第二十二話、時間が飛んだ、後編
「……ああ、落ち着かれましたか、よかったです」
レイレイの声が聞こえた。
私は目を開ける。
見回すと太后はいなかった。
「あの人は?」
「ご在室です。めぐみ様が起きられたら一緒にバレエを観ましょうと」
私は起き上がった。レイレイが手伝った。レイレイが私の背中に腕を回している。とても暖かくやさしい、そして恭しい態度だった。私はレイレイの顔を見た。レイレイは私の目を覗き込んでかすかにうなづいた。そして素早く私の耳にささやく。
「めぐみ様。気を確かに。しっかりしてください。ザラスト様に会えます。それまでしっかりしていてください」
私はザラストという名前を聞いてしゃんとした。またレイレイのアドバイスが来たのだ。私は今度は悲鳴をあげない。唇をしっかりと閉じて噛んだ。
それからお腹に手をやる。
私はわかった。
このお腹の中には赤ちゃんがいる。妊娠しているのだ。
もちろんそれは私の子供ではない。
メイデイドゥイフの建国者のグレン将軍のDNAとこの太后の凍結卵子をかけあわせた受精卵を私の子宮内に埋め込んでいるのだ。
処女受胎……大盛女学園の牧師の説教で知った言葉を思い出す。あれは確かイエス・キリストを産んだ聖母マリアの話だったはずだ。結婚もしていないのに妊娠した話。
でも私の場合はそうではない。
私はまた強く唇を噛んだ。今度は過呼吸を起こすまい、そして悲鳴をあげまい。
私がどうなっても日本でも死んだことになっている以上、ここで死んでも誰も知らないままであるのだ。
私は少しずつ息を吸いながら、少しずつ息を吐いた。こうするとちょっと楽になるのだ。
しかしこれはあんまりだ。
小学校で経験したいじめよりもまだひどいことだと思う。
太后の声がカーテン越しに聞こえた。それから影が見え、天蓋ベッドのカーテンを開けて太后の顔が見えた。今日はティアラもかぶらず、すそ野広がったドレスも着てはいない。となるとまたあれから日がたったのか。
「レイレイ、今は何月なの?」
レイレイはさっと太后の方に振り向いて言葉をかわすと、もう一度私の方を振り向いて「まだ二月でございます。あれから三時間ほどたっただけです」 と言った。時間の感覚がわからない。
私はさっきから少しずつ呼吸を続ける。
だしぬけに太后が話しかけてきた。
「めぐみ、バレエ、リク・トモナガ」
「リク?」
「ダー。リク、リク・トモナガ」
私は太后とは初めて言葉をかわしたように思える。私は理玖がローザンヌで賞を取ったことまで思い出したがそれよりも、もっと大事なことがある。
私はお腹を押さえて言った。
「私はあの時から記憶を落としたのね? 私はどうなったの? 出産予定日はいつなの? 日本に変えれるのはいつなの?」
レイレイと太后がいくつか言葉をかわしたが、太后が頭を軽く振ったので答えを教えてくれないことがわかった。レイレイがすがりつくような顔をして私を見つめる。私は二人の前で大きなため息をついた。自分がこの太后からどれほどなめた扱いを受けているのかようくわかるのだ。人権もへったくれもないこの太后が憎かった。私よりも背が低くてしわしわの顔をした銀髪の専制君主。世界中の誰もが知らないメイデイドウイフの女王と一緒に部屋にいながらにして、私は奴隷並、借り腹の私。なんという扱いなのだろう。
さきほどのレイレイのアドバイス、助言がなかったら私はまた悲鳴をあげたかもしれない。でもザラストさんに会えるのだ。会えたらきっと状況がかわるだろう。
私は仕方なく太后のいうままに太后の部屋に備え付けられている液晶テレビの前のソファに座った。久々に自分の足でじゅうたんに降り立ったがなんだかふわふわして変な感じだった。太后の部屋にはいろいろな花が飾ってある。上のふと見ると天窓は真っ白だった。青空が見えない。もしかして雪かな、とぼんやり思っていると華やかな音楽が聞こえてきた。レイレイがリモコンを操作している。画面から音楽が聞こえてきた。聞き覚えのあるバレエ曲が聞こえてきた。
太后が私にジュースを渡した。例の缶入りのジュースだ。私は首を振って早く理玖の踊るシーンを見せてと日本語で言った。レイレイが太后に通訳してリモコンを操作してくれた。
理玖の踊りは短かったが、大豆バレエで見ていた時よりもずっと上手になっていた。
私は英語かフランス語かよくわからないアナウンスの中で「リク・トモナガ、ダイズバレエ、トウキョウ・ジャパン」 という言葉だけは反応した。そして自分がどこにいるか、どんな状況にいるかその瞬間だけ一切を忘れてしまった。
「理玖……」
理玖の踊りは理玖にとって初めてのコンクールで優勝を取ったエスメラルダだった。だけどあの時に見た理玖よりもずっとずっとこちらの理玖の方が上手になっていた。あのコンクールの後のインタヴューで私は有名になった。
だけど現実はこんなもの。
理玖は私のついでに有名になって騒がれてしまったので、夏休みのうちにロンドンへバレエ留学に行ってしまった。そこでめきめきと力をつけたのだ。
私と一緒にレッスンしていたとき、理玖はあんなに足を高く上げられなかった。あんなに背中をそらせてのけぞることできなかった。
踊っている途中、トウシューズで立ったまま、もう片方の足を前に横に後ろへやる。
理玖があんなに華やかな笑顔をするとは。
タンバリンを持った手足があんなに見栄えがするとは。
アラベスクの足とタンバリンをもった手とが一瞬つながる。
そして理玖が誇らしげに微笑む。
理玖、なんてきれいなのだろう。
理玖の踊りはすぐに終わったが大きな拍手がいつまでも続いていた。
私は立ち上がって叫ぶ。
「レイレイ、もう一度みたい、アンコールよ、もう一度」
レイレイは私の言うとおりにしてくれた。太后は何も言わず画面と私を交互に見ていた。
理玖の踊りを何度見たのだろうか、レイレイが授賞式のシーンもありますけど、いいですか。と言った。
それで理玖があの時呼ばれたシーンを思い出した。ローザンヌの授賞式の時も「リク・トモナガ、ダイズ、トウキョウ、ジャパン」 と呼ばれたときに理玖は前に出てこなかった。「はい」とすぐに返事して前に出ないと行けないのにこういうときだけ引っ込み思案なのだ。
あの時と一緒。
初めてのコンクールでも名前を呼ばれたのにあなたはすぐに前に出てこれなかったよね。理玖、変わってないわ。
隣の人に「あなたじゃないの? ゴールドメダルよ」 とでも言われてあわてて出ていた。
ちょっと恥ずかしげにそして信じられないというびっくり顔だ。目が真ん丸になっていた。
メダルを首にかけてもらうと顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
よかったね、理玖、そのメダルはプロのバレリーナになれるパスポートよ。
理玖はプロになるといっていた。
私はそんな理玖のバレエ衣装をつくる約束していたわ、
あの時の約束を私は守らなきゃ。
でもまず日本に帰ってからの話。
その時から私はこの悪夢を断ち切るべく、本当に覚醒したと思う。
そしてもう一人の私、傍観者の私が、今の肉体にいる私と合体したと思う。
この言い方はヘンだけど、どちらも私であったけれど、それがきっかけで私はとにかく目覚めた。
そして私は修羅になった。




