第四十話、袋小路先生
◎ 第四十話
私はお妃教育の予定表一覧のプリントを見たが確かに古文の袋小路秀麿先生の名前があった。公家の出身といったら元華族か何かだろう。全くの庶民の私にとっては雲の上の存在ではないか。しかも苦手な古文の先生。しかも娘がどこかの宮家にお嫁入りしてその娘、つまり先生の外孫が春美野筆子さん。その筆子さんの旦那さんがメイデイドゥイフの貿易の関与者? メイデイドゥイフと日本とは国交がないといっていたが、でも関与者とかいうのはアリなのか。私にはよくわからない。
袋小路秀麿という名前からして難しそう、いかめしそう、気位高そうというマイナスイメージばかり浮かんで会うのも億劫だった。
田中さんにはわかりました、としおらしく返事したものの、この期に及んでもまだ迷いがある。
……まあ会うだけは会ってみよう。さっきの礼儀作法や着物着付けの先生にみたいだったら、さっさとこの部屋に帰って鍵をかけて寝てしまおう。そして夜になったら理玖とおしゃべりしよう……
そう決めたら気が楽になった。
着物着付けの先生を追い返してしまったので時間が余った。
古文の先生が来る時間まで二十分ぐらいある。中途半端だった。部屋の中央にある大きなおひつのような黒塗りのふたを取るとお菓子と急須と湯呑があるのでオヤツにした。お茶菓子は扇の形をした小さな和菓子だった。お砂糖のかたまりかと思ったが違った。甘すぎない抹茶味の上品な和菓子。包まれていた和紙を見ると小さく和三盆雛菓子、第二十三代目雛宇治三条とあった。一つ食べると止まらなくてそこに置いてあったものを全部食べてしまった。お茶も自分で適当に入れたにしてはとてもおいしい。多分百円均一で買っている煎茶とは違う上等な高級茶なのだろう。こんなのが宇留鷲旅館に備え付けられているのだ。
でも私は庶民の育ち。冷凍のフライドポテトがここにあったらなおいいのに、と思った。はっきりいって料理人さんが私の目の前で心こめて作ってくれたのより、家の冷凍庫にある大袋を開けてオーブンレンジでチンしてケチャップを大量につけてテレビを見ながら食べるのが大好き。
あのメイデイドゥイフのグレイグフ皇太子は何が好きなんだろう。朝昼晩のご飯、それとオヤツの時間も私と一緒になるのかな、そう思うと結婚はやっぱり無理だと思うのだけど。
やがて融故女将から電話が来て「袋小路先生がお待ちです」と言われて仕方なく部屋を出た。出ると広本さんが立っていて私を見て目礼をした。この人は私がいるので仕事中なのだ。私に警護の人がつくなんて信じられない。この人の給料もメイデイドゥイフが出した支度金から払い出しされるのだろうか。
さきほどのお妃教育のためにあてがわれた部屋に戻ると、和服を着た一人のおじいさんがぽつんと座っていた。背筋をしゃんとのばし、正座して持参の本を読んでいる。本の脇には質素な筆記用具があった。筆箱は革製のようだが古すぎて使い込まれて禿げて白くなっている。それと角の所がすり減って丸くなっている黄ばんだ大学ノート、それだけだ。私が入室するとおじいさんは本を閉じて目礼してきた。確かこの人は九十五歳だと言っていたな、すごい年寄りだなーと思いながら私も目礼を返しながら座る。
お公家さんの出身といっても言われて見た目ではわからない。生まれ育ちの肩書なんか本当に見た目ではわからない。お公家さんも娘さんが宮家の人でとか言われても何も言われてなかったらただの年寄りだ。
私はこのおじいさんがエスパーで私の考えが読み取れる人だったら怒りそうな失礼なことを考えていた。だけど基本他人の考えは読み取れないものだ。会っただけでは。
だけどこのおじいさんは結論からいうと、ビンゴの先生だった。それとそのお孫さんの筆子さんも。田中さんのいうことに拒否せず会っておいてよかったと何度も思った。
このおじいさんは、違った、袋小路先生は長々と挨拶はせず率直に聞いてきた。
「爆雪めぐみさんは古文の授業はお好きですか」
さきほどの礼儀作法や着付けの先生のまわりくどいあいさつよりはずっとましだった。私は正直に「いえあまり好きではありません」と答えた。
袋小路先生はにこやかな表情をくずさず「それでは百人一首はどうですか、お好きな句がありましたらなんでもおっしゃってください。あなたには準備時間があまりありませんので、興味のあるところからのお勉強を私と一緒にいたしましょう」と言った。
尊大なところはかけらもなく、私は先の世界史や日本史の先生とおなじように好感をもった。
「あの~先生。うそついても仕方ないので正直に言いますけど、百人一首はテスト前に問題に出そうなものだけ暗記しました。テストが終わると忘れました。だから好きな句はありません。あんまりピンとこなくてわかりません」
先生はしわしわの口元をほころばせて言うのだ。
「現代っ子の若いお嬢さんはそんなものかもしれません、昔のように折々の季節を愛でる風習はごく一部を除いては残念ながらすたれています。朝日や夕日、夜空、山や川の風景、そんなものをゆっくり見たり考える時間はもう大事にされてはいません。それでも和歌はいいものですよ、和歌が苦手でしたら俳句も川柳でも教えましょう。要は好きなものから入って行けばいいのです。古いものは新しいものに通じます、また世界に言語は数あれど日本語ほど素晴らしい言語はないと私は思うのです」
このままいけば普通に古文の授業に突入しそうなので私は先に聞きたいことを聞くことにした。
「あの~袋小路先生。私は先生のお孫さんの春美野筆子さんのダンナさんがメイデイドゥイフに関係ある人だと聞いて、それでお妃養育に選ばれたと思っていました」
先生は笑顔のままだ。えい、いいや、この先生も怒らない先生だ、きっと。続けて言った。
「それで……古文もいいけど私にはメイデイドゥイフのことがよくわからないのです。坂手大臣はメイデイドゥイフ語をしゃべってましたけどよくしらないっていうし、外務省の人たちも全員よく知らないみたい。私はこんな状態で結婚できるのかと心配しているのです。お孫さん通じて何かご存じのことがありましたら教えてください」
先生はいきなり年寄りとも思えぬ大きな声で笑い出した。
「はっはっは、ではお妃教育の古文の先生として私が選ばれましたのは親の七光りならぬ孫の七光りでしたか、これは恐れ入りました。うちの孫は偉いものですなあ。私はお嬢さんに会えて孫に感謝しないといけませぬなあ、はっはっは」




