第二十三話、その後の日常形態と私の熟考・前編
私に本当の自我というものが芽生えたのかもしれない。
私には頼れる人やモノがない。
世界中から死んだと思われている私、望まない妊娠をして出産もさせられる……こんな特殊な状況に置かれてはじめて自分で自分のことを考えるようになるなんて。過去の私は平和でお気楽な女子高校生だったのに。そんな私はもう死んだ。違う私が生まれた。赤ちゃんも生まれる。とても皮肉なことだ。
メイディドゥイフの専制君主、スタブロギナ・プラスコヴィヤ太后。八十歳だそうだが、この太后の年齢、若く見える、イヤ若作りしている。
元気そうなおばあちゃん女王。
この人はどういう人生を生きていた人か……世界中の誰もがこの人を知らない。今まで苦労しらずだったのだろうか、ありあまるお金を持っていて何でも願いがかなうというのに、よりによって彼女がしたことは私を拉致して自分の血を引いた赤ちゃんを産ませることだったのだ!
しかも、彼女の卵子と彼女の実の父親である建国の父グレン将軍のDNA遺伝子を使ったというもの。いうなれば近親相姦? の赤ちゃんになる。それを知っているのは今のところレイレイとダミアンだ。それと太后の弟だというザラストさん。おそらくグレイグフ皇太子も、ワルノリビッチ首相もわかっているだろう。全部で五人か……。
私には自由はないが、幸い考える心は自由だ。
私は必ず日本に帰る。
だから注意深く用心深く、
そう、
一番手っ取り早いのは太后の信頼を得ることだろう。
私はよく考えよう。
トイレの中、
シャワーを浴びながら、
寝る前のシーツの中、
とても貴重な私だけの心、私だけの短い時間で。
一緒に寝起きしてみると、太后は八十歳にしては元気だが、大きなパソコン画面に向かう時には老眼鏡をかけている。太后プライベートルームに出入りするのは、レイレイとダミアン、グレイグフ皇太子とワルノリビッチ首相だけだが、彼らは太后に向かう時は少々大きめの声をだすので、年相応に耳が遠くはなっているようだ。
太后の目と耳。
私は忘れてはならない。
そして私はまだ十六歳。
太后よりずっとずっと若い。
それから。
これが一番大事。
私自身が太后に近い一番の親戚かもしれない、ということ。
ここをよく考えないといけない。
私は慎重に動かないといけない。
私の強みは太后の子供を妊娠しているということ。
私の立場は弱いし、日本では死んでいることにされている。
メイディドゥイフの国民の誰もが私の存在を知らない。
私はベッドの中で少し震える。
やがて自分の置かれた状況に私は興奮した。
私はバカではない。
見てろ、
今に見てろ。
私は両手をそっと自分の下腹部、少し膨らんでいるところを包み込む。その中のものがにゅるりと動いた。シーツの下で私は少し笑ったと思う。
太后が私に対してしたことを思えば、私はなんだってやれる。
そかしその前に私は「しないこと」 を熟考する。
ベッドは正直快適なものだった。暖かくも寒くもないまさに快適なベッド。キングサイズのベッドと同じく枕もとんでもなく大きなサイズだったが高さがちょうどいいのだ。私はうつぶせになり、枕の下に両手を広げて考える。時々呼吸が苦しくなるときは、顔を横に向ける。
太后が睡眠中らしき規則的な寝息を立てているときは私はそのポーズをとって熟考する。こういう目立たない行動は黙認? なようでレイレイやダミアンから注意を受けたことはない。
日中、つまり太后が起きている間はベッドと執務室は同じ居室にあるが、大きなカーテンで仕切られて入れないようにしてしまうのだ。部屋の掃除や洗濯などのこまごまとしたメイドや執事は何人もいるようだが、太后の目に触れないように、また私と出くわさないように細心の注意を払っているようだ。
出入りを許されているグレイグフ皇太子やワルノリビッチ首相と顔をあわすこともあるが、彼らは私を見ても会釈もせず声もかけず透明人間の扱いだった。
透明人間……私のお腹の中には多分この国の後継ぎであろう赤ちゃんがいるのに。私の身体は悲しいことに正直に子宮の中に入れられた胎児を育てている。私はこの妊娠で私に対する拉致の原因を知りえたが、今は逃げることはできない。いや、必ず、いずれは逃げる、日本に帰国する。
私は必ず日本に帰る……帰ったら一番にお父さんにあってこのことを暴露してやる。
暴露、全部だ。
私は夜中の考え事に全神経を費やす。
こんなに考えることはなかったぐらいだ。
明日の試験問題や、バレエの発表会で上手にできますようにと、大盛学園や親友の理玖の言動で悩んだこともあったが、今置かれている状況に比べたらおままごとだ。
太后は私をみくびっている。命令のまま動いていったレイレイやグレイグフ皇太子も許すつもりはない。
だけどどうやって……そこまで考えると私の思考は袋小路になる。
多分私は眠りかけている。今日も何もなかった。
太后と一緒にご飯を食べてジュースも飲んだ。バレエストレッチもした。それだけの平和な一日だった。その締めくくりに私は眠りかけているのだ。半分寝ていて、うとうとしている私は思い出す。ああ袋小路という先生がお妃教育にいたなあ、古文の偉い先生だったけど全く威張らないよい先生だったなあー。私は先生の孫の筆子さま、いや、筆子さんも思い出す。彼女は貿易商のご主人と鎖国のメイディドゥイフとも出島のようなところに取引があったといった。ということは筆子さんが活路になってくれるかも。
私はそこまで考えると頭をふった。いや、私は死んだことになっている。
筆子さんがメイディドゥイフに来ることはないだろう。とにかく何らかの手段で連絡を取らないと事態は動かないのだ。
私は坂手大臣の顔も思い出した。大臣はこの話を知っているのかしら。多分知らないとは思うけどもし私の置かれている今の立場を予測していたとすれば絶対に許さない。私は唇をかむ。
日中の話もしよう。
自分の心は自由とはいえ、トイレの時間が少しでも長引くと「めぐみ?」 と太后が自ら執務の手を止めてわざわざドアを開けにくる。ノックなしで。純粋に用を足しているのがわかると太后はあら、というように肩をすくめてすぐに出て行く、こういう感じなのだ。
私は透明人間なのだが太后はちょっと違う認識を持っているようだ。
太后が仕事というかパソコンの画面に向かって誰かの報告を聞いているか命じているかの時は横に座ってぼうっとしているかジュースを飲む。
私はレイレイが入室してくるごとに、「私はどうなるの?」 と聞くがレイレイはそういう類の質問には首をふって一切答えない。逆に太后から命じられているらしい。私が今何を日本語でしゃべったのか、をメイディドゥイフ語で説明するのだ。
「出産の時期はいつ?」
「出産したら日本に返してくれるのか」
「どうするつもりか」
レイレイは礼儀正しく私を見つめるが小さく首を振って答えないというジェスチャーをする。同じことの繰り返しで私はバカバカしくなった。どうでも日本に帰るつもりもない。これからそういう質問はするだけ無駄だとわかった。でも私は落ち込まない、私は死なない。私は必ず日本に帰る。負けてたまるもんか。これは私の戦争だ。私にだけふっかけられた戦争なのだ。
太后は私と一緒でも普通に暮らしている。私がこちらに輸送されたときは手術したばかりとは聞いていたがとても元気だ。高齢なのに憎らしいほど元気だ。時々正装して指や首や耳の前、後ろにものすごい宝石をつけ、宝石だらけでぎらぎらする王冠をかぶってどこかへ出たりする。本当に憎らしいほどとても元気だ。
太后は大きなメイン画面のうちの一つ、バレエのチャンネルを自由にしてよいとリモコンをくれた。リモコン式でいじっているとタイトルが出てくる。英語のようなアルファベットも出てくるがたいてい英語読みしてもたいてい読めない。演目のタイトルや音楽名がトップに出たりするのでそのうちにこれはメイディドゥイフ語を読む練習にいいのではないかと思ってきた。
音楽を流しながらバレエストレッチをしているとそのうちに音楽の名前を読めるようになってきた。発音と文法はわからないなりにも。それでも何もしないよりはましだった。
わからない文字が出てきても私は太后にこの文字はどういう意味かなどと質問は一切しなかった。しても答えないのはわかっているし、メイディドゥイフ語を勉強していると悟られて面倒なことになってしまうのを避けたかった。




