などなかった。また、そもそも教師にいじめを知らせること自体がありえないことだった。そんなことをすれば、カズに対するいじめがさらに激しさを増すことは明らかだったからだ。そして彼はそのような状況の中でも、以前と変わらず人を馬鹿にしたような態度で学校に通い続けていた。
カズが六年生になると、給食の時間もいじめが続いた。おかずの皿の中に様々なものが入れられた。まず青虫から始まった。次に団子虫となり、ミミズ、なめくじ、バッタ、消しゴム、石ころ、ゴキブリと何でもありだった。同級生たちは彼の反応を見ては楽しんでいた。カズが異物の入った給食を残すと、翌日はさらにひどいもの汚いものが入れられることとなる。カズは毎日嘔吐感と戦いながら、必死で給食を飲み込み続けた。彼はこの身体は俺のものではないんだと念じながら、意地になって食べ続けていた。そして給食時間が終わるとあわててトイレに駆け込み、指に手をつっこんで食べたものを吐き出した。男の子たちはその様子を見て、カズのことを「ブタ」とか「ゲテモノ」「生ごみ処理機」とか呼んでは楽しんでいた。中にはヘラヘラ笑いながら「カズ、食べ物は大切にしなきゃいけないよ。もったいない、もったいない」と言う子もいた。女の子たちは「いやだー」「ヘンターイ」と言いながら、クスクス笑っていた。中には同情する子もいたが、少しでもそのような素振りを見せると、いつ自分がいじめの標的になるかもわからない。だから彼らもみんなと同じように笑っていた。カズ以外のクラスの者たちにとっては、これは昼食時の楽しいゲームなのだ。そしてこの楽しいゲームに参加しないことは、カズ以外の者にとって許されることではなかった。そこには闇の不文律が存在していた。
夏になると挨拶ゲームが流行した。ある朝ふだん誰からも挨拶されないカズが、登校中に突然クラスの男の子たちから声をかけられた。
「カズ、おはよう!」
「おはようございます!」
声をかけた順からカズの肩や背中をぽんぽんと軽く叩き、走り去っていった。
カズは最初声をかけられびっくりしたが、その直後鋭い痛みが肩や背中に走った。チクチクと針が刺すような痛みだった。それはみんなの手のひらに画鋲が貼り付けられてあり、その鋭い針がカズの体に刺さっていたのだ。
「今週の目標はカズ君と挨拶することずぇーす」
「僕たちは大変仲がいいので、毎朝挨拶をしまーすぅ」
最初にカズの背中を叩いた男子がおどけた調子でそう言うと、他の男の子たちはゲラゲラと笑った。
カズは背中や肩の焼けるような痛みに歯をくいしばって耐えながら、大笑いしている男子たちを冷ややかな目で眺めた。その視線は下等な生物を見下しているような、傲慢な光を湛えていた。
「なんだよ、その目つき」
「ゴキブリやなめくじを美味しそうに喰ってる変態が、偉そうに睨むんじゃねえ!」
「変態は変態らしく、痛くってとっても気持ちがいいわん、感じるう、もっとやってぇ、くらい言え! この馬鹿!」
同級生たちは下卑た笑い声を響かせながら、カズから走って離れていった。カズは彼らの姿をしばらく見つめ、それからおもむろに夏の青い空を見上げた。そこにはカズの心を刺激するものは何もなかった。無意味に力強い積乱雲とあきれるほど青い空があるだけだった。
カズは自分が受けているいじめについて家族にも知らせなかった。もっとも家族といえば、子育てに無頓着な母しかいなかった。
マイペースな母は、とびっきりの美人でスタイルも抜群だった。彼女は誰に対しても自然体で接することができ、また会う人が望んでいることを瞬時に与えることができた。そしてそのことが当たり前のように行われ、ほとんどの人間は初対面で彼女の魅力に参ってしまうのだ。だから生命保険の外務員の仕事は天職ともいえるほどで、成績は営業所のトップを続けていた。母一人の稼ぎで十分に余裕のある生活が可能で、二人は最新の設備を備えた高層マンションに暮らしていた。
そんな母はカズに感じのよい笑みを浮かべながら「カズ、あなたももう中学生になるのだから、自分のことは自分でやってね」とよく言うのだった。言った当の本人は仕事で猛烈に忙しいらしく、朝早くから夜遅くまで出かけていた。
カズは彼女が自分たちの生活を支えるために多忙を極めているため、自分にあまり関われないことはわかっていた。だから自分ひとりで生きていかなければならないと、いつのまにかそう考えるようになっていた。
カズは凄惨ないじめにじっと耐えていたが、そのストレスをどうにか発散しないと自分自身が壊れてしまうのではないかと感じていた。三、四日に一度、精神的におかしくなる時間がやってくる。何をやっても駄目な気分に陥り、自分以外のあらゆる物が自分を攻撃しているように思えてくるのだ。そうなると自分の体がどんどんどんどん沈み込んでいく感覚があった。そんなときカズは急いでトレーニングウェアに着替えて、家の近所を三十分くらい走ることにしていた。汗をかいて息をきらせて自分自身の身体感覚を確かめないと、なにかとんでもないことになりそうで自分自身が怖かった。
またカズは授業が終わると、同級生にわからないように行方をくらました。ときどき暗くなるまで住んでいるマンションに帰らなかった。人目につかない神社や公園、空き地がカズのお気に入りの場所だ。彼はそこで小さな暴力行為にふけっていた。カッターナイフで捕まえた昆虫の足を切り落としたり、棒切れで花や葉っぱを叩き落したりした。ミミズが蟻たちに襲われ、のたうちまわっている様子をニヤニヤ笑いながら三十分でも一時間でも見続けていた。そのミミズが死んで動かなくなると、今度は後ろ足を切り落としたバッタを蟻の群れにいれて襲わせた。哀れなバッタはじたばたしながら、蟻たちの猛攻を受け絶命する。カズは生き物が苦しみながら死んでいくのを見ると、胸がつかえていたものが消え去るのだ。それから猫の好きな煮干を野良猫に与え、徐々に警戒心を失わせてカズになつかせる。野良猫が一心不乱に煮干を食べていると、その尻を思いっきり蹴飛ばす。なにが起こったかわからない野良猫が、「ウギャー」とか「ニャン」とか叫びながら慌てて逃げ出す様子を見て喜んだりしていた。公園のトイレに鏡があれば、石を投げつけて割ったり、水道の蛇口を全開にして水を流しっぱなしにしたり、トイレットペーパーでトイレを詰まらせたりした。
カズは自分のやっている行いが、すべて悪いことだと思っていたが、どうにもやめられなかった。自分はこんなことをしなければ生きていけないと、漠然とそう思っていた。