第36話・メイディドウイフ即席温泉・中編
格子戸を閉めると白い湯気が私を包んだ。ここから先は異世界のようだ。いや、違うね。ここは私が拉致されたメイディドウイフの宮殿だ。最上階で国のトップ、独裁者が住んでいて私はその後継者をお腹に宿している。私はこれからその独裁者と一緒に温泉に入るのだ。床は鏡でなく分厚いじゅうたんがひいてあった。そのじゅうたんのうえには階段がある。階段から水がしたたっている。鏡の間にじゅうたんをひいて格子戸を作ってその上に温泉を作る?
うそだといいたい展開が多すぎる。
私は湯気を透かして中を見た。階段は四段ある。鏡の間のじゅうたんから直に階段ができていた。幅は鏡の間にあった大きなテーブルぐらい。湯気を透かしてじゅたんの模様を見ると階段の模様が格子戸と一緒だった。温泉を知らない外国人の作る温泉とはこういうものだろうか。ここを一晩で作るのは大変だろうが、設計者は日本人じゃないな。
鎖国の中の温泉、よくやった方かな。私は少しだけ笑みを浮かべたと思う。
そっと階段を上る。すると、今度は茶色の布じゅうたんが現れた。すでに水で重たげに濡れている。まさか……と思ったがそのまさかだ。そこが脱衣場でそこから先は全部湯船だった。
「めぐみ、△△◎◎◇! オンセン!」
太后がすでに湯船に入っていた。なんといつもの長袖ロングドレスを着たままだ。私は温泉なら全部服を脱ぎましょうというべきか少しだけ迷ったが何も言わぬことに決めた。意思の疎通もろくにない拉致命令を出した相手になんか気遣うことはない。あっちは私を温泉に招待して勝手に気遣っているつもりだが、ふん、そうはいくものですか。と思っている。
それでも温泉の湯気、温められた水の匂い……ヒノキの匂いなどはしないし、お風呂に入れていた入浴剤の匂いも何もない。坂手大臣は本当に温泉の素をあげたのかしら? もしかしてちょっとしかあげなかった? 試供品として一、二袋ぐらいはあげたかもしれないけれど?
一度使って気にいったら鎖国を解いて日本と取引したらこれもたくさん輸入できますとか?
が、それでも懐かしさを感じた。太后が私を見ている。手をひらひらさせて、入れといっている。そして私が入らないという選択はしないと思い込んでいる。私は太后に悪意をもっていないと信じている。ばかばかしいしいな、太后……。
私はお腹を軽く揺すった。それから服を着たまま入ることにした。下着もつけたまま。太后と同じようにしたつもりだ。謁見の間の急ごしらえの温泉で素裸になることもないだろうと思ったのだ。
それにしてもと我ながらの下腹部を眺める。へそから下が膨らんでいる。この中に胎児がいる。太后とその父親のグレン将軍の子供だ。私のお腹の中にその信じられないカップルの子供がいるのだ。私はうれしくない。それでも一矢報いてやろうと思っている。私の中にそんな腹黒い感情があるのを今まで知らなかった。環境は人間の性格も変えるのはわが身で経験中だ。
見回したが掛け湯をする場所も洗面器も何もない。ほんとに話だけ聞いて即席で作られた温泉場だ。温泉とはこういうものですという説明をする気力も気概もない私はまず右足を温泉にそっと浸した。熱すぎず冷たくもないちょうどよい湯加減だ。
両足をひたして改めて私は温泉場を眺めた。鏡の間の天井はもともと高いのでその中にも温泉場だけの天井が作れるのか。ちょうど正方形の箱の中にはいったような感じだ。皇太后はその一番奥にいた。彼女が笑顔を出してまっすぐにこちらを見せているのはめずらしいことではないだろうか。他には人はいない。すぐ外側ではレイレイとダミアンが控えているはずだ。近衛兵たちも何かあればすぐに駆けつけてくるだろう。しかしここは一応個室だ。太后の居住区でプライベートな部屋で寝起きしている私にはその延長だろう。しかしメイディドウイフの歴史上の人物と一緒に日本の温泉を模したお風呂場で二人きりで入るとは思わなかった。珍しい体験だろう。
私は太后のそばに素直にすすんで腰を下ろした。肩まで湯船につかるのは、メイディドウイフにきて初めての経験だ。ふうっとため息をついた。ほんとに久しぶりだ。お風呂につかるのだ。私は日本のあの小さな家で小さなユニットバスを思いだした。こんなに広くもなかったが、小さな棚きちきちにシャンプーやリンス、くし、ぴん、せっけん、お父さんの髭剃り用かみそり、かかと専用のタワシ、お風呂用洗剤やホースまであった。狭いのにごちゃごちゃしていた。懐かしく思う。
ここには何もなさすぎるが、でも肩まで湯につかるっていうのは心までほぐす。と、太后もまた肩まで湯につかりながら、私のそばにまで寄ってきた。いや、すぐに密着してきた。また強制わいせつというのか、さわられると思って思わず身構えたが、違うようだ。太后の視線で私のお腹を見に来たとわかった。そしてスイカをさわるように、私のお腹にスリップ越しでさわってきた。
「あ、あの、ちょっと……」
同時にお腹の中がぐりっと動いた。それは太后にもわかったらしい。
「おう……」
太后が笑みを浮かべた。満面に。
「おう、れびょうのく……おう、メイディドウイフ◎◇グレン、◎◇メイディドウイフ」
小さな声だったが、はっきり聞こえた。彼女は赤ちゃんが大きくなっているのを喜んでいる。何度も私のお腹をさすっていた。彼女の顔はお湯で濡れてはいたが、お湯ではないものも、彼女の目から流れ出ている。私は黙って彼女の横顔をみていた。耳の前の豪華な飾り、ブルーサファイヤとダイヤだろう、それにあわせて首にも宝石が、手にも指輪がいくつも飾られている。彼女はお風呂に入るときもそれをはずさなかったのだ。世界有数の金持ちであるメイディドウイフの独裁者、スタブロギナ・プラスコヴィヤ太后は私のお腹をさすって涙を流す小さなおばあさんでしかなかった。




