第二十話、時間が飛んだ、前編
下腹部にはまだ違和感があった。
レイレイとダミアンとの会話は本当に五分もなかっただろう。
私には確信があった。これだけ用意周到にメイデイドウイフの後継者を作るだけというためにだけこれだけ大掛かりな仕掛けで死人まで出して私を拉致してきたのだ。
私はまだ恋人もいないし、キスもエッチもまだだ。なのに、妊娠。このメイデイドウイフの皇太后は一体にバカなのだろうか。
私の耳の前の穴は劣性遺伝子がどうとか、そんなことはどうでもよい。
後継者?
ふん、八十歳にもなってそんなことを真面目にいって権力をカサにして日本の外務省を騙して私の父を騙して肝心の本人を騙してまで妊娠して出産?
バカバカしい。
一体に大人しくいうことを聞くと思っているのかが不思議に思う。
レイレイもバカ、ダミアンもバカ。
会話が終わるとさっと二人は私に向かって拝礼し去って行った。入れ替わりに皇太后がベッドわきに立った。間一髪だったのだ。
太后は私を気づかわしげに見ていた。
私は思わずうつむいた。
「めぐみ、▼△△◎■◇、△△◎○●?」
気分はよいかと問うているようだが、何かを聞いているが私にはわからない。
太后は私の返事をしていないようだ。
メイデイドウイフまで拉致しておきながら、私にメイデイドウイフの国内の様子や言語を覚えてもらおうとわかってもらおうという意図も意志もない理由がわかる。
太后は、このおバカな権力者、鎖国の国の独裁者は、太后の姉であるダリアの血を引く私の遺伝子、そして建国者のグレン将軍の遺伝子操作をしてその血を引いた子供が欲しいだけなのだ。
それだけのために私を拉致してきたのだ。だから私の意志なんかどうでもいいのだ。
最初から太后は私にやさしかったがその理由がわかった今、私は悲しみながらも怒っていた。
日本女性をなめるな、太后。
レイレイもそうだし、ダミアンも、そして一役買ったグレイグフ皇太子だってそうだ。
おのれ、みんなどうしてくれよう。
「めぐみ、▼△△◎■◇、△△◎○●」
大丈夫大丈夫といっているようだ、本当にバカだ、この太后は。
私はレイレイの最後の言葉を思い出した。
ここのキーマンはレイレイではなく、グレイグフ皇太子でもない。
ザラストさんだ。
私はなんとしてでも日本に帰ってみせる。
ザラストさんにどうでも会わねばならない。この独裁者である太后に対峙できるのは、あのザラストさんだけなのだろう。私はレイレイをきちんと使いこなさないといけない。
でもレイレイは私の全面的な見方でもないのだ。もしかしたらスパイと言うか、私を安心させる役目があるなら、そのためにうそをついても平気な人物であれば、ということだ。
だからレイレイを上手につかわねばならない。
太后が私の頭に手を置いた。私はその手の重みにびくっと肩が震えた。
太后の顔が前に来た。うつむいた私の顔を見るために太后が膝を曲げてかがんでいるのだ。
私は太后の顔を直視することになった。
太后は私の顔を見つめている。頬に涙のあとがあったのだろう。人差し指で私の頬を撫でると心配そうな顔をして首をかしげた。
私はレイレイに対するようによほど平手打ちをするべきか、と思ったができなかった。なんというか太后にはそれができない雰囲気がある。
メイデイドウイフで誰も逆らうことのない権力者であり、そのオーラをまとっているといしかいいようのないこの雰囲気。
私はおもわず目を閉じた、そして太后の手をあらがうようにそっと肩を斜めにして身をよじった。太后の手が離れた。そのすきに私はシーツを頭からかぶった。
太后の声がかすかに聞こえた。だけど私は聞かない。聞こうとも思わない。
権力の強さは人間を行動を変えることがどんなに権力を持ったとしても人間の心までは帰られない。私がそうだ。私は両手のこぶしをぎゅうっと握りしめる。
これは私の戦いだ。私の試練だ。
絶対に負けるわけにはいかない。
握ったこぶしをひらき、私は自分のお腹をなでる。
自分のお腹を自分で殴ろうか、わざと流産しようかと考えた時に私ははっとした。
液晶テレビに時々映される女性の姿を思い出したのだ。彼女もまた妊娠していなかったか?
あれは病気の人ではなく、もしかしたら。
私はそこまで考えが及ぶとぞっとした。
私のような目にあっている人がすでに存在するとしたら。
その人がそうだったら。
その人はあきらかに精神に異常をきたしているとしか見えなかった。
私もそうなるのか。
いや。
私はそうはならない。
なぞは多い。
だけど私は絶対に太后の言いなりにはならない。
絶対に大手を振って日本に帰国する。
そしてお父さんに会う。
そして坂手大臣に会ってこのメイデイドウイフの話をするんだ。
皆にこの話を知ってもらうわ。
私がどんな目にあうか、あったかを。
だから生きて日本に帰るんだ。
食事が来た。なんと太后自身が私のベッドわきにトレイの上にスープとパンを持ってきたのだ。私は食欲がない。逆に吐き気があるぐらいだ。レイレイがワゴンを運んできた。いつものようにワゴンの上にはハムとチーズ、パンかごに紅茶用のポットにカップ、ソーサー、クロテッドクリームがある。
朝食なの? これは?
昼食なの? なんなの?
時間を置いてまた太后がやってきた。服を持っているときもあれば、フルーツを持ってくるときもある。気が付くと私の腕から細いチューブが伸びていた時もある。点滴なのか。
時間の感覚がめちゃめちゃだった。
レイレイや太后、侍従医のダミアンの気づかわしげな視線を浴びる。私は力なく上を向いて寝ているだけだった。トイレには自分で行く。太后はソファでいつものようにテレビ電話みたいなもので会話をしているときもある。時には正装で謁見の間に行くときもある。
私はベッドの中でぼんやりとしているだけだった。
トイレの行きかえりに太后が立ち上がってバレエのストレッチをしないかと誘う時もあったが私は力なく首をふる。
思考停止。
私は私でない感覚がした。
しょっちゅう涙を流しているし、言葉が出ない。
もちろんしゃべりたい言葉なんかないからそんなものは必要ない。
今いるのは私ではない。
眠れないが寝ているときは高校の授業や理玖と一緒にバレエレッスンを受けている夢ばかり見る。時にはお父さんと駅前の回転すしを食べている夢も。
目覚めると天蓋ベッドの天使たちが覗き込むようにして笑っている。私はため息をつく。あこがれのレースのカーテンがひかれた天蓋ベッドもふかふかの枕も私には何の意味もない。
私はもう私でないのだ。爆雪めぐみはどこかへ行ってしまった。私はただの赤ちゃんを産む機械なのだ。太后の代わりに赤ちゃんを。
もうどうでもよかった。
私は死んだのも同然だった。
私はトイレ以外はベッドの上にいた。
何もかもどうでもよかった。
私には時間と場所の感覚、そして自分の感覚がマヒしていた。
それもどうでもよかった。
もう私はどうでもいいのだから。




