ステレオタイパー
ステレオタイパー
望月 一星
1 dancer in the dark
僕は普通という言葉に愛された人間である。どこにでもいる人間と言ってしまえばそれまでだが、それなりに自分の人生を謳歌しているであろう。というか、むしろ恵まれている。良くも悪くもない大学を出て、いわゆる中小企業に就職した。恐らく僕の勤めている会社は一般的にブラック企業と言われるものであろうが、このご時世どこの企業も同じようなものだろう。まあ、確かに朝礼で社訓を声にならないような声で叫ばされたり、サービス残業ならぬサービス出勤が暗黙の了解になっていたのを身を持って知った時は戦慄を覚えたが、今となってはどれも普通となっている。住めば都とは良く言ったもので、上司の言うことに従ってさえいれば出世街道に乗ることができるのだから、なにも考えず言うことさえ聞いてさえいればブラック企業は夢の企業なのである。
今日もそんな日常を壊さない為に時間どうり、駅へ向かった。もう何年も歩き慣れた道だ。今更迷うこともない。いつものホーム、いつもの場所でいつもと同じ電車を待っていた。そして、いつもの時間に電車の到着を告げるいつものメロディが鳴った、のだがこのメロディなんだかいつもより音量が大きい気がする。スピーカーを新しくしたのだろうか。いや、そんなはずはないだろう。というか、そもそもこんなに長時間も鳴っていただろうか。さっきからメロディがどんどん大きくなってきている気さえしてきた。頭がくらくらする。視界がぼやけてきた。思わずその場に座り込む。何かにもたれ掛かる。気持ちが悪い。早くこのうるさいメロディを消してくれと思い、目をつぶってただただ時が過ぎるのを待った。それから5分ぐらいたった頃だろうか、だんだんと音が小さくなっていくらか気分も楽になってきた。そしてゆっくりとあたりを確認すると、月が照らす満開の桜の木の下にSLが停まっていた。
2 inner space
「え〜次は冥界、冥界」と心地の良い車掌の声が聞こえてきた。ひょっとしてホームを間違えたかなと想いを巡らせながら、あたりを見回すと先ほどまで朝の人混みにもまれていた駅のホームが満月の照らすきれいな桜で埋め尽くされ自分一人しかいなくなっていることに気づいた。駅のスピーカーからはなにやら聞いたことのあるクラシックが流れている。これはたしかドピュッシーの「月の光」だったか。ひとまず冷静に状況を判断しようと自分を落ち着かせていると、自分の視界が狭くなっていることに気づいた。すぐに顔を触ってみるとなにか仮面のようなものが付いていることがわかった。すぐにはずそうとしたが、仮面はぴくりとも動かず、どうやら自分でははずせそうにないことがわかった。なんなんだよこれぇと考えていると、
「今回は君かぁ。めんどくさいなぁ。」と1人の青年がこちらにわざと聞こえるように独り言をつぶやいていた。ぱっとみたところ自分と同じくらいの年齢のように見える。聞きたいことが泉のようにあふれ出してきたがうまく言葉にならず、悶々としていると、
「見たところモダンな日本人って感じだねぇ。」と先ほどの青年がにやにやしながら話しかけてきた。
「こいつぁ長丁場になりそうだなぁ。めんどくさいから先に自己紹介しておくと、俺の名前はジン。ここでは一応ガイドってことになってる。で、あんたは?」
「と、トーハだけど。そんなことより、ここはどこで僕に何をした!」
「そんなこと、だって!名前がいかに大事なのかもわからないのかい!だが、まあいいよ。君たちの世界では”ふぁーすとこんたくと”とやらはとても大事なんだろう?」
もうすでに第一印象最悪だよと思っていたが、そんなことはおくびにも出さずとりあえず聞くことにした。
「説明してあげるとだね、ここは冥界行き電車のホームなんだよ。」
「は?・・・俺は通勤電車を待っていただけだ。そしたら、いつものチャイムがやけにうるさく聞こえて・・・」
「そう、そのときだ。お前は死んだんだ。死因はストレス性からくる心不全。まあ、要するに過労死かな。」
「え・・・?」
急展開すぎて頭が追いつかなかった。全身から血の気が引いていく気がした。
「ここには皆あなたのような死んだものが最初に送られてくる場所で、この時間帯だとだいたい俺がガイドする事になるかな。昔は暇だったんだけどここ10年ぐらいで急にこの時間帯忙しくなったんだよなぁ。」
「死んだだと!なにを言って・・」
「じゃあこれ読んでみなよ。」
と言って渡されたのは朝刊だった。
「今日って何日だったっけ?」
「24日だけど?」
「これ25日の朝刊だぞ。何で持ってる?」
「最近の人間は疑い深いからねぇ。わざわざ僕の部下の天使に持ってきてもらったのさ。彼らには時間という概念がない世界の住人だから、好きな時間を行き来できるんだよ。近頃の人間は珍しい物を見つけるとすぐに研究研究ってうるさいから、もっぱら遠い過去に行くのが流行ってるらしいけどね。別に僕が行くこともできるんだけど、なにせめんどくさいからなぁ。まあいいや、とりあえずその新聞の地域欄ってページの右下見て。」
俺はとりあえず見てみることにした。見た目、紙の感触、紙のにおいそのすべてが本物の朝刊に思われた。言われたページをめくってみると、早朝のホームで心不全と書かれた見出しがあり、読んでみると自分が救急車にかつぎ込まれている写真が張ってあった。だが最後に、意識不明の重体と書かれている。
「おい、死んでないじゃないか!まだ俺は生きてる!」
「そう君は今、生と死の狭間にいる。君たちの世界では三途の川というらしいがそれは大昔の話だ。とうの昔に橋が架かって今ではSLが走ってる。そのSLのホームにきみがいると言っているんだ。」
妙に落ち着いた口調で話しかけてきた。その言い方には人を信じさせる何かがあった。どうやらジンの話は本当らしい。
「俺はこれから死ぬのか?」
「十中八九ね。だが上が君が生きるべきだ、という判断を下すのなら別だが、僕には君がそれに値する人間には思われないね。」
全身からイヤな汗がどっと流れる。だがこの状況でまたイヤミを言われるのもイヤなので紛らわせるためにさっき疑問に思ったことを聞くことにした。
「そう言えばさっき最近この時間帯は忙しいといっていたが、それはたぶん投身自殺が増えたからじゃないのか?」
「ここは自殺したものは来れないんだ。だから恐らく、これから会社に行く電車に乗るという時に、憂鬱になり心にストレスが掛かりおまえのように心不全になるのだろう。そんなことより早くあのSLに乗るぞ。これを逃すとあんたは永久にここから出られず、いずれはこのあたりの霊となってさまようことになるだろう。」
「あの電車はもうこないのか?」
「この電車は一度しか現れないんだ。だから早く。」
「わかったよ、行けばいいんだろ。」
とりあえず今はジンの話を信用するしかなかった。だから、僕はすぐにSLに向かったのだが、振り向くとなぜだかジンが動かない。
「おい、ジンなにしてる。早く行くぞ。」
なぜか物悲しそうな目でこちらを見ている。
「えっと、たしかトーハって言ったよな?お前、自分の頭で物を考えたことがあるか?」
「なにを言ってるんだ。今はそれどころじゃ・」
「なぜ、お前は人の言葉を鵜呑みにするんだ。最近ここに送られて来るものはみんなそうだ。確かにお前の世界では人の言うことに従えと教わるのかもしれないが、それはその人、またはその集団の、その期間におけるルールだ。人間という物であればすべてのものが従わなくてはならないルールではないだろう。一度自分の頭で考えてから、行動しようとは思わないのかい?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃ・・・」
「よくあのSLを見てみろ。客車にドアがないじゃないか。」
そう言われて、まじまじと客車を見てみると確かにドアはなかった。
「どういうことだ・・・・」
SLの煙突からはこれでもかと言わんばかりの煙が天高く立ち上っている。考えている時間はあまり残されていないように思われた。とりあえず、SLまで走り、どこか入り口はないか見回る。SLをぐるっと一周したが、見つからない。やばい、どうしよう。今起きていることが頭で整理できない。極度の混乱のあまり、身体から滝のように汗が流れる。
「お前はこれまでの人生今みたいにピンチに陥ったとき、どうしてた?」
不意にジンが穏やかに声をかけてきた。
「今お前の頭は錯乱状態だろう。急に死んだと言われ、冥界に行くためのSLにはドアがなくて乗ることができない。でもこれに乗らなければ、霊となってこのあたりをさまよい続ける。どうすりゃいいんだ・・・と」
大体その通りだった。だが、パニックになってしまいもう考えることも容易ではない。
「いまここで何もできないのがこれまでお前の頭でものを考えてこなかった証拠だ。ずっと人の言うことに従ってばかりだったから自分で行動できないんだ。」
ジンの声が妙に響いて聞こえる。
「ここで取り残されると俺にとっても厄介なんだ。だから今回だけは助けてやる。一応ガイドだしな。SLに乗る方法を教えてあげよう。イメージするんだ。SLに乗った、とね。」
なにを言ってるんだこいつは。考えただけで乗れるようになるわけがない。
「そんなことで乗れるわけが・・・」
「ここは精神世界だ。考えた事が現実になる。」
だが、もうやってみるしかない。俺はSLに乗れる・乗れる・乗れる・・
「いいねぇ。その調子だ。」
考えることに集中した。しばらくするとSLが動き出した。
「SLが発車したぞ!だめじゃないか。」
「今やめちゃだめだ!そのまま続けて。」
突然ジンが大声を出したので俺は驚いた。すると、あのSLが線路もないというのにUターンしてこちらに向かって来ている。
「このままだとぶつかるぞ!」
「トーハは当たり前のことしか言えないのかい?もしぶつかるとしたらここにいる僕も死んじゃうじゃないか。それとも僕が自殺志願者に見えたかい?」
ジンは笑っている。この状況を何とも思っていないのか。SL独特の車輪を線路にたたきつける音が際限なく大きくなって耳に突き刺さる。俺は目をつぶってただ乗ることだけを考えていた。
「困難から目を背けちゃダメだよ。真正面から見るんだ。」
目を開いてみると、鬼の形相のSLが眼と鼻の先に見えた。だが、意外にも恐怖感は薄れ、状況が把握できるようになってきた。
「人間って奴は想像の世界にはいるとすぐに悪い方向に走っちゃうんだ。ポジティブになるより、ネガティブになる方が簡単なんだよ。」
その言葉を聞いた直後、俺はSLと真正面からぶつかった。一瞬何が起こっているのか理解できなかった。身体が吹き飛ばされると思いきや、体がSLを通り抜けているのである。ジンが言っていた精神世界とはこのことだったのか。まだ駅から出てすぐだったのでそこまでスピードも出ていない。俺は透き通る体で客車の中にある座席を見つけ、そこに座った。すると、体に感触が戻り、試しにいすをさわってみると透き通らなくなっていた。
「第一段階はクリアだね。」
横を見るとジンがそう囁いた。
3 One after another
俺は外を眺めた。相変わらず満月が辺りを照らしている。桜並木はどうやら通り抜けたようだ。SLは暗やみの中をただ下へ下へと進んでいた。
「さっきはよくやったね。結構あそこで脱落する人も多いんだよ。あ、そうだ、まだまだ道のりは長いんだから、バーにでも行こう。」
「このSLにはバーなんかあるのか。そうだな、今は俺もいっぱいひっかけたい気分だ。だがその前に俺の顔にへばりついてる仮面について説明してもらおうか。」
「だんだん余裕が出てきたね。これは能面なんだ。能面というのは表情がないんだ。だから上を向くと明るい表情、下を向くと悲しい表情を表現できるようになっている。あと、視野が極端に狭いのも特徴の一つだね。どうだい、今の君にぴったりだろう?」
俺はすぐにポケットからスマホを取り出し内カメで自分の顔を確認してみた。ただ無言で表情のない顔がこちらを眺めていた。
「ちなみにこれは泥目という能面なんだよ。本来は女用の面なんだけど・・」
「それより、これはどうやったらはずせる?」
「はずせないよ。というかこれは君の心の現れだ。ここは精神世界だから心が目に見えるようにして現れるんだ。だから僕にはどうすることもできない。」
心の現れか。正直そう言われて妙に納得してしまった自分がいることも確かだ。よりによって泥目か・・
「さ、バーに行こうぜ。」
俺たちは前の号車に向かって歩き出した。客車と客車の連結部分までやってきたところでジンは言った。
「さあ、この先がバーだ。開けてみてくれ。」
俺はなんのためらいもなくドアを開けるとものすごい熱い風が吹き込んできた。一瞬びくっとして外にでると、雑居ビルが乱立している繁華街の薄汚れた裏通りらしきところに出た。外は真っ暗で、ビルのライトアップが夜空に色彩を加えていた。
「何が起こった・・バーってのはあのSLの中にある訳じゃ無いのか・・」
短時間で何度も衝撃を受けすぎて感覚が麻痺してきた。
「何ぼやっとしてるの。こっちだよ。」
ジンはこっちの気もしらないで勝手にどんどん行ってしまった。俺は何とか気を取り直して、ジンに着いていった。辺りを見回してみると、どうやらどこか都心から少し離れた寂れかけている町のように思われた。ビルの隙間からとても豪華で立派なビルが垣間見えた。だが今居るのは狭い裏路地でネオンサインや看板によって視界の大半を埋め尽くされている。今度はいったいどこに来たんだ・・
「さあ、着いたよ。この階段の下だ。」
すすけた薄緑色のタイル張りで覆われたビルの入り口に下へと続く暗い階段があった。一応ランプはあるようだがほとんど機能しているとはいえない状態だった。ぼろぼろの看板には「いないいない ばぁ」とあった。
「おい、本当にここか?如何にも怪しいんだが」
「自分で考えるんだね。選択肢は山のようにある。とりあえず、お先に。」
そう言って、ジンは真っ先に階段を下りていった。俺は周りを少し散策してから行こうと考え、辺りをぶらつくことにした。しばらく裏路地を進むと大通りに出た。これだけ立派なビルがそびえ立って居るというのに、人の気配がしない。それよりもほんの少し歩いただけで、町のレベルが比べものにならなかった。ぼろぼろの潰れかけた住宅、辺り一面に広がる農地、ゴミだらけの道路。これは貧富の差が計り知れないなと思った矢先、自分はどの方向から来たのかわからなくなっている事に気づいた。周りを見渡しても似たような裏路地ばかりである。ここだと思って入ってみたが、あのバーにはたどり着かなかった。顔から生気が無くなっていく。やってしまった。素直にジンの話を聞いていればよかったのだ。帰れなくなったらもうどうすることもできない。自分はいつもこうだ。なにかをやろうとしてうまくいった試しがない。もうだめだ・・視界が暗くなっていく・・・
「何をやってもダメだな。」
「君みたいな人は黙って言うことを聞いてればいいのよ。」
毎日のように俺に浴びせられた言葉だ。子供時代の先生に始まり、クラスでのリーダー格、会社の上司、同僚から言われたことさえある。後ろ向きになってはいけないと頭ではわかっているのだが、いつまでも行動にすることができない。自分を変えられない。ズブズブと深い沼に落ちていく・・・
「もうおしまいかい?もっと楽しませてくれよ。」
突然ジンの声が聞こえた。
「ここは精神世界だと言ったろ。思ったことが現実になるんだ。このままだと地獄行きだぞ。」
はっと周りを確認してみると、さっきまでアスファルトだった地面がいつの間にか深い紫色の泥沼になっていて、ビル群はこけやツタなどがびっしり生えて今にも潰れそうな廃墟になっていて、ビルの壁面から大小さまざまな目のようなものがこちらをのぞいていた。
「助けてくれ!どうしたらいい!」
俺はあまりの恐怖に体をがたがた言わせながらジンに叫んでいた。
「たまには自分で考えたらどうだい?」
ジンはこちらを見ながらにやついている。
「助けに来てくれたんじゃないのか?」
「君のその仮面、泥目のパワーは甚大でね。少しでも自分はダメだなんて考えるとすぐに泥目の故郷、地獄に引きずり込もうとするんだ。言い忘れてたから忠告しに来たらこの有様ってわけ。」
「そんな大事なことはもっと早く言えよ!」
「その仮面はトーハの心の現れだと言ったろ。それは今までの君の人生の総決算だ。明るい生き方をしてればこうはなってない。それに僕に怒鳴り散らす暇があるんだったら、早く抜け出す方法を考えた方がいいよ。じゃ、先にバーで待ってるから。」
「おい、ジン!」
ジンはこっちには目もくれず先に行ってしまった。もうひざの辺りまで沼に浸かってしまっている。足を動かすこともできない。手に届きそうな範囲に掴めそうな物は何もなかった。助けも見込めない。自分で考えるしかない。思えば今までの人生でこのような状況は初めてかもしれない。困ったらすぐに人に聞いて、その通りに動いていた。人に流される生き方をしていたから、自分がない。意見を求められて、特に何も発言できなかったのはこういった理由だろう。これじゃあ、まるでロボットだ。毎日同じことを繰り返し、定期的に燃料を供給され、何か問題があるとプログラムし直される・・・あぁ、今になって思考がクリアになってきた。このまま死ぬのだろう。身体の感覚がおかしくなってくる。もう、腕の辺りまで泥が迫ってきた。ん?腕?俺は目もおかしくなったのか?よく見ると腕がロボットアームになっている。自分のからだを見ると、すべてロボットになっていた。俺はどうやら、ロボットになったようだ。俺は笑った。盛大に笑った。自分でもなぜだか分からないが笑い続けていた。すると、誰かに肩を叩かれたような気がした。一体誰だこんな時に・・
「トーハ君、そろそろ起きなよ。飲み過ぎはよくないよ。」
女性の声でハッと目を覚ますと俺はどこかの店のテーブル席に座っていた。どうやら机の上で寝ていたようで、腕には自分の顔の跡があった。すぐ横には小柄でナースの格好をした女の子がこちらを見ていた。俺を起こしてくれたのはどうやらこの子らしい。
「これは夢か?・・・どこまでが夢だったんだ?そして、あなたは?」
「あら、もう忘れちゃったの?いないない ばぁのオーナー、穂椎 愛よ。いつもあなた店の前まで来て様子を伺って帰っちゃってたけど、今日初めて入ってくれたんじゃない。」
「店の前まで来てた?俺が?・・・それより、ジンはどこ?」
「あら、さっきまであなたの向かいの席でグラスホッパー飲んでたけど・・いないわね。」
どういうことだ。というかガイドがいないとここからあの列車に帰ることもできない。
「ジンなんか心配しなくてもどうせひょっこり帰ってくるわ。そんなことより、ちょうど仕事が終わったところだしあたしと飲み直さない?」
はっきり言って俺はする事がなかったし、この子の暇につき合うのも悪くないと思い、飲むことにした。テーブル席だと一緒に飲むのには遠すぎるというのでカウンター席に移動した。そのときにこの店のBGMが耳に入ってきた。これはエリックサティが作曲したジムノペティだ。女の子にしては凝った選曲だなぁ。
「ご注文は?」
「じゃあ、ジントニックで。」
そう言うと慣れた手つきでカクテルを作り始めた。グラスに氷をいくつか入れ、やたらと長くて細いスプーンで氷をかき混ぜて、溶けた水をコップから出してから、酒と炭酸水とライムを入れて少し混ぜる。最後の少し混ぜて味を調えるところまで気を張り巡らされていて、カクテルを作るその動きはとても優雅で見ている者を引きつける魅力が感じられた。
「はい、どうぞ。」
「ありがとう。ずいぶん手慣れてるようだけど、ここに勤めて長いのかい?」
「長いも何もここは精神世界よ。トーハ君の世界で言う時間という概念がないのよ。ジンに教えてもらわなかったの?」
初耳だ。ジンの奴てきとーに教えてやがるな。
「まあでも、ああ見えていい奴なのよ。」
「何言ってるんだ。あんな奴・・」
「言葉だけがその人のすべてを表しているとは限らないわ。その人の行動、態度、癖、日常生活すべてにおいてその人の心は表れるわ。その心を見るのよ。身は体を表すっていうでしょ。」
急に哲学的な話になってきたなぁ。
「心ねぇ。そんなもの見えりゃ苦労しないよ。」
「見るんじゃなくて感じるのよ。トーハ君は言葉が通じない人と会話したことない?少なくとも、映像でなら見たことあるわよね。例えば、洋楽とかオペラそれからキング牧師のスピーチとか。そのとき、言葉の意味は分からないけど何か感じない?それがその人の心なのよ。」
考えてみると確かに、字幕の映画を見ていて説得力や感動を覚えたことはある。ふーん、心を感じる・・・か。
「トーハ君の世界の現代人って、空気を読むって文化なんでしょ?だからみんな同じ反応、行動することが求められるのよね。それに、必要以上に相手に興味を示しちゃいけない文化だから、みんなささいな行動で人を判断するしかなくなってるのね。ラインの返信がこない、視線をそらされたとかね。そんな表面上の行為しか見てないんだったら、誤解して当然じゃない。もっと人と深く関わって、その人の心を見なきゃダメよ。」
そこまで言い終えたら、自分のために作っていたプシーキャットを口に含み、俺に微笑みかけてきた。笑顔がよく似合う。
「心ねぇ。まぁ確かにその通りかもね。」
そういって俺はグラスに手をかけた。刺激的なライムの香りが鼻を突き抜ける。
「そういえば、ここの町はどうなっているんだい?第三者から見ても貧富の格差が人目で分かるぞ。」
「あら、この町はトーハ君の記憶を元にできた世界よ。だから、トーハ君が見ていた世界とほとんど同じだと思うけど?」
俺の記憶から生まれた世界か。つまり俺はこうやって世界を見ていたということなのだろう。
「そうか。まぁ、そんなに裕福な家庭に生まれなかったからこんな風に世界を見てたんだろうな。お金持ちの家庭に生まれた奴は精神的にも余裕があるし、友達も自然とそんなような奴が集まってくるから全然違った世界になるんだろうけど。資本主義の原理とやらに神はいないね。」
愛は、はぁとわかりやすくため息をついてこちらを見た。
「トーハ君は、貧しいと心も貧しくなるって考えてるの?お金持ちだったら全員幸せだと?」
「そりゃぁそうだろ。発展途上国の人達なんかみんな生きるのに必死で、普通の日常生活を送るのにさえ苦労してる。それに比べれば、日本はだいぶ恵まれてるよ。」
俺はなんのためらいもなくそう答えた。
「それって結局テレビやネットで聞いた情報を鵜呑みにしてるだけじゃない。トーハ君は実際にその発展途上国に行ったことはあるの?誰かが言ったことをそのまま信用して誰かに発信するんじゃダメよ。一度立ち止まって自分の頭でそれが本当に正しいかどうか考えなきゃ。じゃ、もしトーハ君が言っている事が正しいとしたら、なんでで日本は自殺率がこんなにも高いの?国別の自殺率ランキングで日本は上位10%よ。通勤の時、ほとんど毎日のようにどこかの路線で人身事故が起きているのを不思議に思わなかったの?それに、実際に現地を訪れるとよく分かるけど、日本のサラリーマンみたいに死んだ眼をした大人なんていないし、大人と子供が一緒になって遊んでるのよ。確かに仕事に対する意欲は薄いから何をするのにも不便だけど、そのかわり精神的な豊かさでいったら、ぜんぜん日本人よりも恵まれてるわ。みんないきいきとした顔してるもの。」
俺は驚いた。この訳の分からない世界に来てから、自分の価値観が揺さぶられている気がする。俺は今までメディアが発信した情報をなんの疑いもなく信じていたということであろう。無意識のうちに。
「俺は確かに面倒ごとから眼を背け・・いや、考えないようにしてきた・・のかもな。」
俺はいつもポケットに忍ばせているタバコのプラシーボに火をつけた。ふぅー、はぁー・・・煙が心に染み渡る。心がリセットされる。
「ずっとずっと小さい頃から教え込まれてるのよ
。”考えない・疑わない”ことをね。学校が始まってからずっと考えないし疑わないいわゆる普通になることを目指す教育を受けてきたのよ。その上、そう言った人間の方がすぐに評価されるし、周りからの信頼も厚いわ。そういった生き方の方が楽に生きられるし、その教え自体”疑わない”からほとんどの日本人はトーハ君のような生き方を選ぶわ。だから、そんなに気にしなくてもいいんじゃない?」
そういった愛の顔は本気だった。慰めているつもりなのだろうが、俺にとっては耳が痛くなる発言だった。二本目のプラシーボに手を伸ばそうとしたとき、携帯のバイブ音が聞こえた。
「携帯鳴ってるよ。」
「私のじゃないわ。あなたのでしょう?じゃ、その隙にちょっとトイレ行ってくるわね。」
「え、俺の?」
あわててズボンのポケットを探ると、自分のスマホが着信を知らせていた。よく見るとLINE電話で着信相手は”神”と書かれていた。こんな奴友達に登録してたかなと思い電話を取ると、
「やあ、トーハ。無事だったかい?」
と、紛れもないジンの声が聞こえた。
「お、お前どこにいるんだ?こっちはなんとかバーまで来れたけど・・・それより、さっきはよくも見殺しにしてくれたな!」
「見殺しとはひどい言いぐさじゃないか。これでも君のガイドなんだよ。窮地のところでアドバイスしたじゃないか。」
その声はどこか楽しそうだ。愛の言っているようないい人には残念だが思われない。
「あんなのアドバイスでもなんでもない!」
「それはそうと、愛に次のステップに進ませてくれと伝えるんだ。しばらくそっちに行けそうもない。じゃ、そこで会おう。またな。」
「おいジン!・・・」
そこで電話は切れてしまった。完全にこっちの
都合など考えていない。まったく、あれでよくガイドが務まるな。しばらくすると愛が戻ってきた。
「で、電話の相手はなんて言ってた?」
「ジンが次のステップに進ませてくれって愛に伝えろって。」
「トーハ君やったじゃない。ついにお許しが出たのね。こっちよ。」
そう言うと、入り口のすぐ横にあるエレベーターに案内された。案内される途中やたらと愛が上機嫌で久し振りだなぁとか精が出ちゃうなぁなどと独り言を漏らしていた。なんでこんなに上機嫌なんだと考えている内にエレベーターに着いたのだが、どうやらかなり古いタイプのエレベーターらしく、じゃばら状の鉄格子を横にずらして、中に入れてくれた。床には真っ赤の絨毯が敷かれ、普通のエレベーターでは階数のスイッチがあるところにごっついレバーがつきだしていた。そのレバーの前に愛が立ち、
「下へ参りまーす。」
と元気な声を出すとともに、レバーを下げるとエレベーターが急降下を始めた。端から見ると、ナース服のお姉さんがエレベーターガールを勤めるというのは不思議な状況である。そこから扉の上に目を移すとそこには階数を知らせる半円状のメーターが着いていて、右端に”EDEN”真ん中に"EARTH"左端に”HELL”と書かれていた。エレベーターの速度が上がるにつれ、メーターの矢印の速度も上がっている。そして、現在この矢印は”EARTH"から"EDEN"に向かっている。だが、この速度から考えると目的地までだいぶ時間がかかるように思われた。
「ひょっとすると、エレベーターガールになるのが夢だったの?」
「何でそう思うの?」
「だって、やけに上機嫌じゃない?」
「夢だった訳じゃないけど、楽しいじゃない。」
まるでおもちゃを与えられた子供のようにはしゃいでいる。なんか微笑ましい光景だ。
「ところで、このEDENってなんのこと?」
「そこはトーハ君の世界ではエデンの園って言うんだけど、知らないよね。まぁ、楽園ってとこよ。」
この世界の人達はみんなてきとーなのか。とは言ってもこれまでの流れから言って詳しく説明されたところで恐らく理解できないだろう。
「じぁあ、HELLは?」
「それはトーハ君の世界で言う地獄ってやつね。」
地獄ねぇ。本当だろうか?
「あ、今私のことてきとーだと思ったでしょ?」
「まぁ、・・・少し・・・。」
「思ってるじゃない。」
「ところで、よく能面の上から表情が読みとれるね。」
「能面ってなんのこと?確かに目の回りに上によく仮面舞踏会かなんかで付けるマスクみたいのはあるけど。」
僕はあわてて顔を触ると確かに目の回り以外に仮面の感触は無かった。一体この仮面はなんなんだ?
「なんなら鏡でも見る?」
そう言って愛が何かレバーを動かすと、背面の壁がきしむ音をたてて動き出し、鏡が表れた。そこには僕が写っていたのだが、何かがおかしい。目の周りには確かに真っ赤の仮面が着いているのだが、全体的に色が薄い。というよりも、透けている。
「なんか僕の体透けてないか?」
「そりゃ、EDENに行くんだもん。生身のからだじゃ行けないよ。」
「そういうことは先に言ってくれないか?」
「びっくりさせようと思ったのに・・反応うすいなぁ。」
ああもう、この世界にはこんな人しかいないのかと考えていたら、エレベーターのスピードが落ちてきた。前のメーターを確認するとEDENのEの文字に針が掛かろうとしていた。
「もうそろそろ着くかい?」
「到着でーす。足下にお気をつけて降りてくださーい。」
そう言って、愛がレバーをいじり、前面のドアが開くと、視界を覆い尽くすほどの紫の蝶が全身を包んだ。蝶のふわふわした感触が肌に広がる。前がほとんど見えない。
「おい愛、この蝶を何とかしてくれ。」
人を呼ぶには大きすぎる声で助けを求めたのだが、返事がない。また、人を驚かせて楽しんでいるのだろうか?いや、きっとそうだ。もう声を出さないでやる。などと考えていると蝶の感触が少なくなってきた。だんだんと蝶の数が減ってきている。思いきって、外に向かって走った。足の感触からエレベーターを出て、コンクリートの上を走っているのがわかる。蝶の数が数えられるぐらいになってきて、辺りを見回してみた。すると、どうやらここは坑道のようだった。オレンジ色のネオンライトがぽつぽつとあって、お世辞にも清潔とはいえないコンクリートの道が奥まで続いている。壁には落書きがされていて、もういや、あぁもう、なんでぼくだけといった言葉が乱雑に刻み込まれている。後をみると、自分が来たはずのエレベーターはもう無く、ただ闇が広がっていた・・・
「迷える子羊君、久しぶりだねぇ。何か聞きたいことはあるかい?」
突然のジンの声に身の毛がよだった。ただ、ここから離れたところにいるのか、声が反響している。
「おいジン、コレは一体どういうことだ。僕はHEVENに来たんじゃないのか?」
「そうさ、ここが君にとってのHEVENに向かうまでの道だ。いつも君はHEVENに行く途中こんな道を通って来てるじゃないか。それをただ具現化しただけだよ。」
「なんだと・・・」
「とにかく、前に進むんだ。あと、トーハがいつもやってるように音楽もかけてあげるよ。じゃ、がんばって。」
しばらくすると、耳障りな雑音とともにピアノの音が鳴り響いた。これはたしかエリックサテイの「ク・セ・ジュ」だったか。もの悲しくもどこか明るさのある曲だ。僕は前に歩き出した。一人で音楽を聞きながら暗い道を歩くなんて、つまらないことこの上ない。ん、これって・・・。何かに気づきかけたそのとき、奥から光が射し込んで来ていることに気づいた。まぶしいながらも、奥をみてみると100メートルぐらい先に出口があるように見えた。おれは走った。走るのは久しぶりですぐに身体が蒸し暑くなる。それでも走る。出口を抜けた。すると、そこは・・・・
5 Your heaven
僕の家だった。それは紛れもなく、僕の家だった。読みかけの本、開きっぱなしのノートパソコン、刺しっぱなしの充電ケーブル、そのすべてが僕の家を物語っている。ここが僕にとっての天国か・・・
「お、やっと着いたね。とりあえず座ったら?」
ノートパソコンのスカイプが勝手に起動していて、そこにジンの顔が映し出されている。
「もう、怒る気力も湧かないね。」
「だいぶ、疲れてるねぇ。」
正直もう寝てしまいたい。寝て今日起こったことすべてを忘れてしまいたい。床に座り込むと、急にテレビのスイッチが入った。ズァーと、砂嵐の状態で雑音だけが鳴り響いている。と思うと、チャンネルが切り替わり、ジンがニュースキャスターの姿で登場した。
「おい、何やってるんだよ。」
明らかに似合っていないタキシードに身を包むジンを見て、俺は笑ってしまった。
「ニュースのお時間です。本日は・・・・・」
もう疲れていて、ほとんど聞こえてこなかった。するとまたチャンネルが変わった。今度は、ミステリーハンターに扮したジンが、ピラミッドを探検している。
「みなさん、これは驚くべき発見です。何と、ピラミッドの内部には・・・」
次は何になるんだと思い、僕がチャンネルを変えると、今度は討論番組だった。
「今回の議題は教育問題です。」とキャスターが言うと、
「それは・・・・」
「だからそうじゃなくて・・・」
「いやだって・・・」
デープスペクターのつもりなのだろうか今回は付け鼻をしている。それに、この相手はよく見たらかつらをかぶった愛じゃないか。でも、二人のやりとりがおもしろくて、笑った。なんか小腹が空いてきたので、チョコをとり、ネットを開いた。退屈しのぎには最高だ。そういやあのアニメの続きやってるかなといつものサイトに飛ぼうとしたとき、急に玄関のドアが開いた。そこにいたのはジンだった。
「これが君にとっての天国だろ。」僕を見るなりいきなりそう言い放った。
「君は今幸せかい?」
無表情でジンがこちらを見ている。
「休みの日は、いつもこんな感じなんだろ。特になにをするわけでもなく、ただごろごろと。」
僕は言い返そうと思ったが、言葉が見つからなかった。
「いいかい、トーハの頭の中で液体に浸かっている脳は、映像が大好物なんだ。アメリカで行われた実験なんだが、同じ事柄を映像と文字で説明したら、映像の方が説得力があると感じた人が大半だったそうだ。だから、ネットやテレビの情報は信じてしまいやすいうえ、脳は新しい情報も大好物だから一度味をしめるとなかなか向け出すことができない。つまり、気をつけないと一瞬で依存症になれるんだ。もはや、一つの宗教だね。」
確かにネットやテレビに依存している人は80%というデータも聞いたことがある。
「だから、・・・なんなんだよ。それでも楽しいから別にいいじゃないか。」
「別に俺は悪いなんて一言も言っていないよ。ただ、これじゃあ自分が機械を動かしてるのか、自分が機械に動かされてるのかわからないなぁとモダンな日本人を見て感じたことを言っただけだよ。」
僕は、もうイヤになってきた。疲れたし、耳障りなことばかり言われるのにも耐え難い。もう、終わらせようと思い、考えていたことをぶちまけることにした。
「ふっ・・・そうか・・・ならそろそろ教えてくれ。僕はもう生き返ることはできないんだろ。最初にSLに乗ったときから、さっきのエレベーターに至るまでまでずっと下に向かってる。これはつまり、地獄に向かってるってことじゃないのか。あと、それからジン、あんた実は神様なんだろ。漢字の神は音読みでジンだし、さっき携帯に電話してきたときも神って着信名だったし。それで僕が生きるのに値するかどうか見極めてるんだろ。だから、早く結果を教えてくれ。僕はもう疲れた。」
そこまで言い終えると、ジンは少し笑って、
「少しは考えられるようになったねぇ。でも、まだまだだね。ここは、精神世界だと言ったろ。精神世界を下に潜っていくということは・・・」
そこまで言い掛けたところで、急にいつも通勤の時に流れるホームの音が大音量で鳴り響いた。前の時と同じようにまた頭がくらくらしてきた。今回は疲れているせいもあってか、気持ちが悪くなってきた。身体をうずくめる。しばらくすると、収まってきた。なにか薬のにおいがする。今度はどこに来たんだと、辺りを確認すると、僕は病院のベッドで横たわっていた。
6 And that's that
そこはどうやら二階の病室だったらしく、外の窓には電線や木の葉っぱがちらほら見えた。横の机にはいつも自分が使っている通勤かばん、スマートフォン、壁には朝自分が着ていたスーツが掛かっていた。ここは、どこなのだと考えていると「トーハさん、お目覚めになりましたね。」
と、首から聴診器をぶら下げ白衣を着た医者が話しかけてきた。
「あの、僕はあれから何があったのですか?」
「トーハさんは今朝倒れてしまったのですが、調べてみたらひどい目眩を起こしてしまったようです。」
え・・目眩・・。
「目眩ですか・・・ということは特に命に別状はないのですね。」
「えぇ。心配なさらなくても大丈夫ですよ。そういえば、先ほど看護婦から伺ったのですが、何かうなされていたようで、夢を見ませんでしたか?」
「見ました。それも、すごい現実チックな。」
「たまに、患者さんで気を失っていたり、麻酔中に夢を見る方がいらっしゃるんですよ。医学的には寝ている訳ではないので、夢を見るはずはないのですが。」
「そうなんですか。まぁ、いずれにしても助けていただいてありがとうございました。」
「いえいえ。お大事になさってください。」
そう言って、病室を離れてしまった。それにしても、変な夢を見たなぁと思っていると、
「失礼、トーハさんですね。」
と、リクルートスーツで身を固めた30代くらいの男が話しかけてきた。
「ええ。そうです。」
「私は政府の厚生労働省の者です。単刀直入に聞きますが、ついさっきまで夢を見ていませんでしたか?」
なぜ、この男が知っているのだと不思議に思いながら
「はい。見てましたけど・・・」
と答えると、かばんからタブレットを取り出し説明し始めた。
「この夢は、労働者精神回復プロジェクトの一環でして、トーハさんは仕事による精神的負担が他の労働者よりも大きい為に、本プロジェクトの対象者とさせていただきました。」
「ちょっと、待ってください。なぜ僕が他の労働者よりも精神的負担が大きいと判断されたのですか?」
「それは、スマホの検索傾向を見れば一目瞭然です。スマホのIDは個人に割り振られていますから、誰がなにを調べていて、今どのような状況なのかはすぐにわかります。そして、トーハさんの精神状態だといつ自殺をしてもおかしくない状態でしたので、早急に駅に指向性スピーカーを設置しまして、トーハさんに眠ってもらい、特殊な電波をあてて、あのような夢を見ていただいたのです。」
「となると、目眩というのは・・」
「目眩など起こしていません。ただ、このプロジェクトはまだ明るみに出ていませんので、この病院ではこのプロジェクトのことを存じ上げているのは院長のみです。」
「はぁ。ということは、僕に口止めに来られたということですか?」
「いえ、そうではなくエラーが起きてしまったのです。本来であれば、もっと前向きに生きていこうといった内容の夢が流れるはずだったのですが、なぜか今回のような・・・」
「状況はわかりました。もう結構です。」
「このたびは申し訳ありませんでした。」
「いえ、大丈夫です。では、お引き取り願います。」
「はい。また、経過報告に参りますので。」
と言って、病室を去っていった。政府のプロジェクトだと。なにか、俺の知らないところで変なものに巻き込まれているようだ。そういえば、投身自殺をすると遺族に電車が遅延した分の損害賠償がなされるというのはデマだったと聞いたが、あれは政府が流したデマだったのだろうか。考えたところでわかるようなものではないか。いづれにせよ、そんなに悪い夢ではなかったなと回顧していると、
「まったく、相変わらずだなぁ。」
と声が聞こえて、どっかで聞いた声だなと聞こえた方を振り向くとそこにはジンがいた。
「はっ、お前どっから入ってきた!」
「俺は思念体だから、どこからでも入れるのよ。」
ジンは、壁をすり抜けて遊んでいる。
「結局お前はなんなんだ?」
「さっき、トーハが近いこと言ってたじゃん。そんな感じだよー。」
相変わらずの適当かげんだ。
「この夢は結局なんだったんだ?」
「だから、何度も言ってるでしょ。」
ジンは笑ってこう言った。
「自分で考えろ。」
あとがき
僕は昔から、探検することが好きだった。学校が終わると友達と自転車に乗って、風を全力で感じてどこか新しい場所に行く。そこで、見たことのない風景、綺麗な蝶、友達とのしょうもない会話を楽しんだ。帰り道、夕日を眺める。綺麗だ。また、全力で走って帰る。風が心地いい。身近なところにも、ただの幸せというのは・・・ある。