第七話、レイレイ登場、でもすぐ帰国へ
◎ 第七話
ドアから出てきたのはスーツを着た目つきの鋭い女性だった。おかっぱの日本人だ。どう見ても日本人のおばさんだ。通訳の人だろうか。
「朝早くからご苦労さんです。どうぞ中に入ってください」
なんだ、案内の人だった。その人は名乗らなかったのでどこの人かはわからない。その女性が身体を斜めにすると、一人の男性が立ち上がった。同時に女性が言った。
「この人がメイレィドゥイフ王朝社会主義人民共和国のグレイグフ皇太子の使節です。名前はレイレイノフエィ・メデゥイーチノフ・デュポコゥワイィノフさんとおっしゃいます」
名前が聞き取れないぐらい巻き舌でしかも長く私はその名前を一瞬で忘れた。しかし私はその人の容姿を一瞬で忘れられない印象を残した。とても美しい男性だった。髪は肩まであって褐色であり、眉毛も同じ色。目は明るい水色だ。口は大きくて私を認めて儀礼的に微笑むと歯並びの良い白い歯が見えた。
使節だというその人は私に向かって一歩すすむと私に向かって恭しく拝礼した。右腕を己の胸の上に掲げ、左手を己の背中にまわして腰をかがめる。
ちょうどバレエのパ・ドドゥのように。パ・ド・ドゥは男女一組になって踊るものだが、その前に男性が女性のパートナーに向かってうやうやしく挨拶するときがあるのだ。直前に見た夢とそっくり同じだ。女性を敬うヨーロッパ貴族独特の王子様式の拝礼。それをこの皇太子の使節はごく普通の庶民の私に向かて拝礼したのだ。
わあ、すごい……とおもいきやその使節は流ちょうな日本語で私に話かけた。
「バクセツ・メグミ・サマ。はじめまして。お父様のバクセツ・タロウ・サマ、はじめまして」
声も明るく男性にしては高く響く。素敵な男性だなあと思っていると、お父さんが「はじめまして」と挨拶した。使節はお父さんに近寄って握手した。私には恭しい拝礼、お父さんには握手だ。
そうだ、私はもしかしたらこの使いの人の国の皇太子妃になるかもしれないから、あんなステキな拝礼をしてくれたのだ、それを思うと私はぼうっとなった。
今こんな瞬間が私の身の上に起きているなんて本当に信じられない!
小部屋と言っても本当に小さいものだ。事務的なテーブルに折り畳み式のイスが四脚ある。お茶もケーキも何もなし。テーブルとイス、それだけだ。
「どうぞ、お座りください」
さっきの男性は通訳? なのだろうか、その人が椅子をひいてくれて、私は何度もお辞儀をしながら椅子にすわった。すわろうとしたらすっと椅子をテーブルの中に差し込んで私が座りやすいようにする。こういうのは慣れていないのでとまどってしまう。私は思わず後ろを振り返ってイスを差し出してくれた人に座ったままちょこんと会釈をした。お父さんも私のとなりにすわった。後の人は私たちの後ろにずらりと並んだ。私は緊張してどきどきしてきた。
メイデイドゥイフ側はこの使節一人だけ、いや、もう一人窓際に立っている。この人は逆光にあたり顔がよく見えない。
私の向かい側に皇太子が遣わした使節が座った。背が高く本当にきれいな人だ。皇太子という人がこんな人だといいな、結婚してもいいな、と思ってしまった。私は顔を赤らめてうつむいたと思う。同時に皇太子はお父さんと同じ年、そんな綺麗な人であるわけないと思った。でも顔をあげられない。こういうことは理玖の方が得意だ。なぜ、私なんだろう、理玖ではなくてなぜ私を気に入ったのだろう……私の頭上で声がする。
「バクセツ・メグミ、サマ。どうぞお顔をあげてください、お顔をよく、見せてください」
やはりとても素敵な綺麗な声だ。外国人が話す日本語には独特の訛りが誰にでもあるが、この人のイントネーションもなんとなくステキ。私は緊張のあまり、顔をあげられず首を横にむけた。後ろの方から誰のものか忍び笑いがもれた。お父さんが相手に「日本語がお上手ですね」と声をかけた。場がすくわれたような気がした。使節は丁寧にお父さんに応えた。
「そうです、私は日本語、をロシアで学びました。ロシア、では、レイレイと言われてました。どうぞあなたさまもワタシ、のことをレイレイとおっしゃってください」
「は、はい」
私は、うつむいたままうわずった声を出した。ちょっと声が裏返ったかもしれない、ああ私はどうしてこうなのだろう。他の女の子だったらもっと上手に切り抜けられただろうに、ああ残念な私。お父さんがレイレイさん、いやもうレイレイ、でいいや。お父さんがレイレイに聞いた。
「では申し上げますがそちらの国の皇太子さまがうちの娘を気に入ったと昨日外務省の方から伺い大変驚いております。そして今日の面会……こうなった経緯をもう少し詳しく教えてください」
お父さんの声もいつもと違っていた。語尾が少しふるえている。お父さんも緊張しているのだ。レイレイの声は落ち着いていた。
「ご心配、は何もあり、ません。皇太子さまはグレイグフ、といいますが、めぐみ、さまからはグレイと呼んでもらっていいとおっしゃっています」
私とお父さんの間に革表紙のバインダーがすっと出された。そこには一枚の写真がはさまれている。私の背後の人が動いた。彼らも見ているのだ。写真には一人の男性が移されている。肖像画のようだ。目のさめるような青い軍服を着ている。銀色に輝く幅広の肩掛けを斜めにしてそこにはたくさんの勲章が飾られてる。勲章は金色に輝いていてデザインがよくわからない。背筋がすっと伸び、顔は少々いかめしくこちらをまっすぐ見つめている。写真右下に斜めに何か書かれている。これは多分皇太子のサインだ。外務省の面々もこの写真を見るのは初めてに違いない。私の背後で何度も動く気配がした。写真を見よう見ようとしているのだ。使節レイレイは落ち着いた声で言った。
「この方がグレイグフ皇太子さまです。国外においてはこの写真が初公開になります。この写真はめぐみさま、あなたのものです、あなたに差し上げます」
私はこの写真を一生忘れることはできない。だがお父さんが写真を手にとらないまま、ていねいに隅をつかんで上下さかさまにしてレイレイにすっと返したのだ。態度はとても丁寧だが要は突っ返したのだ。お父さんは言った、
「レイレイさんとやら。うちのめぐみは本当にどこにでもいる少女でどこぞの国の皇太子妃になるような高度の教養やしつけはうけていないのです。今日はこうして会いましたがはっきりとお断り申し上げます。このたびはうちの娘を気に入っていただき本当に光栄で有難いことですが、おつきあいはしかねます。皇太子さまにはその旨、しかとお伝えいただくようお願い申し上げます」
私ははっと顔をあげてお父さんの横顔を見上げた。お父さんは椅子から中腰に立ち上がり、両手を机にべったりつけてカエルのように頭をぺこぺこして下げている。
「お父さんたら、あんな態度はかえって卑屈じゃないの、みっともない……」
でも私も同様なのだ。顔をあげてまっすぐにレイレイを見てきっぱり断ることもできない。
昨日、外務省の人がYOU TUBEの画像がどうのこうのといってくるまで、私は本当に普通、だったのだ。
鎖国の国の富んだ不思議な国。メイデイドゥイフという国の名前すら昨日までは知らなかった。
こんなきれいな人が使節で、皇太子はちょっとこわもてで強そうでカッコいい。窓際にいる人も顔が見えないながらいかめしい軍服を着ている。私が王家の人と結婚して、皇太子妃としてこういう人たちの上にたって暮らしていくのはどう考えても無理がある。そう、やっぱり無理だ。この縁談、私が無理。ああ、どうして私なんだろうか。
レイレイは写真を受け取った。皇太子の写真を受け取り丁寧に持ってきた革張りのバインダーにはさんだ。
「写真とお言葉、を返されました。私は、そのことを皇太子さまに報告します」
レイレイの声はあくまでも落ち着いて丁寧だった。後ろにいた大山さんらしき声があわてていた。
「いやっ、まことに光栄ではありまするが、やはり本人同士のことなので。それに我が国との外交問題もありますし、これをきっかけに……」
「ジャパン、の外務省さま、にはお世話になりました。本日はめぐみさまの容姿確認のため、に伺いました。今日のところはそれまで、にしましょう。ありがとうございました」
レイレイはその声と同時に椅子から立ち上がった。窓際にいた軍人がレイレイの背後に大股に駆け寄りさっと椅子を引いた。レイレイが何やらその人に指示すると軍人は敬礼して私達に一瞥もなく、部屋をさっさと出ていった。自衛隊の服装をした人たちがあわてて追いかけるようにして出ていった。大山さんが立ちあがったレイレイに近寄った。広本さんもだ。レイレイは立ち上がると百八十センチはあるだろう。大山さんも広本さんも大柄な方なので私は小人になった気分で椅子から座ったまま呆然と見上げていた。
レイレイと眼があった。レイレイがふと、目で笑った。私もその瞬間だけ気分が楽になって口元がほぐれたのを自覚した。
「めぐみさま。それでは、お元気で」
大山さんがあわてて「もう帰られるのですか、会見はこれで終わりですか」と聞いている。レイレイは外務省の人にはとりつくしまのない様子で「会見は、終わりました。私は帰国して皇太子に報告します」という。鈴木さんや田中さんが大山さんを助けるように「外務省でもう少し詳しい話を聞かせてほしい」と言っているがレイレイは無言のまま革表紙のバインダーを持ってきた銀色のアタッシュケースにいれている。このケースには鍵までついていた。レイレイの髪がスーツの肩にはらりとかかった。私はあの写真もらっておけばよかったのに、という後悔と、やはりこんな面倒そうな人の写真なんかもらわなくってよかった、という両方の思いを同時に味わった。
この国の人と日本の外務省とは国交がないのだ。石油や天然ガスが豊富だからといっても輸出先はほとんどがロシアや中国で我が国とは取引がない。だから親しみをもって会話することはないだろうか、日本側の外務省のお役人たちは会話をひきのばそうとしたが、レイレイは無言のままで私とお父さんに向かって丁寧に礼をすると部屋を出ていった。
ドアを開けるとがががーという爆音がする。先ほど見た青い小型飛行機のプロペラが回っているのだ。先ほど窓際にいた軍服を着ている人は飛行機を操縦してきた人なのだろう。またいつのまにか倉庫のドアが全開になっていた。私がいる小部屋のドアから旅客機の全容どころか自衛隊基地の光景が丸見えだった。
レイレイをおっかけて外務省の大山さん、鈴木さん、田中さんが私に背中を向けて走っている。レイレイが走るように歩いている。早いのだ。お父さんが私の肩に手を置いた。見上げると目を丸くしたままのお父さんが小型機を眺めている。私たちは飛行機に詳しくないのでそれがどういう飛行機かがわからないのだ。
広本さんがレイレイにおいついて、何か話しかけている。広本さんが何を言っているのかわからないが、まだ帰るなといっているようだ。がレイレイは構わない。広本さんがレイレイの身体を押えようとするとレイレイの背広から銃が見えた。レイレイが銃を手に取り広本さんに向けた。一瞬のことだった。その銃はおもちゃのように小さかったのに、広本さんの動きがぴたっと止まり両手があげられた。後ろに続いていた外務省の人たちも動かない。映画みたいな光景だった。
レイレイが銃を構えたまま、片手で背中越しに飛行機の運転席に向かって薄いアタッシュケースを投げ入れた。機長はそれを受け止めた。レイレイは銃を持ったまま、小型飛行機の表面の小さなくぼみに手をかけてひらりと乗った。二人乗りなのだ。そしてシートの上に置いてあったらしきヘルメットをかぶった。するとレイレイの顔や髪の毛までヘルメットの覆われ何も見えなくなった。後ろから透明なガラスがすーっとレイレイのみならず運転席まで覆った。彼らはこれからメイデイドゥイフまで帰国するつもりなのだ。
どばばばばばばばばっ
プロペラの音がひときわ大きくなったかと思うと、小型飛行機がゆっくりとすすみでた。大山さんが携帯電話でどこかと話をしている。騒音がひどいので怒鳴っている。
「ああ、帰国しようとしている。こちらには会話なしだ。しかも我々に銃を向けた! なんという無作法な国だ。無法で無礼な国家だ。管制塔は離陸許可を出すな、この国から出すな」
鈴木さんと田中さんが顔を覆ってこちらに走ってきた。
ばばばばばばばばっ
大山さんとの会話むなしく、小型飛行機はあっというまに走り去り、視界のはしまで行くとあっさりと飛び立ってしまった。私とお父さんはその場で立ち尽くすことしかできなかった。つまり会見といっても写真をちらっと見るしかなかったのだ。メイデイドウイフのグレイグフ皇太子。綺麗な軍服の配色だけが目に残りあとはよく覚えていない。
レイレイの方がハンサムだったなとは思った。グレイグフ皇太子はあのレイレイを使節に命じて日本に越させたのだ。だが外務省や自衛隊、公安の人たちが止めているのにお父さんが写真を突っ返したら、さっさと帰国してしまった。公安の人に銃を向けてまで強引に帰ってしまったのだ。
褐色の長い髪に薄い青の色を持つ目。まるで漫画みたいだ。私は遠ざかっていく飛行機に向かってつぶやく。
「そう、まるで漫画のようだった……日本からはるか遠い国、メイデイドゥイフ。そしてレイレイ。ああ私……ちゃんと国名を言えるようになったわ。でもこれで最初で最後。会うことは二度とないだろう。とてもいい経験をしたと思いたいわ、そう、一生の思い出になるだろう」




