第九話、帰宅したら痴漢が出た
◎ 第九話
とりあえずさっきいった棚下さんを囲んでのどういう話でおさまったかはよくわからない。朝出迎えてくれた田中さんと鈴木さんが「お待たせしました。では、そろそろ帰りましょう」と声をかけてくれたのは一時間後ぐらいだった。大山さんが「ご苦労様でした」とあいさつに来てくれた。
また倉庫の中を横切って朝来た時と同じ大きな公用車で乗って帰るのだが、公安の広本さんや自衛隊の偉い人らしい棚下さんや若い自衛隊員たちはいなくなっていた。
お父さんは大山さんに念を押した。
「これでもうあの使節にも会うことはないし、外務省関係者にも会うことはないでしょうな」
大山さんもうなずいた。
「そうですな、正直あんなにあっさりと帰るとは思いませんでした。こちらとしては話を長引かせて情報を仕入れたかったというのも本音ですが、お嬢さんの将来もあるし、第一国交がない国でもあるし、いろいろと面倒な国でもあります」
お父さんは、はっきりと言った。
「メイデイドゥイフがそんなに面倒な国だと外務省は認識しておられるのか、ならば私達に知らせる前に断ってくれてもよかったと思いますね。皇太子の人となりがどうのこうのと、こちらは言いません。ただうちは本当に庶民ですしね、今後もかかわりたくないのが本音でもあります」
「あちらがさっさと帰った以上、爆雪さんとはもう会うこともないでしょう、だから大丈夫でしょう。いろいろとびっくりなさったと思います。これから自宅まで送らせていただきますので……とにかくご苦労様でした」
「では失礼します」
大山さんは私の方をちらりと見た。私は大山さんにも会釈をしたが、大山さんは私には話しかけることはなく、何も言わなかった。帰りも田中さんが運転し、鈴木さんが助手席に座った。行きと違って帰りは誰も見送りはなかった。
自衛隊基地の敷地から車が出て高速に入ると、お父さんはようやく背伸びした。
「あーあ、やっと帰れるのか、やれやれだなあ」
鈴木さんが苦笑した。
「そうですね、大変でしたね。われわれとしてもあんなふうにさっさと帰国されるとは思いませんでしたがね、まあ気まぐれな皇太子なのでしょう。使節のレイレイとやらも徹夜で飛行機を飛ばして我が国まで飛んできましたが、とんぼ返りで帰国して皇太子に報告して……ご苦労なことです。かの国ではあの子はもういいや、花嫁候補の話はなしってなってますよ、きっとね」
お父さんは言った。
「いやもう、この話は忘れますよ。それよりもどこかのサービスエリアに入ってもらえないですかね、朝ごはんを食べてないのでお腹がすいてます」
田中さんも笑い出して「そういえば私たちも朝ごはん抜きで迎えに行ったので、じゃあみんなで朝兼昼ご飯はどうですか、外務省の交際費でおごりますよ。ただ外での会話は誰が聞いているかわからないのでこの話に関しては話さないということでご注意ください」と言ったのでそうすることにした。
高速道路のお店の中のレストランに日替わり定食というのがあって、私たちは全員同じものを頼むことにした。とんかつとエビフライとコロッケがメインでごはんとお味噌汁がついている。飲み物だけコーヒーか紅茶が選べる。私は紅茶にした。定番のメニューだがお腹がすいていたので結構おいしく食べることができた。会話の内容を事前に制限されていたので、お父さんと田中さんと鈴木さんはあたりさわりのない天気の話をした。年の話になって三人とも四十歳だということがわかって急に仲良くなったみたいだった。そういえばあの例の皇太子だって四十歳でしたな、とお父さんがうっかりいいかけて鈴木さんにたしなめられたりした。
帰りの高速はわりとすいていたのに、車もゆっくり走ってくれていた。鈴木さんも打ち解けたようで私に「疲れたでしょ? びっくりしたねえ」と声をかけてくれたりした。黙ってお父さん達の話を聞いていたら田中さんも鈴木さんも海外生活が長く結婚もしていた。今まで仕事で行ったことのある国はロシア、イタリア、ドイツ、イギリス……アフリカも行ったという。私は外務省の仕事っておもしろいのかなあと聞いていた。でも鈴木さんたちの子供は私より小さく幼稚園児です、とか小学生三年生です、といっていた。おなかもいっぱいになったし、行きよりも帰りの方が時間が短くてすんだようだ。
見慣れた家の玄関につくと、ああ、これで終わったのだという安堵感が出てきた。鈴木さんと田中さんはもし何かあれば名刺にあった私どもの電話にいつでも連絡くださいといって、ていねいに挨拶して去っていった。小さな我が家に二日連続で来た大きな黒塗りの公用車はご近所でも目立ったがそれでもこれで終わりなのだ。
私たちは鍵を出して普通に家にあがった。私はすぐ二階にあがってベッドに倒れたい。短い廊下を駆け上がって階段を登ろうとしたら、お父さんがあれ、といって立ち止まった。
「どうしたの、お父さん」
「めぐみ、ちょっと部屋に戻るのは待ちなさい」
お父さんは私の左腕をぎゅっと握った。
「お父さんたら、やだ手をはなしてよ」
「いや、だめだ。私から離れるな。カーテンも開けない方がいい」
とたんになんだかこわくなって、私は両手でお父さんの手にすがりついた。二人で居間に入り、電気をつけた。私たちの家だ。新聞や雑誌で床がちらかっていて、台所のテーブルにお父さんの老眼鏡やペンやメモ帳があるのも同じだ。お父さんがなぜこんなに用心深いのか見当がつかない。
「お父さん、どうしたの?」
「……どことなくヘンなことはないか、私にもなにがヘンなことかわからないが、だがちょっと家がおかしい」
「やだあ、そんなあ、泥棒が入ったの? いつもの引き出しの奥を見てみよう」
そこには貯金通帳と印鑑がピンクの小袋に入って割りばしやストロー、スーパーでもらった紙製のスプーンが乱雑に入っているのだ。
私はお父さんの手を片方で握りながら台所にある流しの横の引き出しを上から開けてみる。でも変わったことはなにもない。何も盗られてない。
「お父さんったらあんなことがあったので、気にしすぎじゃないの」
「……二階にあがって私の書斎、それとめぐみの部屋に行こう」
二人で手をつないで、お父さんの書斎と私の部屋に行ったが別に変わったこともなかった。
「お父さんたら気にしすぎだよ、泥棒が入るわけないじゃんか」
お父さんは首をふった。
「いや、どことなくヘンだと思うがなあ、はっきりとわからないんだ。ちょっと不安でどきどきするよ
」
私はお父さんが終始冷静だったのに、今になって緊張がほぐれておかしくなったのかと思った。
「今日は休みだけど金曜日なので夕方からバレエレッスンがあるよ。昼寝してから行ってくるね」
「……うーん、今日はあまり外へ出ない方がいいと思うがな」
「でも私は普通に戻ったのよ、お父さんったら、あまり変なことをいうと怒るわよ」
私は普通に過ごし、昼寝もした。一眠りしてから六時になったのを確認してバレエレッスンの用意をする。シューズにタイツ、レオタード、タオルに水分補給用のお茶。レオタードは今日は一番のお気に入りの明るい水色にした。朝にあったあのレイレイって人もこういう色のスーツを着ていたなあ、日本人であの色を男性でカッコよく着こなすのは難しいだろうなと思いつつ。
このレオタードは後ろのデザインが凝っていて縄で編んだようになったデザインだ。これは高かったので今年のお年玉が全部なくなったのを覚えている。でもこれを来てレッスンで踊ると自分が上手になったような錯覚をおこすのだ。私はこのレオタードが好きだ。そしてあのレイレイと会った印象もこの色なのだ。だからこのレオタードがもっと好きになるような気がする。
なのに、今日のことがあったのでやはり行かない方がいいよ、とお父さんは言ったので私は言った。
「お父さんたらさっきからヘンよ、もう普通の生活に戻ったのだし、もう終わったことよ。私がこないと理玖も心配するよ」
お父さんが静かに言った。
「あのな、私は昨日の夕方に田中さんや鈴木さんが来て帰ったろ、その時に改めて見た例の動画はアクセス数がせいぜい五千ぐらいだった。なのに今日見てみたら一万アクセスになっている。一晩で倍のアクセスが増えているんだ。これがとても不気味でな……どこかでこの話が漏れてやしないか、そして理玖ちゃんがコンクールで優勝、インタヴューを受けたことでバレエ教室と名前がわかっている。ということは必然的にめぐみの名前もわかってしまうだろ」
「……」
「めぐみ、私が言っている意味わかるか? そして家の様子も違和感がやっぱりあるんだ。戸棚を開けたらな、なんとなくヘンなんだ。何も盗られてないし何も動いてないのにな、私には第六感というのはないはずなんだが、何かがヘンだと頭の中のどこかで言うんだよ」
「お父さんったらそんな話をすると私まで怖くなるじゃないの、でももう断った話だしもういいじゃないの」
「めぐみに話しておかないといけないのは、お母さんの話だ」
「ええっ、お母さんって、私のお母さんでしょ。なぜお母さんの話になるの」
「正確にはお婆さんの話になるかな、おばあさんは日本の移民だというが、お母さんもはっきりわからなかったようだ。だから私も知らないんだ。だがおばあさんは旧ソ連かあのあたりの亡命者じゃないかと思っている。何らかの理由で日本に亡命してそしてお母さんを産んだんだ。そしてお母さんは施設で育てられた。つまり、おばあさんの所在が不明なんだよ。お母さんは成人してから私と出会って結婚して……そしてめぐみが生まれた」
「おばあさんってどんな人だったの、私が生まれた時は死んでいたのでしょ? おじいさんもわからないの?」
「そうだ。そもそもお母さんは幼い時からの施設育ちでよくわからないんだ。はっきりいうが東京の大きな病院の前に捨てられていた捨て子だったんだよ。私の母はどこの国で何をしていたのかルーツが全く分からなくて悲しいとよく言っていたな」
「そんな昔の話と今日の話が関係あるのかしら」
「いや、ないとは思う。たぶん関係ないだろう。が、知らないよりは知っておいた方がいいだろうと思って」
私は肩をすくめて、洗面所に行った。バレエレッスンのために髪をまとめてシニョンにするのだ。アメリカピンを用意していたらお父さんがまたやってきて、やっぱり今日は家にいなさいという。
「やあだ、お父さんたら気にしすぎよ、大丈夫だってば。もう終わった話だし、笑い話になっているって」
「しかし」
そこへインターホンが鳴ったので親子で飛び上がった。インターホンの画像を見ていたら理玖だった。
「あー、理玖だ、迎えに来てくれたんだよ」
玄関に出て鍵を開けると理玖がもうシニョン姿になっていた。自転車に乗ったまま手を振る。
「めぐみ、一緒にレッスンに行こう」
「うん、待ってて」
「そうそう私午前中、電話をかけたんだよ? 誰もいなかったね。でもバロンの散歩でここを通ったら誰かがいたわよ。車があったし、きっとおじさんは仕事が休みでめぐみも家にいると思っていたのだけど」
お父さんと私は顔を見合わせた。お父さんの車があるのはよい。だが私たちは自衛隊基地にいたのでこの家には誰もいなかったはずだ。お父さんが理玖に声をかけた。
「理玖ちゃん、すまんが自転車から降りてちょっと玄関に入ってきてくれないか」
「あっ……ハイわかりました」
理玖が玄関に入ってくるとお父さんはドアを閉めて改めて理玖に聞いた。
「理玖ちゃんの犬、バロンちゃんの散歩コースは決まっているのかね、うちの家に誰かいたって、それは何時ごろだったかわかるかな」
「えっと朝の八時ごろだったと思います」
「……」
お父さんと私は思わず顔を見合わせる。では家にいたのは一体誰だったのか。お父さんは続けて理玖に質問した。
「家のどこにいたの」
「この玄関の前でした。後ろ姿だけしか見ていません。あの、おじさんかと思ったのです。背格好が似ていたので」
「何をしていたのかわかる?」
「いえ、玄関の前にいただけかな、何か写真を撮っていたような。おじさんバードウオッチングが趣味と聞いたことがあるので声をかけないで行きましたけど」
理玖はお父さんの顔を見て不安そうになった。私はお父さんに言った。
「もういいでしょ、私達レッスンに行ってくるわ」
「めぐみ、どうしてもいくのか」
「当たり前でしょ、私は週に一度しかレッスンがないもん、貴重だもん」
「じゃあ行っておいで。いつもの大豆バレエだろ、終わったら寄り道せずすぐに帰っておいで」
私は誰かがいてもそれが泥棒とは限らないし、実際何も盗られていない、写真を撮られたとしても、もうあの使節にはっきりと断った限りはもう終わったことなのだ。だから平気だった。お父さんが心配性なのだ。
私は理玖について自転車を出して普通に大豆バレエに行った。金曜日だけ私はバレエレッスンに参加する。するのは基礎クラスだが、この曜日だけ理玖と一緒にレッスンを受けられる。だから私はすごく楽しみにしているのだ。
レッスンはいつも十二,三人いるが、今日もそれぐらいだった。そのうち学校でも同じクラスの人が理玖を覗いて二人いる。吉田さんと飯田さんだ。そんなに仲が良いわけでもないが、行き会えば手をふりあったりしゃべったりはする。
今日の私のレオタードは綺麗だよく似合うとほめられた。
この基礎クラスでも理玖はダントツに上手でみんなひそかに理玖のポーズをお手本にする。特にコンクールで優勝をとってから理玖は一目も二目も置かれるようになった。
バーという横長にした長い棒につかまって踊る基礎レッスンを終え、バーをしまってレッスン場の中央に集まって踊るセンターレッスンになると私はメイデイドゥイフや今日の出来事なんか全部忘れてレッスンに夢中になった。へただけどへたなりに、ポーズをとって皆についてはいける。バレエを始めて四年目、何とかやっていけるのだ。
今日のレッスンで最後のポーズはアラベスクでピタッと止まらないといけない。アラベスクというのは片足でまっすぐ立ってこれを軸にもう一つの足を後ろに高くあげるのだ。右足を軸足に左足をできるだけ高く後ろにあげてアラベスクのポーズをとる。いつもはぐらついて両足をついてしまうが、今日はなんとなくいけた。もちろん理玖やほかの生徒と比べてはへただが、でも自分にしては上出来だ。きっとお気に入りのレオタードを着たせいだろう。
センターに集中していると吉田さんがいきなり窓を指さして「きゃあ、チカンがいる」と叫んだ。みんな踊りをやめて「えっ」と立ち止まった。優雅な音楽が流れたまま大豆先生が険しい顔をして窓に走り寄って外を見た。大豆先生は窓枠に手をかけて外を左右上下を眺めた。
「誰もいませんよ、吉田さんは何を見たの?」
「カメラを持った男の人です。私と目があうとあっちの方向へ走って行きました」
吉田さんは両手で自分の頬をおさえて不安そうに言った。うそをつくような子ではない。私たちは皆で「やだー、気持ち悪いー」といいあった。バレエを踊っている者同志でレオタードを来て踊るのは当然だが、見知らぬ男性の被写体になるのは嫌だ。しかも勝手に撮られるなんて。
「もしかしたら理玖を目当てに撮ったのかもよ?」
飯田さんがそういうと吉田さんがうんうんとうなづいた。
「だってコンクールで優勝してテレビにもインタヴューされたもん、YOU TUBEにも上がっているし」
理玖は顔をしかめたが私もそれはありかも、と思った。なんといっても理玖は大盛学園でも一番の美人だし、先週も今年入ったばかりの臨時採用の先生からつきあってくれないか、と言われたという。もっともこの話は親友の私しか知らないからナイショだけど。また通学の行きかえりでも理玖と並んでいると男の人は私を素通りして理玖の姿を見るために何度も振り返ったりすることなんかしょっちゅうあるからだ。
大豆先生はレッスン場のブラインドを全部おろして外から踊っているところが見えないようにした。
「さっきの人がまた来たら警察を呼びましょう。さあ、レッスンを続けましょう」
理玖はさっと定位置に戻ったが私の前を通るときに「私、あのYOU TUBEの画像を削除するわ」とささやいた。私はそれでやっぱりあのインタヴューの動画は理玖がアップしたのだとわかった。YOU TUBEに画像が上がった時は理玖は「誰がアップしたのだろう」と怒っていたがあれは演技だったのだ。私は理玖が結構目立ちたがり屋なことを知っている。動画をアップすることで、バレリーナの卵として注目されて有名になるなら、やりかねないと思った。理玖は結構自分に自信があるのだ。自分に自信があるってなんという良いことだろう。私もぜひ見習いたいわ。せめて美人に生まれたかったな、私のいいところってあまりないからね。
理玖はレッスン場の真ん中でフェッテを始めた。フェッテというのは、片足でぐるぐるまわる踊りで上手でないとできない。私はフェッテができないので片足で立つだけのバッセのポーズを連続でした。やっぱり理玖は上手だ。あの動画をみて誰かが理玖のファンになって理玖を盗撮したくなるのもわかるような気がする。動画をインタヴューを見た人なら誰でも理玖が大豆バレエにいたことはわかる。理玖のファンになって写真をとりたいと思う男の人がいても不思議ではない。
私は理玖と一緒にレッスンできてうれしかった。これで元通りの毎日だ。レッスンの後、いつものように一緒に帰ったがさすがに、今日あったことを話すことはためらいがあった。だって自分だって信じられないことだもの。理玖も私と同じで地理は苦手だからメイデイドゥイフがどういう国か、から説明しないといけない。何よりも理玖がアップしたという例のインタヴュー動画でこういうことがあったとは言いにくかった。だけど理玖はもう削除するからと言ったのであんなことはもう二度と起きないだろう。今日の話は動画がちゃんと削除され、落ち着いたらちゃんと話そうと思っていた。でも信じてもらえるか、わからないけど。
事態が急転したのは、次の日だ。




