第十四話、太后と一緒、前編
◎ 第七十話
グレイグフ皇太子は、太后に対面して座りステーキを優雅なしぐさで切って食べている。彼は自分から声を出すことは全くなかった。ワルノリビッチ首相もだ。声を出したのは後にも先にも太后だけだった。ザラストさんは途中で入ってきて私の顔を確認すると太后の許可もなしでさっさと退出していった。太后はザラストさんに構わず咎めず最初からいなかったようにふるまっていた。
だからとても奇妙な食事会だった。
食事会の最後にはアイスクリームが出たが私は最初から最後まで一切食べなかった。ピンク色のあまずっぱい匂いのするアイスクリームが大きなお皿に少しだけ盛り付けられている。これも太后はすすめたが私は首を振った。太后はやれやれというように肩をすくめ、それから席を立った。太后が席を立つと同時に皇太子や首相がさっと立ち上がって挙手した。メイデイドゥイフの皇太子とメイデイドゥイフの首相が挙手。この二人の態度でこの太后の持つ権力の強さがわかるような気がした。
レイレイが私にも立つように椅子を軽く動かしたので私も立ち上がった。太后がザラストさんが来て去った方向と別の壁に向かう。壁がまた大きく開いた。これも廊下になっていた。
レイレイが太后の後ろをついて歩くように行った。
私はとまどいつつも歩き出すと「めぐみ」 と声がかかった。グレイグフ皇太子の声だった。思わず振り向くとグレイグフ皇太子が私に向かってうなずいていた。まるでがんばれよ、と言っているようだ。私は少し迷ったが、結局軽く会釈を返した。それから太后の後ろをついて歩いた。太后と私が歩く。後方には皇太子や首相が見送っているだろう。しかし太后は終始振り返らなかった。
……権力者は振り返らない。
そんなセリフが脈絡なく脳裏に出て浮かび上がった。
太后の名前はなんだっけ。
そうだ、スタブロギナ・プラスコヴィヤ太后だ。
この人、この人がメイデイドゥイフ唯一の権力者なのだ。
うんと年を取っているけれど、大きな宝石をつけたティアラやネックレス、指輪をつけて。
背は私よりも低いのに。
決して後ろを振り返らないで歩く。
皇太子や首相はこの人には一切話しかけなかった。
レイレイやダミアンもまた単なる手駒にしか見えなかった。
この権力の強さをいかして日本の外務省を動かしてまで私を用意周到に拉致してきたのだ。
私の目の前を背中を見せて歩いていく。
この小柄な老婦人を。
この人、この人から目を離してはいけない。
私はこの人から何とかして日本に帰国させてもらわないといけない。
どうしてよいかわからないけれど、私はこの人からなんとかして信頼、いいえ、なんだろう、何か言葉をもらって堂々と日本に、もう死んでいると思われてはいてもびっくりされても日本に帰国できるようにしてもらわないといけない。
どうやってよいかわからない。だけど今の私はそうするしかないのだ。
この人、この人を見よ、
目を離さずにこの人を見よ。
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謁見の間から廊下を出るとすぐ大きな扉に出た。
扉の前には見覚えのある肖像画がかかっていた。メイデイドゥイフの建国者のグレン・メイデイドゥイフ将軍だ。扉は観音開きになっていてすっと開いた。太后は部屋に入っていく。レイレイが扉のすぐ横にたっている。開けてくれているのだ。もう片方の扉にはダミアンもいる。入れと私に合図している。
やはりこの二人は太后の別格の直近の部下なのだ。
太后が後ろも見ずに入るとレイレイは再び私も入るようにうながした。仕方なく入るとドアは閉まった。レイレイは入ってこない。えっと思って振り返るともうドアは閉ざされている。まさか太后と二人きりにされるのか。まさか。
「え、私はどうなるの?」
「めぐみ」
太后の声がかかった。
私は恐る恐る振り返った。太后は背中を見せて横顔だけ見せて私を呼ぶ。手のひらを上に向けて人差し指と中指を揃えて動かした。来い、と言っているのだ。危害を加えようとする気配はないものの、私は用心しながら一歩だけ前に進んだ。
大きな部屋だった。一歩入って視界に入る全部が皇太后の部屋だった。ロフトや階段はない。壁に囲まれた部屋。まさかこの一部屋だけではないだろうが、意外とこじんまりとしている感じだった。
広いことは広い。私にあてがわれていた地下の部屋とは比べ物にならない。だけど鎖国で秘密主義で大金持ちのメイデイドゥイフの独裁者の部屋がこれです、と言われると意外に質素だというのが正直な感想だ。広いことは広いがそれも第一印象で壁の一面が鏡張りだということが広そうに見える。これも意外だった。
まず真っ赤な絨毯がひかれている。天井が高い。そして天窓があった。薄いブルーの空が一面に見えた。メイディドウイフの天気は快晴らしい。お日様の光は久々なのだが日本のそれとはまた違う。そして空気が薄いような気がした。部屋のぐるりの壁にバレエレッスン場のバーが取り付けられていてそれが真っ先に目についた。
反対側の壁にはまたしてもグレン・メイデイドゥイフ将軍の肖像画だ。その下にこれまたメイディドウイフの国旗。その下に大きな液晶テレビがあった。画面には何も映されていないが四分割されている。ソファは革張りの赤いもの。一人で座るには大きいが、かろうじて二人は座れるだろうというもの。国旗はソファの後ろの鏡張りの方の壁にもあってこっちの方が大きい。
一番つきあたりの壁の奥はクローゼットになっている。その手前に天蓋付のベッドがあった。それも二つ並んでいる。ベッドがあるからには私室に違いないが華美なところはなく、シンプルテイストだ。
これが世界一お金持ちな鎖国のメイデイドゥイフの権力者スタブロギナ・プラスコヴィヤ太后のプライベートルームなのだ。
「▽◆◎◎◎、めぐみ、めぐみ◎◇◇○○●」
「な、何をおっしゃっているのか、わかりません……」
太后は身振りで太后自身を指している。これから私と一緒よと言ってるようだ。
まさかね?
まさか。
でもベッドは二つある。そのうちの手前の一つはどう見ても新品だった。私はベッドをよく見ようとしてはっとした。枕元に私が日本から持ってきた大事なトートバッグがあるのだ。またしてもレイレイがこっちに持ってきたのだ。ということは、私は今晩からここで眠るの? 本当に?
私がトートバッグを大事そうに両手でかかえた。ずっと握ってしわくちゃになったお母さんの産着や写真のコピーをバッグの中にいれた。それはもう太后にとっては不要なのか、私はそういう行動をとっても何も咎められなかった。バッグの中のものを入れた後私はそれを再び両手でぎゅーっと抱いた。私の味方はこのバッグしかない。死んでしまったと思われている私の身の上を保証してくれえるものはこのバッグだけなのだ。これだけは死んでも私のそばに置いておきたい。
太后はそんな私の行動をソファでゆったりと座って笑顔で見ているだけだ。それはまるで私はやさしいでしょ? さあ、これから私と一緒に楽しく暮らしましょうねと言っているようで反感をかった。私は恨めし気に太后を上目づかいでみたがそういうことには頓着はしないようだった。言葉は通じないし、一体どうしたらいいのだろうか。
レイレイが太后に絶対に逆らうなという助言を思い出す。そして母の最期の言葉……めぐみ、あぶない……私は本当に危ないのだ。気をつけて、気をつけて。だけどどう気をつけたらいいのだろう。
太后は液晶画面の下を押すと冷蔵庫の扉が現れミニバーみたいな棚が自動で出てきた。そこから缶ジュースを取り出す。ジュースの中身はわからない。ガラスのコップも出てきて私を手招きしてそれを飲めという。戸惑っていると太后はもう一つのコップにそのジュースを入れて飲み干した。こうしてみると豪華なドレスを着てはいてもごく普通のおばーちゃんだ。私が拉致されていなかったら嬉しかったと思うがトイレの中でされたこともあるので警戒している。なるべく近寄らないようにしよう。特に寝るときには。
おばあちゃんには間違いないが、私に最初の対面で私の大事なところに指を突っ込んできたひとなのだ。レズビアンかなにか知らないけれど用心にこしたことはない。
ジュースを飲み終わると太后がベッドの方面に向かい、天井から下がっているこれまたレースが何枚も重ねられたカーテンをゆっくりとひいた。光越しに彼女が豪華なドレスを脱いでいく様子がわかった。先にネックレスを取り、ティアラを取る。ティアラは自分でピンを抜いてはずす。指輪もぽいぽいとはずしてティアラの輪の中にいれていっているのだろう。指輪は全部で五つぐらいあって大きな石のついた高価そうな指輪だった。それをこともなげにぽいと捨てていく。大事にしていないのだろうか。
それから背中をそらせてドレスをゆっくりと脱いでいく。ドレスは自然にすとんと落ちた。太后は下着一枚になった。しつこいようだけど、カーテン越しの影を見ていると本当にごく普通のおばあちゃんだ。。
太后はベッドの上に置いてあったらしき衣類を手に取る。無造作に取ると自分で上からひっかぶった。それからカーテンを引いて、ゆっくりと私のいるソファにやってきた。来ている服はムームーみたいな簡単なドレスだ。長袖でドレスの裾も長い。首も上まで隠れている奇妙なムームーだ。色は薄いピンクでブルーの輪郭だけの花束が描かれている。いわゆるくつろぎウェアだった。
それからソファの反対側に座って私を見た。壁の中の服を指さしている。着替えろと言っているようだ。しかも太后の個人の持ち物のクローゼットから選べというのだ。
とまどいつつもこんな豪華なドレスを着たまま暮らすわけはないのはわかるので、クローゼットからピンクぽい服を一着えいとばかりに引き抜くとこれも長袖で首の詰まった簡易なロングドレスだった。とにかく着替えたかったのでドレスに背中を回してジッパーを下げて脱ぐ。脱ぐと開放感に浸れたが皇太后が私をじっと見つめたままなので胸や下半身の下着を見せないように緊張しつつもその薄いピンクの服を着た。小さいころに持っていたリカちゃん人形のシンプルドレスと同じような服だった。模様もリボンも何もない裾の長いドレス。それでも重たい厚ぼったい豪華ドレスよりは気分が落ち着く。それからテイアラをはずして丁寧に皇太后のテイアラのとなりに置いた。レイレイによるとドレスもテイアラもすべて太后の若い時のものというので、返したつもりだ。
ドレスもかさばるものだができるだけ丁寧に扱っておりたたんで返したつもり。
皇太后はそんな私の仕草をじっと無言で見つめている。
私は着替え終わるとやることがなくなり、じっとしていると今度は鏡の壁についているバーを指さされた。太后がいきなりバレエのポーズをした。両手をあげてアンオーの形にして胸をそらす。私はこの短いポーズで太后が若い時からクラシックバレエをしていたことを見て取った。
太后はにっこり笑うと、また私を指さしてその手のままでバーを指さす。驚いたがどうやら彼女はバレエのストレッチをしろと言っているようだ。
私は首を振り続けたが太后はゆずらない。身振り手振りでしろ、というのだ。ソファに座りながら足もふりあげろという仕草をする。
根負けして私はバーにつく。バーに足をかけてそれから太后の方を振り向くと太后はうんうんとうなづいている。どうやらバレエをしろといっているようで私はこんな展開になるとは思わずうろたえる。
生理痛はあいかわらずあってちょっと困っているがだけど痛み止めはもらいたくない。こうしている間も私のお父さんは日本で心配しているのではないか、そう思うとこんなことをしている場合ではないと思える。




