第40話・レイレイの密約とプロポーズ
胎児はよく動く。おなかの中で動くたびに私はうろたえる。男の子? 女の子? どちらでも私のおなかから出てしまえば自動的にこのメイディドウイフの次期君主になる。たいしたものだわ。
……で、私はどうなるの? 次の子もありなの? それとも口封じのために殺されるかな? 私は殺される選択肢はないと思っている。
なぜならば太后が私にそれなりによくしてくれているからだ。もうすぐ出産ということを差し引いても、なんとなく命だけは大丈夫そうだなと思っている。復讐はそれからだ。そして私は日本に帰る。
出産までには私はすべきことはあった。しかし太后と常時一緒という異様な環境ではかなり無理があった。救いはレイレイ、そして太后の弟であるザラストさんだ。
私は朝ごはんのあとに毎日壁際のバーに足をかけてストレッチをする。太后は執務だ。それも私と一緒の部屋だ。いつでも数台の大きな画面のパソコンの前に座って仕事をする。独裁者ってもっと動き回るものと思っていた私はそれがすごく意外だった。そして太后は老いている。私が来た時よりも……。
会話はほぼなくともやはり年寄りだなあと感じるのだ。立ち上がった時の背中の曲がり具合、手首のしわ、豪華な宝石類から見える指関節のふくらみ、首筋の切り取り線のような横しわも深く垂れ下がっている。足も最初の数歩はよろけている。私がはっとして介助したこともある。その時はすぐにダミアンとレイレイのどちらかがやってくる。時には点滴をしにくる。
私はそういう時は部屋の奥に引っ込んでベッドで横になっている。奥のベッドは太后だ。寝る前に話をすることもないが、横で寝ている軽いいびきなども聞くこともある。太后が執務というかパソコンモニターを見ながら誰かと会話をしている間は見えない位置の鏡の前にいることもある。軽い運動をかねてのバレエストレッチだが太后がトイレや水を飲みに行くために立ち上がろうとするとよろけたりすることが大幅に増えたのだ。
それと、ふっふ……ふっふ……という呼吸の音。これが早くなるとダミアンかレイレイのどちらかが点滴瓶が置かれたワゴンを運んでくる。もう八十才なので何かしら病気があって当然だが、最初にレイレイにあったときは確かもう長くないと聞いている。言葉と見かけは元気にみえてはいても、弱っているのではないかと思えてくる。
太后は点滴の間でもスマホのような細長い機器をもって命令する。
「ニェッニェッ」
「ダヴァイ」
言葉は短いが語気が荒い。大半が眠って過ごして知らぬ間におなかが膨れている状態になってはいるが、私も短い言葉ならば太后の言葉がわかるようになってきた。ニェッはダメということ。ニェッニェッは絶対ダメのこと。ダヴァイは「まあいいでしょ」 ということだ。笑い声など聞いたことはない。
世界有数の富裕者で権力者で独裁者。そうではあっても、太后は人生が楽しいのだろうかと思う。でも私には優しい。ダリアという謎の血縁者を介して私はこの太后と結ばれて太后と建国者の太后の父親のDNAでもって最先端医学の胎児をおなかの中に抱き、出産しようとしているのだ。時には笑顔を向けることもある。二人してずっと同じ時間を過ごしているのだ。私は太后に対して憎いのと妙にいい人だよね、という正反対の感情に揺れ動く。
その日はいつもの点滴が終わらなかった。いつもなら二時間ぐらいで終わるのだが、ダミアンが太后に何かを説得しているようだ。カーテン越しにレイレイも横についているのがわかる。太后はダミアンを小声で叱責していたが、それも弱々しい。私はむくっと起き上がる。するとカーテンが少しだけあいてレイレイと目があった。普段ならレイレイと目があっても会話はかわさない。でもその時のレイレイは白衣を着ていても私にそっと手をふった。「え?」 と思ってレイレイの顔を見ると軽く頷いたのだ。
私は「どういうこと」 だろうかと考えた。私に関しては宮殿の皆さんにとって透明人間のはずでレイレイもまたそういうふうになっている。レイレイが私にかかわるとダミアンに殴られたりもしているのだ。しかし、その答えはその夜にわかった。
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私は寝ていた。太后の居住と仕事部屋は兼用なのだが、その奥が太后のベッドだ。私たちは窓のない部屋にいる。天窓はあるがそれだけだ。私はもうそれに慣れてしまってはいるが、太后はどこへも出かけるわけでもないし、大きな画面のパソコンに向かって話すだけで独裁者というのも変だな、とは思っていた。そしてここ数日は確かに体調が悪いようだった。ダミアンが何かを説得しているが「ニェッ」 と拒否しているようだ。私はいつものようにベッドの上でだらだら、もしくはバレエストレッチをしながらも、何かを感じていた。その感覚が本当になったのはその夜だ。
つまり、レイレイが私のベッドの横にやってきたのだ。驚いてベッドに起き上がった私にレイレイは「シイッ」 と抑えた。
「めぐみ様、ビデオのスイッチをほんの数分だけ切りました。ダミアンはここ数日寝ていず今休んでいいます。ほんの短い時間しかないのでお願いですので私の話を聞いてください」
私はさっと奥のカーテンを見たがレイレイはそれも察したようで「太后様も眠っておられます」 という。私はレイレイを見た。レイレイは私のベッドの横に膝をついている。天井のビデオから見ると私の脈拍を見ているか何かに見られるだろう。今この瞬間、ダミアンや太后が起きたら一体どういうことになるのか。私が黙るとレイレイは私を見上げて真剣な顔をした。そして言葉は早口だった。
「めぐみ様は現在妊娠六か月ですが、出産の話が出ています。理由は太后様の病状が思わしくないからです」
「……ちょっと待ってよ。妊娠六か月で出産はできるの?」
「帝王切開と保育器でいけますよ。もちろんめぐみ様のお身体にもさわりはありません」
「そ、そんな勝手な……」
意外な話に私は面食らうし怒りもある。私の身体はおもちゃではない。しかしレイレイは命がけで話に来ている。とにかく話は最後まで聞こう。
私もまた息をつめてレイレイの口元を見下ろす。
「太后様はどうしても自らの手で赤ちゃんを抱いて命名したいとの仰せですので。もちろん六か月では自然分娩は無理ですので、帝王切開の上ベビーは保育器に入れて育てます。そしてこのメイディドウイフの建国記念日の六月に出産の発表と、帝位を譲ることを世界中に知らせます。つまり太后の万一のことがあってもこのやり方で決定されています」
「私はどうなるの」
「出産後もこのお部屋でお休みいただけます。その手筈です」
命は大丈夫そうだな、と、安心したがやはり太后はそんなに悪いのだ。そういえばここ数日太后の姿を見ていない。私のベッドの奥にいる。カーテンのその向こうに。同じ部屋で暮らしていて、私は太后のベッド横までは行ったこともない。そんな異様な環境だ。レイレイは真剣な目をしている。
「めぐみ様、私を信用してください。我が国のトップシークレットとして悪いようには扱いません。そして私とダミアンはそのベビーの主治医や看護師、養育係でもあります。どうぞ安心してください」
「私は日本へは……」
ダミアンは首を振った。そういえばザラストさんもまたこう言っていた。
……我がメイディドゥイフが諸外国から日本人女性を拉致してしかも子供を産ませたと認めることはできない。そのかわりにめぐみには十分な見返りがある。少なくとも出産はこの宮殿内でしてもらう。それは受けてもらう……
そして私にも王位継承権はあると言っていたな……。私はレイレイにそっと近寄った。レイレイの眼は光っている。たぶん私の眼も光っていたはずだ。
「とりあえず出産はあるのね、帝王切開……六か月でも本当にやる気なの? 私がイヤだといったらどうするの。どうせ眠らせるのでしょう?」
「めぐみ様、お願いですから気をしっかりもってください。私はあなたを最初見た時から、きっと大きなことをやり遂げられる方だと思っています」
私はつばを飲み込むのに苦労した。
「私が大きなことをやり遂げる……その……大きなこととは……」
レイレイの眼が今度はぎらっと光った。
「メイディドウイフの支配ですよ。そのためには私たちは夫婦にならないといけません。それが条件になるでしょう」
夫婦! 私とレイレイが夫婦!
結婚しろというのか!
今のこの私と結婚!
もしかしなくても、プロポーズ!
レイレイの顔は真剣だった。小声で私に言うのだ。こんなプロポーズってあるだろうか。私はレイレイの顔をじっと見つめる。レイレイは私を見上げたままだ。
「めぐみ様……私の野望でもあります。なぜならば王位継承権は私にもあるからです」
「なんですって……レイレイは王室の、つまり太后の親戚なの? では、ザラストさんとも」
「そうです……グレイグフ皇太子よりも血縁は濃いです」
「一体どういことなの?」
「ああ、時間がありません。めぐみ様、承知してください、ぜひ」
「その前にザラストさんと相談したいわ、ぜひ」
「なんでもします、なんでもやらせていただきます、だからどうか」
母の声がする……めぐみ、あぶない、めぐみ……私はレイレイの視線から逃げない。彼の申し出は大変に重要だからだ。レイレイの顔にあせりが見られた。
「ダミアンからもきっと何かを言ってくるかも、グレイグフからもです。時にはザラスト様からも。お願いですから私と確約してください。太后の亡きあとは私がめぐみ様のお世話をしますのでどうか」
私は母の危ないという声に耳を傾けるが、しかしもうすでにその危ないことは渦中にあるのだ。私は妊娠している。出産後までは動けないだろう。
私は微笑んだ。とりあえずレイレイのいうことが一番マシだろうと思ったのだ。何よりも安心の日本語だ。それも大きい。そうでないとこのわずかな人数で私の存在を知るわずかな人数で私と意思疎通ができるのがレイレイだけではないか。
レイレイの眼が輝いた。そして膝と背中を伸ばす。私の顔によせてきた。そしてキスをする。唇を触れあわせる初キスだ。暖かくて柔らかい……私を包み込むような熱のこもった優しいキス。しかし私はキスを返さない。レイレイの背中がもっと伸びてきて私の体を覆った。私の両手はレイレイの頬を抑えた。そしてできるだけ遠くに放り出すようにした。レイレイの顔が遠ざかった。レイレイは私から静かに離れる。
「めぐみ様……今日の話はここまでにしましょう」
レイレイの姿が視界から消えた。
私の立場は完全に逆転した……のかもしれない。私は動く胎児に両手をやる。高貴なる静かなこの部屋。
奥にはメイディドウイフの独裁者、死にかけの老婆がいて、私はその皇位継承者を身ごもっているのだ。私は静かな笑みを浮かべた。どうにでもなれという感覚と……もしかしたら、という感覚。
私が私でないような感覚があると同時に、私でないとできないことがあるという感覚が混ざっている。
そのうち「私でないとできないこと」 がおきる。これは確定だ。
確かに今はレイレイしか頼れない。
だけど事態は変化するだろう。