第三十五話、お妃教育、前編
◎ 第三十五話
……お妃教育、ね。
この……の部分に隠されたため息をわかってほしい……。
私は今日から自転車に乗って大盛女学園に通学しなくてもいいのだ。学生かばんも制服もいらない。雨がふりそうだったらカサを用意するがもうそんなことはしなくてもよいのだ。雨が降っていたらレインコートを着るがそれもそんなことをしなくてもよくなった。毎日理玖目当ての男の子たちの待ち伏せをかわして二人自転車を並べて走らせて通学することはもう二度とないのだ。自転車をこぐときの風の匂いと風の音、自動車の騒音と徒歩通勤の人たちを突っ切りながら器用に理玖と会話することも、全くなくなってしまった。
お妃教育が始まるというその日、起床するとまだ六時だった。
宇留鷲旅館は創立百年以上、帝国ホテルと並んで海外からの賓客やセレブを宿泊させたというからもう普通じゃない。贅沢なものだ。この部屋だって一泊十万円以上はするだろう、でもこれもメイデイドゥイフの支払だ。私はもうお金のことは考えなくてもいいらしい。
ちょっとこの旅館まわりを散歩でもするかと思いつく。早朝なら誰もいないだろう。私がこの旅館にいることは新聞の記事からしても全くばれてはいないようだ。私も外の空気を吸いたかったのだ。念のためマスクをしていけば大丈夫だろう。
旅館を出るには離れから庭園を横切って本館を抜けていかないといけない。まず本館に入ったが朝早いせいか広間にもフロントにも誰もいなくてこれ幸いと突っ切って出ようとした。しかし、いつのまにか融故女将が待ち構えていた。で、「めぐみ様、おはようございます」と深々とお辞儀をするのだ。
「どちらへ行かれたいのですか、案内させていただきます」
「え、あのう、ちょっとそこらへんを散歩しようかと」
「うちの庭園は自慢の純粋な日本庭園です。景観ショーで何度も受賞しています。どうぞどうぞ、こちらへ」
私は外出しようとしているのだが、女将は本館の内部や庭園を見ようとしていると勘違いしているようだ。私はあわてて断った。
「あのう、自分で見ますから……いいです」
「気遣いはご無用です。めぐみ様」
融故女将は大張り切りで私を案内する。
「当旅館の庭園は海外のお客様にもつとに有名でございます。そもそもこの旅館の建物自体が旧江島藩のもの、それを改装して現在にいたります。自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭いたしましたのは代々庭師である著名な二羽仁和総本家が管理しております。四季折々を歌に詠む情緒的な文学の世界と建物近くに配される滝・遣水・野筋・前栽につきまして……」
「あっあの~、コンビニとかがいいのですけど」
「おコンビニで、ございますか」
「おコンビニ……えっとここの近くにローソンかセブンイレブンないですか?」」
そこへ広本さんがやってきた。彼もまたいつのまにか私の背後にいたのだ。
「おはようございます。めぐみさん、すみませんが外出はSPの構成が整ってからにしてください。SPなしの外出は警護の観点からどうかお控えください。外への買い物は私がいたしますから遠慮なく申し付けください」
私はコンビニでお菓子を買いたかったのだ。ラムレーズン入りのチョコレートとサッポロポテトがいい。生理用品も欲しかった。生理用品は洗面室に備え付けられていたけど私がいつも使っているメーカーのがなかったし。それと今日はクラリスマガジンの発売日だ。ついで他の漫画の立ち読みもちょっとだけしたい。でもこんなの広本さんに言えるわけない。
「……えっと、じゃあ、いいです。よく考えたらお財布持ってないし。お父さんからお小遣いもらわないと」
私は朝早くから着物をきちんと着こなしている女将さんとスーツをびしっと着こなしたSPの広本さんにごにょごにょと返事して逃げるようにその場を去る。庭園を突っ切り離れに到着、やっとのことで自分に割り当てられたスイートルームに戻った。私はセレブにはなれそうもない。あんな人たちを召使みたいに扱えというのは私には無理だよ、ほんと。
私の部屋は広い。畳の上にしかれたふんわりとした布団もよかったし、床の間のある部屋もよかった。掛け軸は山と湖の高そうな水墨画。とっても和風。
今日も暑そうだが空調は快適。何もいうことはない。でも退屈だ。
私は布団の上で手を組みバレエストレッチをする。しばらくバレエレッスンもできないし、自力で運動しないとすぐに身体が硬くなるだろう。
私はそのまま、ごろごろしていた。お父さんが起きてきておはよう、と言ってきた。お父さんはもう背広ネクタイの姿だ。
「仕事を休むといっていたけど、行くのね」
「いやあ、違うよ。今日も誰がお客さんが来るかわからないし、とりあえず無難な格好をしておかないと」
「いろいろとめんどうねえ」
「うーん、でも文句言える立場じゃないしなあ」
親子でまたため息をつく。
やがて朝ごはんがきてお父さんと一緒に食べた。例の融故女将が来たがお父さんがきっぱりと断ってくれた。
「ご飯は運んでくれるだけでいい、親子だけで食べたいから付き添いは遠慮してくれ」
そのセリフでお父さんも気づまりだったのだとわかった。女将は特に不平は言わず親子水入らずのお気持ちはようわかりますと心得顔でうなづかれて丁寧にお辞儀して退室してくれた。よかった。
大きなお膳が運ばれると仲居さん達もさっさと出てくれた。私たちの方が客なのだ。だけど言わないと希望は伝わらない。やれやれよかった。
朝ごはんも純和食でお味噌汁がすごくおいしかった。お父さんはとなりに置かれたおひつにしゃもじを入れ遠慮なくご飯を二回もおかわりした。
お父さんに今朝の外出をとりやめたことをいうと、小遣いをくれた。三万円も。ただ釘もさされた。
「お前にもし何かあったら大変だからお父さんと広本さんにだけは行先を言った方がいいよ、わかったね」
「うん、わかった。でも、おとうさん、財布とか、着替えとか、家からいろいろ持ってきたいのだけど」
「めぐみ、今日ぼくが家に戻って必要品をここに持っていくよ。昨日の夜も大盛女学園の校長から電話があって荷物などどうするのかって、退学届を出さないといけないからついでによる」
「退学届……」
「もう仕方ないよ、めぐみ。こんな騒ぎになってもう普通の生活はできないよ。ここまできたら腹をくくってお妃教育とやらをまじめに受けてメイデイドゥイフの皇太子妃として嫁ぐことだ」
「……」
お父さんは私を勇気づけた。
「嫌だったら帰国したらいいのだ。あちらが強引すぎるのが悪い。めぐみ、心配するな。お父さんがついている」
「……うん」
「くよくよしても仕方がないよ。ここの味噌汁お豆腐とわかめしかはいってないのに、山椒の味がきいてすごくおいしいよ、飲んでごらんよ、めぐみ」
「……うん」
お腹がすいてなかったが、飲むと確かにおいしい。ふと私はメイデイドゥイフにいってあのグレイグフ皇太子と結婚したらお料理することがあるのだろうかと思った。結婚したらお料理を二人で楽しく作って楽しく食べたい。そんなささやかな生活も吹っ飛ばすほどの超絶玉の輿の結婚、どんな感じになるだろうか。
私は楽しみというよりも怖かった。それもあのいかめしそうな顔をしたグレイグフ皇太子。四十歳。私のお父さんが四十歳なのでわかるけど、本当におじさんだ。お父さんは私の小さいころから一緒にすんでいるからいいけど、赤の他人の四十歳ならば話も通じないだろう。しかもあんな強引なキス。夜になるとあの皇太子と一緒にベッドで寝ないといけない。そこであの皇太子とキス以上のことをする……そこまで考えるとぶるっと身体が震えた。無理だ。あの人と結婚するなんて想像もつかないことだ。日本中の人たちはこれを知らない。私がこんな状態なのに結婚できるだろうか、心の中は不安ばかりだ。
さてお妃教育。生徒は私一人。当然ながら学校の補習授業よりもうれしくない。
私は九時になったら隣の部屋の和室に行けばいいのだ。最初の授業は世界史だった。世界史の偉い先生らしい人がすでに部屋で待っていた。本をたくさん持ち込まれていて大きな世界地図も部屋に貼ってあった。この準備をするために早めに旅館に来たのではないだろうか、それを思うとちょっと申し訳ない気分になった。もらっていたプリントを確認すると逆田先生となっている。とても太っていて髭をはやした男性だった。歳は六十歳ぐらいだろうか。私が部屋に入室して一礼して椅子に座ると先生もていねいに一礼して自己紹介をされた。
「私が今日から世界史を担当しますドンブリッジ大学名誉教授の逆田逆彦です。爆雪めぐみさん、このたびはおめでとうございます。日本女性の代表としてメイデイドゥイフに嫁がれるめぐみさんに教えてあげられるというのは大変光栄に思います」
「……爆雪めぐみです、よろしくお願いします」
逆田先生はまず私がどこまで学校で世界史を勉強しているか知りたがった。私は世界史が苦手なのだ。テスト前だけ大急ぎで暗記してそれきり忘れているものが多い。知ったかぶりしてもどうせボロが出るにきまっているので、歴史関係は苦手ですと正直に申告した。




