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「空のあを」

作者: Syuuko Tanaka

 おばあちゃんが石段の最後の一段から足を滑らせた。まえのめりになって頭を打ったようでしばらく動かなかった。

 子どもは投げ出された細い腕を取ってさすった。おばあちゃんはゆっくりと立ち上がって額をさすり、

「おお、年は取りたくないねぇ。のじまさんも言っていたけど、ほんまにねぇ」

と呟いた。近くの、軒先にチリンチリンと風鈴を下げた店に、バニラバーを買ってその帰りだった。そこの店主ののじまばあさんは腰が折れてしまったかのように曲がっていて、白くなりきれない黄ばんだ髪をしている。近所の子どもたちに時たまよくわからないことを話しかけると有名で、買い物をしている間子どもはおばあちゃんの背に隠れてどきどきしていたのだった。

 「あいたぁ。たんこぶができるわぁ。あいたぁ」

 呟いておばあちゃんは石段のはしに腰を下ろした。

 子どもも反対側のはしにちょこんとすわって、石段の赤錆びた手すりと、手すりの根元から出ている苔と、その中の小さく光るような黄色い花を見た。ふっと目をあげると堂々とした雲が空に真っ白くそびえたっている。

「暑くないかい」

「うんあつい。まるでからだがとけちゃいそぉ」

母親の口真似をして子供どもはいった。おばあちゃんは笑った。

「そうだろうねぇ。アイス食べ」

「うーん…」

 子供はみちゆく人に見られないかと恥ずかしかった。けれど真夏の昼下がりなので暑すぎて誰も出てこないようだった。二人は炎天の下にいた。どうしよう、だいじょうぶかな、と子どもが思案しているうちに、おばあちゃんは汗をかいている箱の蓋をばりばりと開けてアイスを取り出してしまった。

 しかたなく子どもはちょこちょことおばあちゃんの隣に来た。おばあちゃんはちょっとでも日よけになってやろうと体を傾けた。太陽は真上に来ていたからあんまり意味を成さなかったけれど、おばあちゃんは子どもの側にいると少しほっとしたのだった。小さな子どもをみるとかわいらしくって、胸がぎゅうと、まるで死んだつれあいを思い出すときのようにやわらかな痛みを感じた。

 おばあちゃんと子どもは二人、ならんでアイスを食べた。子どもは恥ずかしいのでさっさと食べようとしたけれど、前歯が生えかけなのでうまく噛めなかった。おばあちゃんは入れ歯なのでゆっくりと食べている。それで、おばあちゃんと子どものアイスを食べる早さは同じになった。

 口の中でひんやりと蕩けていくバニラを感じていると、吹いている風も少しだけ涼しくなった。チリリーン。どこかの家の風鈴が鳴った。

 苔の中の黄色い花も揺れて、空の光を反射したのかキラキラと光った。


 「もう少し休んでいいかい?」

ふたりいっしょにアイスを食べ終わると、一年前に転んで、足を悪くしたおばあちゃんは子どもに聞いた。

 子どもは嫌だった。さっき真っ白な日傘をさしたおばさんにジロリと眺められて恥ずかしかったのもある。それに、こうしているうちにアイスが溶けて、おばあちゃんがお母さんに怒られるのを見るのが嫌でもあった。

「アイス溶けちゃうよ。お母さんに怒られるよ」

「うん、でも、もうええよ。おばあちゃんはもうすぐ死ぬんよ」

おばあちゃんは目を伏せて、溜め息混じりにいった。

 その言葉を聞くと、子どもは胸の奥がズキンズキンするような、おばあちゃんの胸を叩いて泣きわめきたくなるような感覚におそわれる。

「ねえ、雨ってなに色なの?」

子どもは全然べつのことをおばあちゃんに聞いた。嫌な気分を逃れたかったのもあるし、真っ白い雲の浮かぶ真っ青な空を見て思いついたからでもある。

 子どもの唇に残ったアイスをぐいと拭ってから、おばあちゃんはゆっくりとしゃべりだした。



「雨は青いよ。

 一粒一粒はおこめみたいにちいちゃいけどね、

 それが集まってあおーい海になるんだから雨は青いよ…」


「空はじっさい小さな小さな果物のあつまりなんだよ。

 熟れてはじけて落ちると、それが小さな雲になる。

 落ちた果物がいっぱい集まると、でっかいでっかい雲になる。

 その雲を、でっかい、がっこう百個分くらいのかみさまの手がギュッとしぼるんよ。

 絞りたての水は檸檬のようにいい香りがして、嘗めるとほのかぁに甘いんよ。甘露だ。今は落ちてくる途中に汚れてしまうから、わからないんだろうけど。

 昔の雨はほんとにうまかった。それに雨がふったあとはうんと涼しくなったもんだ」


「今だって、こんなに青い空の次の日の雨をじーっと見てごらん。きっと分かるから。せかいがあじさい色にけぶっているのが分かるから…」


「なんで空は青いの、って、それはおまえ」


 おばあちゃんは目を細め、かなしくうたうべき故郷を思い返すときの顔になった。


「おばあちゃんのクニだとねえ、人は死んだら青い羽の蝶になるって言ったもんだ。それはほんとだと思う。

 あたしは戦争でオトウチャンを亡くした。オカアチャンは戦争が終わる三日前、真っ白い箱になって帰ってきたオトウチャンをみて、バラック小屋のなかで赤ちゃんみたいにおわあおわあ泣いた。オカアチャンはそれから寝込んだ。そんでね、戦争が終わって一年後、十五歳のあたしを残して死んだ。

 なくなったオカアチャンは小さな火葬場に忙しくつれてかれた。冷たくなったオカアチャンは灰色のような青のような顔色だった。 それから外に出た。火葬場の煙突からほそーいけむりがゆらゆら、まっすぐと立ち上ってた。こんな晴れた日だった。空のきれぇな日だった。 けむりは青かった。あたしはそのころ目がよかったからちゃんと見えた。煙の先のほうは確かにちょうちょになって上へ上へと舞い上がってた」


「あの青いちょうちょが天上について羽を休めると、そのまま果物になるのさ。神様に助けてもらってね。

 ずーっと昔から、人は死ぬもんね。空が青く染まっても不思議はないだろうよ」


「あたしたちは死んだ人の魂のかけらを飲ましていただきながら、どうにか生きてる。

 だから死ぬのは怖くないんよ。

 それらを天にお返しするだけ。」


「でもね、あたしが死んだら涙を流すんよ。流してね。たくさん流してね。

 あたしのオカアチャンがあたしのオトウチャンにしたように。 豊かに泣いて、そしたら涙も天に昇るから、あんたのあたしに対する思いを、あたしにほんの少し分けておくれ。

 そうしたらね、あたし、どこをどう巡ってのあんたのことをずっと覚えてられるから…」



 実際におばあちゃんはこんなにすらすら言えたわけではない。

 声は細く震えていたし、しどろもどろなところもあった。

 子どもも全部を真面目に聞いていたわけではない。なぜなら太陽が暑かったからだ。

 それでも、子どもの記憶に、今でも声はとどまり続けている。

 うちにかえるころにはバニラバーは全部溶けていて、ふたりいっしょにお母さんに怒られた。

 どろどろに溶けたアイスから、骨のように棒が突き出ていた。

 おばあちゃんも、やがて溶けて消えてしまうんだと、子どもは思った。



 あの夏の日から十年と少しが経った。あの時生えかけだった私の前歯は少し出っ歯になって、思春期の私をずいぶん悩ませた。それもいつの間にか気に留めなくなるほど、子どもの頃よりずっと早い単位で時間が流れていく。私は少し大人になったのだろう。

 が、どんなに年を重ねても、祖母の孫であることに変わりはない。


 祖母は、その次の朝、起きてこなかった。

 石段で転び、コンクリにしたたかに打ったあたまには単瘤ができておらず、青いあざとなって少しだけくぼんでいた。その窪みが命とりだったのだと思う。

 祖母が焼かれた日は、あいにくの雨だったし、システム化された火葬場でゆらゆらと立ち上る煙を見ることはできなかった。ただ、火葬場の植えこみのあじさいの色が、静かに降る雨に溶け、涙で曇った視界には、確かに世界は淡い青に滲んでいた。

 しかし、この世に青にそめられないものがあることも、子どもは知った。

 悲しいまでの骨の白さだ。

 波打ち際の貝殻のように、たくさんの波に洗われては洗われ、色素を抜かれた、白。

 もしも祖母の命である青い蝶が、白い骨の周りを埋めるのなら、骨はきっと青い空にぽつねんと浮いた、白い鳥のように見えるに違いない。


「白鳥は哀しからずや空のあを海の青にも染まずただよふ」若山牧水

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