第三十三話、お妃教育の準備、前編
◎ 第三十三話
私はどこかの女優さんでもないし選挙カーで演説している政治家でもなんでもない。だからつっかえつっかえだけど、池津さんだけはイヤだという理由を訴えた。大臣はにこやかな顔をしてお茶をすすっている。大山さんは黙って聞いていた。一通り言い終わると坂手大臣が私をあやすように言った。
「お嬢さんのお気持ちはよくわかりました。ではメイデイドゥイフ語の教師はまた別の人を探しておきましょう。この問題はひとまずこれで」
「はい……」
こういうしかないだろう。なにもかもが急に決まっていくが、お妃教育というものを受けるのに忙しいはずの大臣が出てくるなんて信じられないことだ。大臣は湯呑をとんと置いて私に言った。
「いや、お嬢さん。あなたはちゃんと自分の意見を言えるじゃないですか。ちょっと安心しましたよ」
「?」
「実は心配していました。だがこれなら大丈夫でしょう。我々はお嬢さんをこの一カ月でどこに出しても恥ずかしくない日本女性の代表として大手振って出国できるようにお手伝いさせていただきますぞ。
これは外務大臣としてお嬢さんに心からお願いしたいのです。海外に出るならどこに行っても最低限の日本の歴史とマナーだけは覚えてほしいのです。どうかよろしくお願いします」
坂手大臣は深々と頭を下げた。一介のどこにでもいる目立たぬ女の子の私に頭を下げるのだ。これもメイデイドゥイフの皇太子妃効果というものであろうか。私も大臣にちょこんと頭を下げた。
お父さんは言った。
「もう一度確認させていただきます。メイデイドゥイフからの支度金、三十億円というのは、外務省が管理するのですか」
「そうです。身支度もお手伝いさせていただきます。ご婚礼後残金があればすべて爆雪めぐみさんの保護者であるあなたに全額返金します。爆雪めぐみというこのお嬢さんを通じて我々日本の国とメイデイドゥイフ国と親密な関係を築き上げていきたい、そう思っています」
「……」
お父さんは腕組みして五千万円の札束を眺めている。日銀には残りの二十九億五千万円が預けられている。メイデイドゥイフ国は私一人のためにこれだけの日本円をいともやすやすと用意したのだ。それも外務省という公的機関を通じて。
もうここまで来ると逃げられない。私はまだ見ぬメイデイドゥイフ国の気前の良さと、私が生まれる以前に亡命? したお祖母さんの思いを測るがわからないことばかりだ。
とりあえず今後八月十五日の出国つまりメイデイドゥイフから迎えが来るまでこの宇留鷲旅館に宿泊することになった。出かけるのは自由だがSPもつくことになった。大山さんがそういうのだ。大山さんは後ろに控えている広本さんを指さした。
「今日からお嬢さんのSPはこの広本が主に担当させていただきます」
広本さんが部屋の隅から深々とお辞儀をした。
「改めまして広本と申します。僭越ながらお嬢さんがメイデイドゥイフに無事入国して結婚式を無事挙げられますまで護衛をさせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「は、はい……」
広本さんは例の自衛隊基地でメイデイドゥイフの使節レイレイの初対面時にも一緒だった。だから任命されたのかもしれない。私は黙ってうなづいた。
大臣と大山さんは引き上げていったが、程なく女将さんが来て明日からお妃教育だそうです。場所はこの部屋の隣でございます。午前と午後に先生が一人ずつ来られます。一科目につき九十分、つきましては筆記用具やノートを自由に選べますようこちらでいくつか持ってきましたので選んでくださいと言ってきた。
私の知らないところでお妃教育や護衛、宿泊場所も指定もされた。私の知らないところで私の知らない予定が組み立てられ私の知らない話がちゃくちゃくとすすんでいっている。
私はつい今朝言ったばかりの受諾の返事を取り消したい思いでいっぱいだった。でももう引き返せない。お父さんは三十億円のうち五千万円をうけとってしまった。出国までにいくら使っても三十億円なんか使いきれない。残ったとしてもお父さんが少しずつ使えば一生暮らせていけるお金だ。
結婚式の支度金として即金で三十億円。私は自分にそんな値打ちがある女の子だとはとうてい思えない。でもメイデイドゥイフも外務省も本気なのだ。
もう動いてしまっているのだ。
大臣と大山さんはお父さんと私に何度もお辞儀をしてそれから退室していった。広い部屋に残ったのは私とお父さんだけだ。
「お父さん、どうしよう」
「とりあえずぼくは仕事を休むことにした。めぐみの結婚式につきそってめぐみの新しい住まいと幸せになれそうかチェックしてから帰国することにする。それまではこのお金を少しずつ使わせてもらおうと思う」
「そうね、そうするしかないわね」
しょんぼりしている私にお父さんもまたため息をつきながら言った。
「……しかしえらいことになったなあ、ぼくの娘のめぐみがセレブになるのか、ぼくはまだ実感がわかないよ……」
私は仲居さんがいなくなり、広い部屋で畳敷きに足を投げ出している。慣れない正座をしていたせいでしびれている。しびれが少しましになった時にバレエストレッチを始めた。部屋が広いからこれはのびのびできる。だけど狭くていいから自分の部屋が恋しかった。やっぱり私はセレブになるガラではない。ほんと。私は大の字に寝そべった。
「あーお妃教育は明日からだって……ノートは上品な和紙を綴じたものだし、ペンは普通のボールペンでも十分なのに高そうな万年筆だよ、スタイリッシュというのかな、デザインはいいけどこんなの私、使ったことないよ。
うーん、なんでもチープで使い慣れたものの方がいいよ。学校に置いたままのバッグの中にあったペンケース、あの中にNAITOのブロマイドが入っていたのに、あれどうなってるかなあ。手芸部のパッチワーク、文化祭に共同作品で出品するのになあ。私が担当した部分、あれはだれが続きをしてくれるのかなあ、バレエももう大豆バレエで踊れなくなってしまうのかなあ、どうなるんだろ、私」
考えれば考えるほど見通しがわからない。話がすごすぎて訳がわからないのだ。




