第三十一話、ヨハン登場・後編
レイレイが時間がないといったようだ。
大の男三人が揃って太后をこんなにも恐れているのだ。あの小柄なおばあさん、派手なおばあさんを。性格が過激で殺せと命令ができるおばあさん。だけど老眼鏡を頭の上にやっておいて老眼鏡をさがすそぶりをしたりするちょっと抜けた感じのあるおばあさんでもあるのに。
私はヨハンの顔を見る。怖い顔だ。
頬からあごのラインがこけている。片目しかなくてちょっとかわいそうにも思える。両目が揃っていたらとても綺麗な顔だろう。ダミアンは映画俳優のような顔立ちをしている。ヨハンもそっくりなのに。
彼は私を見てもにこりともしないが、まっすぐに見つめて言った。
「ハロウ、メグミ」
英語だ。でもナイスミートユーは言えない。だから返事は短くした。
「イエス、ハロウ」
ヨハンは続けた。「メグミ、ユーなんとかなんとか」
ああ、この人の英語はハロウだけであとのメイディドゥイフ語はわからない。
レイレイが言った。
「この人はヨハンというんだ。後ろの名前はない。彼はザラスト様専用のお付きだよ」
レイレイはザラストさんに対してもだが、このヨハンにも丁寧だった。レイレイはどこにいっても気を遣う人なのだ。だから太后に気に入られ多分こうして太后に内緒でザラストさんの部屋にも出入りができるのかも。そう感じた。私は言った。
「そんな話はどうでもいいので、私を日本に返してほしい。私の友達の理玖も踊ったし坂手大臣も出席していたでしょ? 多分日本に対するパフォーマンスかどうかしらないけど、私がここにいることを教えてほしい。連れて帰ってほしい。大臣は私が生きてしかも妊娠していたのを知るとびっくりするだろうし、私も恥ずかしいけど、でも日本に帰りたい」
三人の顔がこわばっている。私も自分でこれをしつこくいっても問題は解決しないのはわかっている。諸悪の根源の片棒をかついだレイレイは私から目をそらした。
あぶない、めぐみ、あぶない
母の声がまた聞こえた。
……考えて、よく考えるのよ。
「考えて……」 この一つの言葉が私の頭の中で点滅を続けている。
時間を無駄にするな……
そうだった、私はただの女子高校生ではない。ここにいるのは日本人の女の子だけど、この国の創立者であるグレン・メイディドゥイフ将軍の血も引いている。それも忘れてはならない。
だからこそ私は妊娠させられた。
この国の後継者を産むために。
私はここで解決しない愚痴をいつまでも言うべきではない。私は心を切り替えた。冷静に。さっきのようなパニックを起こしてはだめ、冷静に。
私は大きく息を吸った。
それから息をゆっくり吐きだすように、一言を区切って言った。
「……ザラストさん、わかりました。私は太后の思うように黙って産めばいいのね、それで、いいのね?」
ザラストさんはレイレイの通訳を聞くとほっとしたようにうなずいた。
そうだ、これでいいのだ。パニックを起こして泣きわめくと、永遠に解決はしない。今はこれで正解だ。ザラストさんは言葉を続けた。
「現時点では産んでほしい。君はすでに五カ月だ。よく聞いてほしい。君は姉の太后に気に入られている。過去姉からこんなに気に入られた娘はいない。寝起きする部屋まで一緒なのだからね。これは驚くべきことなのだよ。妊娠させて外部との接触を立つためでもあるが、貴女にバレエをさせるために気遣いをさせる話を聞いたときはすごく驚いた」
レイレイが通訳しながらも、時計を見てザラストさんに何かをささやいた。
ザラストさんは言葉を継いだ。
「とにかくお腹の中も子供は産んでほしい。姉とは違った気持ちで私からお願いする。その子供はこの国の後継者になる」
私はグレイグフ皇太子の結婚式が今日あったばかりなのに不思議に思った。
「でも皇太子に赤ちゃんができたら私が生む子はどうなるのですか」
ザラストは首を振った。
「彼には子供は生まれない。皇太子妃になった少女はメイディドゥイフの貴族の娘だが黒い髪で黒い瞳だ。太后はなるべく君に似ているような娘を選んでいる。もちろん今日の皇太子妃を選んだのは姉、太后だ」
私はびっくりする。
「え、私は貴賓室で花嫁さんを後ろ姿しか見てはいないけど彼女は私と似ているの? 年も同じなの」
ザラストさんは笑った。皮肉そうな笑いだ。私に対してではない。太后だ。太后、この人のお姉さんに対する皮肉だ。
「そうさ。すべては茶番だ。この国のすべては姉のものだから。皆姉の指揮のもとに動いている役者なのだよ。メイディドゥイフの全てがね。だからこの国に来た以上、めぐみも太后に逆らわず出産してほしい」
私は出産後のことを思った。
花嫁がわざと私に似た娘を選んだ。メイディドゥイフでも私に似たちょっとブスめの女の子がいるのかしら、しかもメイディドゥイフの貴族の娘。
逆にお母さんに似ていたら絶世の美女になるかもしれない。隔世遺伝という言葉もあることだし。
私は今になってはっとした。鈍感な私。これってこういうことではないかしら。私はザラストさんに聞いた。
「ちょっと、私の出産予定は六月だといってたわ。お腹にいる子供がもし出てきたら、その子はグレイグフ皇太子の子供ということになるの」
ザラストさんは目を見張った。それよりも日本語を理解したレイレイがぎょっとした顔をした。レイレイの通訳を聞くとザラストさんは深刻そうな顔をした。
「めぐみ、君は思っていたよりは賢い娘さんのようだ。皇太子妃はすでに妊娠五か月と国民に発表されている。日本の外務大臣はこのニュースを持ち帰るだろう。グレイグフ皇太子はめぐみを忘れない。めぐみの友人のリク・トモナガも結婚式に招待した。これはめぐみを忘れていないからだ。これで日本への配慮は終わった。後は君だ」
「ザラストさん、その赤ちゃんももしかして、私の子供ということですか? 同じ妊娠……同時期に赤ちゃんが二人生まれる。皇太子妃が産んだ子供と、私の赤ちゃん……どうするのですか、すり替えるのですか」
ザラストさんは首を振った。私たちは今本当に大事な話をしている。
「皇太子妃は妊娠していない。すべては茶番だと言っただろう、彼女も茶番の役者なのだ。すべては太后の指揮のもとにいる」
「だったら、私のお腹にいる子供が……」
「そう、きみが産んだ子供が後継者だ。そう決まっている。それを知りえる人物は、結婚式に出席者の中では皇太子夫妻以外はワルノリビッチ首相とダミアンだけだ」
「……」
私の産んだ子供がメイディドゥイフの後継者になる……私はそのために太后と一緒に暮らしている透明人間なのだ。いくら気に入られてはいてもどこにも記録の残らない後継者製造機が私……。
私は言った。
「それで私はどうなるのですか。子供は取り上げられ、次の子供を産んでくれ、だけだと私は気が狂って死んだ方がましです」
レイレイがそれを通訳するとザラストさんよりも後ろにいたヨハンが「ニェトッ」 と叫んだ。少しの間はいえ、メイディドゥイフ語しかしゃべらない太后と一緒にいたので、何を意味するのかはわかる。ヨハンは「だめだ」 と言ったのだ。
ヨハンはザラストさんの前に出てきて、立ったままの私に膝まづく。ヨハンは拙い英語で言った。
「メグミ、アイ、ヘルプ、ユウ、ナントカナントカ、アイ、ヨハン」
ヨハンは膝まづき、顔をあげた。片目はつぶれて赤いものが見え隠れする。顔の傷がすごく酷い。ゾンビ映画の人みたいだが、私は目が離せない。この人は私に忠誠を尽くす、そして助けてあげると言ったのだ。一部の言葉は理解できないが言っていることはわかる、はっきりと。
レイレイよりも、ザラストさんよりも、はっきりと。このヨハンが。
ではヨハンは私の味方ということ?




