第九話、太后と対面、中編
◎ 第65話
お腹を押さえてかがむ私の頭越しにレイレイとダミアンが会話している。ダミアンが私の足元にひざまづき、何か言ったが当然私にはわからない。めぐみ、というダミアンの呼びかけだけしかわからない。ダミアンは真剣な顔をしている。心配顔だった。ダミアンがいくら侍従医でも上から目線で「トイレ!」と叫ぶことはできない。うつむく私にレイレイの声が聞こえた。安心の日本語だ。
「めぐみ様、歩けますか」
「うん……」
私は恥ずかしかった。大の男二人に囲まれてトイレに行きたい、と言わなきゃならないなんて。涙がこぼれた。せめて案内役に女の人がいたらいいのに、ハジをかいてしまう。生理現象を言わないといけないのだ。
「トイレにご案内します」
「うん……」
「すぐそこにありますので」
「うん……」
何のことはない、鏡の間の隅っこ、鉄格子があった壁面の向かって左側にトイレがあった。レイレイが鏡の一部を手で押すとあら不思議、トイレが出現した。ああ、安心のトイレ。どういう高貴な場所でもトイレはあるのだ、だってみんな人間だもの。
私はトイレに飛び込み、鍵をかけようとする。と、手が差し入れられた。
「カギはかけられません。私たちは中を見ないのでそのままシテください」
忘れていた、私は軟禁状態だった。あの例の部屋だってトイレにかぎはなかった。ここでもそうなのか、でもここは太后の謁見の間の中のトイレでちゃんとカギはついている。カギをかけてすることもできないのか。私はかっときてレイレイの手ごとぎゅーとドアをしめようとした。だけど力の弱い私のすること、すぐにはねのけられ今度はダミアンが顔を出した。ひどい、と思う間もなくダミアンは片手で軍服の胸ポケットをはずして中から小さな拳銃を取り出した。そしてそれをカギに向かって発砲した。バズ、というくぐもった音がしてあっけなくカギはこわれた。カギの部品が落ちた。ドアが大きく開けられレイレイがさっとそのカギ部品をとってこれも軍服のポケットに入れた。ダミアンがメイデイドゥイフ語で何か言う。
おっかぶせるようにレイレイの声がする。
「カギはこわしておきました、ドアはしめておきましょう。ゆっくりシテください」
……くやしい……。
でも生理現象に勝てなく私はトイレの便器に向き直る。トイレの中は広かった。あの軟禁部屋の狭いトイレの十倍の広さはある。裾の広がるドレスでも余裕で入ることができる。トイレの中はさすがに鏡張りではなかった。どんなにトイレが広くともどんな場所にあろうともトイレの便器自体は人間のお尻にあたるように設計されている。私はカギがこわれたドアが閉まっているのを確認してから便器に向き直った。
しかしこのトイレのドアのすぐそこには男性二名が待機している。しかもカギなしで何かあればすぐ入ってこられてしまう。私はドアをにらみつける。
私は囚人でもないのにこの仕打ち、くやしいと思いながらもショーツをおろしておしっこをする。腹痛が弱まるどころか強くなってきた。もしかしなくともこの下腹部のずーんとしたこの痛み……毎月来るアレではないか……。
便器のすぐ横にある装置のメイデイドゥイフ語表示はわからないなりにビデと乾燥風を使ってお尻をきれいにする。嫌な予感を覚えつつトイレの水を流そうとして立ち上がる。立ち上がると自動的に水が流れる仕掛けになっているが私はトイレの水が真っ赤になっているのを確認した。真っ赤な水が便器の奥に流されていく。
「やっぱり、生理だ……生理が来てしまった」
私はトイレの中の棚や入れ物をさがした。
だけどトイレは広くて快適だが予備のトイレットペーパーどころかトイレの掃除用具も何もない。それどころかナプキン入れすらないのだ。
ということは私が今一番欲しい生理用ナプキンがないのだ。
私はうろたえてしまった。ショーツも生理の血で少し汚れている。トイレットペーパーはふんわりとした紙だったのでたくさんとって応急処置的なナプキンにしてもいいけど、それでもこれから経血がどんどん出てくるだろう、ナプキンが欲しい。できれば横もれしない羽つきナプキン。タンポンでもいい、とにかく何とかしないとこの由緒ありげな豪華なドレスも汚れてしまうだろう。
どうしよう……私は今窮地におちている。このトイレのすぐ外で待っているレイレイに言って持ってこさせるしかない。みじめな気分だった。私は豪華なドレスの裾をまくってもう一度便器に腰をおろした。どうしよう、どうしたらいいのだろう。ああ、私は日本に帰りたい。私は手で顔をおおってドレスにうずめる。
「めぐみ様、だいじょうぶですか、出れますか」
「まだいやよ、レイレイ、入ってこないでよ」
私はすすり泣いた。
「状況を説明してください、でないとダミアンが診察することになります」
「し、診察。これはただの生理よ、生理痛よ、こないでちょうだい。診察なんかされたら私は自殺してやるからね」
私はすすり泣きながらため息をつくように言った。もう言うしかない。生理という言葉なんかレイレイに対して使いたくなかった。恥ずかしくてみじめだったが言うしかなかった。
レイレイの声がすこしあいて「わかりました」とだけ言った。ダミアンとレイレイの声が外で聞こえた。それから何の声もしなくなった。
私は手で顔をおおって再びドレスの中に顔をうずめる。みじめ、みじめな私。日本中の女の子が超絶玉の輿と羨んだ女の子のなれの果てがこの私。大人の男の人二人に生理がきました、と言わないといけないなんて!
どのくらいその姿勢でいたのだろう。ノックの音がして私は飛び上がる。
こん、こん……、
私はハンカチがないのに気付き、ドレスで顔をごしごしふいた。もういいや、こんなドレスにも気をつかうことはない。太后の謁見だからといって別に気を使うことはない。もう何もかもどうでもいい。愛想つかされて日本に戻してほしい。私は涙声で力なくつぶやく。
「レイレイ、入ってこないで。入ってきちゃいやよ……」
こん、こん……、
「◎△□◎……」
レイレイの声ではない声がした。ダミアンの声でもない。女性の声だった。私ははっとした。
「めぐみ……」
「……」
「めぐみ……」
私は全身に鳥肌が立った。
その声は死ぬ直前の私のお母さんの声そっくりだったのだ。
めぐみ、危ないというお母さんのあの声だ。




