その1
目を開けると、空があった。
雲一つ無い綺麗な青空。
暖かな日が差し、そよ風が僕の頬を撫でる。心地好い春の陽気だ。
…こんなに気持ちいいのだから、もう一度寝てしまおう。
そう思った僕は目を閉じる。
そして再び眠りに就こうとして、ふと、疑問が生まれた。
「春…?」
僕が眠りに就いたとき、果たして春だったのか、と。
いや、疑問に思うのはそこではない。
そもそも、草原で眠っていた理由が謎である。
「ええと、確か…」
思い出そうと記憶を辿るが、何も出てこない。
それどころか、酷い頭痛が頭を支配し始める。
「う、あ」慌てて思い出すのを止めると、頭痛が治まる。
それがきっかけとなり、僕は次々と自己に対する違和感を自覚する。
"声はこんなに高かったのだろうか"
"身長はこんなに低かったのだろうか"
"ここは一体どこなのだろうか"
"僕は誰なのだろうか"
次々に浮かぶ疑問に対する答えは、一つとして浮かばなかった。
分からない。
解らない。
判らない。
自分の名前も住所も誕生日も家族も友達も思い出も。
今の僕には何も無い事に気付く。
一切何も覚えていない。
自己存立の根拠が見当たらない。
先程から感じていた漠然とした恐怖が、少しずつ密度を増していく。
寒気がする。震えが止まらなくなる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
僕は立ち上がって叫んだ。
叫ばずには居られなかった。
どうして良いのか分からなかった。
ただ、叫び続けた。
僕の理性的な部分は目線や声や風景に違和感を唱え続けていたが、やがて思考を停止した。
どうせ何も覚えていないのだ。
何の意味もない。
足元の花を引きちぎった。
食べてみたら苦くて不味かった。
草原を転げ回った。
地面を殴り付けた。
無意味な行動である事は理解している。ただの八つ当たりだ。
分かっていながら僕はそれを続けた。
やがて遠い地平線に夕陽が沈んで行く。
ひとしきり暴れて疲れきった僕は草原に寝転がった。
身体の節々が痛くて仕方がない。
とても空腹だ。
だが、少なくとも落ち着いた。
現状を整理してみる。
僕は記憶を喪失してどこぞの草原に一人きり。所持品は着ている服のみ。肉体年齢は十歳前後と推定。精神年齢は不明。
…まるでファンタジーのような話だ。
ともかく、僕が当面やるべき事は人探しと情報収集、そして食糧の確保だ。
仮の名前は適当に考えよう。
今日から僕は権兵衛だ。
記憶はおいおい取り戻して行こう。
そう無理やり自分を納得させて僕は眠りに就く事にする。
野生動物とか気にしない。
岩が硬いけど気にしない。
かなり寒いが気にしない。
不安材料ばかりだったが、疲れが僕を眠りへと誘ってくれた。