第三十話、ヨハン登場・前編
部屋に一歩踏み出す。広いと思った。そこも宮殿という言葉のイメージの期待を裏切る。マンションみたいな機能的な部屋。奥にベッドがあって。手前が執務室みたいだ。太后の部屋とほぼ間取りは一緒ではないか。
だがトーンが違った。全体的にシックな茶入りというイメージだ。ザラストさんが男性だということもあるのだろうか。
私がレイレイと部屋に入るとザラストさんは部屋の中央にいた。車いすのままだ。後ろに男性が一人たっている。この人も執事服だった。ザラストさんは、待ってくれていたように「メグミ」 と言った。それから車いすを操作して私に近寄ってきた。執事服の人も同時に近寄ってきたが、その人の顔を見て「あっ」 と声をあげそうになった。
その人は顔面に深い傷が何か所ありしかも片目の人で髪は短かった。そして侍従医ダミアンによく似ていた。多分ダミアンのように髪をストレートに伸ばすと見分けがつかないだろう。ダミアンはおしゃれだが、この人は耳飾りも何もない。しかしよく似ている。この二人はもしかして双子なのだろうかと思った。ダミアンもどきの執事は、私を物珍し気に見ていた。ザラストさんは再び「めぐみ」 と声をかけた。私はザラストさんに視線を戻す。
レイレイがザラストさんにメイディドゥイフ語で何かを話している。ザラストさんがこちらを向いてゆっくりとした声で質問した。
「ハロー、メグミ。ドーユーアンダスナンドイングリッシュ?」
英語だ!
ザラストさんは英語が喋れるのだ。時間がない。私は思わず笑顔になった。するとレイレイとザラストさん、後ろの男性が逆にぎょっとした顔をした。
私自身も自分から笑顔が出るとは思わず、自身もびっくりした。でも笑顔になれるじゃないか、自分。そしてすぐに「イエス、バット、ア、リトル」 と答える。
ザラストさんは笑みを広げた。ゆっくり英語でしゃべりだしたが、私はすぐに何を言っているのか不明になった。英語はメイディドゥイフ語に比べたらなじみがあるが、それは小学校から英語の授業があるからだ。しかし私の英語の成績はよくない。もっとゆっくりと、かつ簡単な英語をしゃべってくれないと意味が通じない。
私が困ってレイレイの方を見るとすぐに通訳してくれた。
「体は大丈夫か、いろいろと話をしなければならぬが、太后がミサに出ている間の十分だけで今度の話をしよう」
レイレイがいる。今日は太后なしだ。直接に通訳してくれる。
私は安心の日本語で言った。
「ザラスロさん、私を日本に返してください」
ザラストさんの笑顔が消えた。答えを聞くまでもなかったが、レイレイはまじめに通訳をしてくれる。私たちは会話をする。内容は予想通りだったが、対話がないよりはましだ。私はどうしても日本に帰りたい。
「ザラストさん、お願いです。私を日本に返してください」
「それはだめです」
「……」
「我がメイディドゥイフが諸外国から日本人女性を拉致してしかも子供を産ませたと認めることはできない。そのかわりにめぐみには十分な見返りがある」
「……」
「少なくとも出産はこの宮殿内でしてもらう。それは受けてもらう」
「……」
身重の身体で日本に帰ってどう説明する? 私はここで産むしかないのだろうか。一瞬混乱したが私は黙ったままだ。どうしてよいかわからないのだ。
ザラストさんは私をじっと見ていた。太后とは姉弟らしいが性格は違うようだ。
今。
この今は今しかないのだ。
私は矢継ぎ早にザラストさんに聞いた。
「赤ちゃんを産んだら私はどうなるのですか」
「その次もあるだろう、だからその覚悟はあるかと聞いているんだ」
私はパニックになりそうだった。心の中で「落ち着いて落ち着いて」 と自分で自分に話しかけていた。
赤ちゃんを一人産んでお役御免ではないのだ。困る、そんなのもっと困る。
「覚悟はないです、一人産むのも大変なのに、それに私は恋愛して結婚もしたいのです。そのためにも日本に帰りたい」
「ダリアの娘は死んだ。それがめぐみの母親だ。日本での名前はミライ・スズコといったね?」
だしぬけに母の名前が出た。
「……」
「めぐみ、時間がないんだ、返事して」
「そうです、私の母の名前は未来鈴子です。お父さんと結婚して爆雪鈴子になったのです」
「君のDNAをはじめとする諸検査では君は間違いなくメイディドゥイフ王朝の血を持っている。つまり正当な建国の父、グレン・メイディドゥイフ将軍のひ孫であるということ。君には王位継承権があるのだよ、そこをまずわかってくれ」
……レイレイから「王位継承権」 という言葉を発されたときに私の心が乱れた。
思いがけない本当に意外な言葉。
「……」
「現時点では日本に返すことはできない、そこも理解してくれ」
……帰国はできない、でも私に王位継承権がある。
「……」
「スタブロフキナ太后は、いや我が姉は間違ったやり方で君をメイディドゥイフに連れてきた。そこは謝罪する。姉は君を気に入っているようだが、君は姉のペットでもなんでもない。正当な王位継承権の何分の一かを持っている。いずれ私から姉に正式に進言するが、めぐみは、今後、正式にメイディドゥイフ語を学び、政治を学ぶ意志はあるか」
……王位継承権、ザラストさんは本気かしら、本気で言っているのかしら。この人の言葉に裏はないのかしら、信じてもいいのかしら。私は半分夢うつつのままで返事をする。
「……わかりません。でも私は日本で育ちました。ごく普通の家の女の子として育ちました。日本ほど良い国はないと思います。私の祖母の出自がどうあれメイディドゥイフがこんなに人権無視をするとは思いませんでした」
「姉に代わって謝罪しよう」
ザラストさんは悲痛な顔をして私に近寄った。車いすを自分で操作している。そして私の前に来ると頭を下げた。通訳をしているレイレイも頭を下げた。
私はやっと私の意志が通じる人と出会えたという喜びと安堵で涙が出た。ザラストさんは悲痛な顔を崩さない。
「それでも現時点で君が生きていることを知られているとまずい」
「……」
「君は姉の恐ろしさを知らない。とにかく受精、妊娠したからにはそのお腹にいる子供は産んでくれ」
私は顔を上げた。
「次々と子供を産んでくれと? 私は子供を産む機械ではないのよ?」
私は笑った。その笑いがとても奇妙に思えたらしく、レイレイは通訳するのに言葉を詰まらせていた。ザラストさんは黙った。
だしむけにザラストさんの後ろにいた男性が何かしゃべった。メイディドゥイフ語だ。もちろん何を言っているのかわからない。
「ヨハン」
ザラストさんがたしなめるように言った。




