第二十話、ついにグレイグフ皇太子に会いました
◎ 第二十章
私と池津さんがスイートルームの中の会議室に戻ると、皆が一斉に立ち上がった。お父さんが言った。
「えーと、めぐみ。やっぱりその服でいいのか」
「うん」
私がそう返事するとお父さんはそっかと言い、大山さんは肩をすくめた。また背後にいる池津さんが何か合図したのかもしれない。坂手大臣は私に向けた笑顔を崩さない。服ぐらいどうだっていいじゃんか、というのが私の言い分だ。だけど私は弁が立たないのでただ黙っているだけ。多分大臣の笑顔に対しても私は無表情に近かったと思う。愛想のない娘だと思われてもいい。ネット上ではすでにばかみ、死ねとまで書かれているのだ。どう思われても平気だ。
坂手大臣は私に絶対に逆らわないと決めているようだった。
「うむ、お嬢さん。そのお洋服は高校生らしくてなかなかよろしい。薄いブルーにホワイトは日本の蒸し暑い夏を乗り切るにはふさわしい配色だ。清純そうだし、とてもよく似合っていますよ」
これで決まった。大臣が認めたのだ。私は池津さんに対してふん、と思った。
外務省として私がメイデイドゥイフの皇太子と結婚したら良いことづくめみたいなことは言ったが、それも私には関係ない。すべてが私次第だと思われるのも迷惑だ。私から見たら私を見てあちらが断る可能性はそれ以上に大きいとおもっているのだし。
「じゃあ、行こうか」
坂手大臣が先に立った。大山次官が次に私を通す。その次がお父さんだ。あとはわからない、ぞろぞろと人がついてくる。スイートルームで一泊したけど、本当ならラッキーとかよいホテルだったとか思うのだろうが私は話のスケールが大きすぎてそういう普通の感情ではなかった。とにかく皇太子との会話を切り抜けてあとはさっさとお父さんと一緒に家に帰るのだ。
スイートルーム専用のエレベーターを使ったが下りた先が一段下の階下だった。バカバカしい。二十六階の部屋から二十五階の部屋に行くなら階段を使ったっていいじゃんか。と思ったが何も言わないことに決めた。
それから廊下を歩いた。まわりには誰もいない。ついてくるのは坂手大臣と私、お父さん、後ろに大山次官。それとSP公安の広本さんに通訳の池津さん。女性は私と池津さんだけだ。田中さんや鈴木さんまではついてこなかった。
やがてつきあたりの部屋についた。特別ルームの個室だった。ここの帝国ホテルのじゅうたんは深くて私たちの足音はほとんどしない。部屋の前には同じく二人のSPがいた。二人とも日本人の男性だ。坂手大臣がさっと片手を上げる。向かって左側の男性が胸もとにある小さなスピーカーに首を曲げて小声で何か合図したと思ったら、右側の男性がドアを開けてくれた。坂手大臣は躊躇せずすっと入っていた。私も当然ついていった。後ろにはお父さんがいる。その横が通訳の池津さんだ。私たちは四名だ。
さあ、いよいよメイデイドゥイフのグレイグフ皇太子と実際の面会だ。一体どうなるのだろうか。
ドアが開けられると広いテーブルがあった。外務省別館の会議室なんてものじゃない。テレビの皇室番組で見かけるような貴賓室だった。毛の長い絨毯に重たい漆黒のテーブルだ。重たげな色だがよく見ると細かいひび割れがある。黒い大理石テーブルなのだろう。変わっているがたぶんこういうデザインなのだろう。高い天井から重たげなシャンデリアがぶらさがっている。今この場で地震が起きたら私はこのシャンデリアに串刺しになって死ぬのだろうなと思った。
テーブルの向うに一人の男性が座っている。目も髪も濃い茶色だ。軍人のように短く刈り上げている。唇が横一文字にぎゅっと引き締めている表情に私はああ、そういえば自衛隊基地で見せられた皇太子の写真がこういう表情だったな、本人ととうとう会っちゃったなという感想を持った。
服装は軍服でもなく、勲章も何もなかった。黒いYシャツに真っ白な上下のスーツを着ている。はっきりいってその服装は映画で見るイタリアのマフィアみたいだった。赤いバラの花を持たせたら映画そっくりになるだろう。悪いけど人相が悪いのだ、この皇太子は。服装のセンスも外国人だから点は甘くなるけど、でもイマイチ。池津さんの言うとおりにしてドレスや振袖を来てお化粧ばっちりでこの部屋に入ったら大恥をかくところだ。私は池津さんの忠告を無視してよかったと心から思った。
皇太子の後ろに四,五人の男性が並んでいるが皇太子に一番近い場所にいたのはあの使節のレイレイだった。また会ったのだ。レイレイとは二回目だ。
男性が立ち上がると同時にレイレイがイスを引いた。男性はレイレイよりもやや背が低かった。これがメイデイドゥイフのグレイグフ皇太子なのだ。しかも私のお父さんと同じ年だからそれなりに年をとってみえる。レイレイに見せられた例の写真は軍服だったがすぐに返してしまったので覚えてない。だけどまさにこういうお顔だったと思い出した。
そう、この人がメイデイドゥイフのグレイグフ皇太子、この騒動の張本人、私にとっては諸悪の根源、グレイグフ皇太子、なのだ!
皇太子は身体をまっすぐに起こして私を直視した。髪と眼は濃いブラウン、まつ毛は短い、目は大きな二重だが奥に引っ込んでいる。鼻は大きくてわし鼻だ。日本人にはこういう濃い顔はない。体格はがっちりしている。口元が引き締まっているのでちょっといかめしく怖い感じも受ける。だが笑顔だった。
私が坂手大臣に連れられて皇太子の前に立つと皇太子は私に軽く会釈した。坂手大臣は多分メイデイドゥイフ語だと思うが何か挨拶と紹介めいたことを言って私の方を振り返った。
私は皇太子に向かって丁寧に頭を下げた。大臣は私に左手を皇太子に向かって差し出すように、と言われたのでその通りにした。
すると皇太子は机をぐるりとまわってきた。ゆっくりと一歩一歩踏みしめるようにして私のそばにやってきた。その間も私の顔から眼をそらさなかった。私の手を取り私の目を見つめながら背中をこれもゆっくりとかがめてそっとキスをした。私は驚いて手をひっこめようとしたが皇太子の手は意外と分厚くひっこめることは許されなかった。私は呆然とした。こんなヨーロッパの昔の宮廷のような映画やオペラやバレエでしか見かけない貴婦人に対するあいさつはされたことなんかなかったからだ。
皇太子は私の手を離すとそのまま立ってじっと私を見つめている。彼は笑顔だった。私は呆然として見つめるしかなかった。何を言っていいのか何をしたらいいのか、全くわからない。皇太子が私になにか言った。
「め、ぐ、み」
「はっ、はいっはいっ」
私は気が動転して声を出した。大きい声だったか小さい声だったかそれもよく覚えてない。
すぐに返事はしたつもりだが、どもってしまった。私はお父さんのどもりを悪く言えない。
皇太子は私の目を見つめながら続ける。目で私をのぞきこむのだ。この人は。皇太子の口が動いた。
「め、ぐ、み……め、ぐ、み……こ、こ……」
レイレイが皇太子の側にまわってささやいた。「こんにち、は、」
皇太子は私にあいさつしようとしているのだ、
しかも日本語で!
皇太子は軽くうなづき私の方に向き直ってもう一度言った。
「め、ぐ、み、こん、に、ち、わ」
語尾がとてもはっきりしていた。最後まで言い終えると皇太子は笑顔をもっと大きく広げた。私も緊張がほぐれてきた。皇太子の笑顔につられて笑顔で返事した。
「グレイグフ皇太子様、こんにちは、私は爆雪めぐみです、お会いできて光栄です」
すかさず池津さんが「んにょんよんよ……ナントカナントカ」 と返す。通訳しているのだが私にはわからない。だけど通訳なしでもなんとかなるし、このままでもいいのではないかと思った。
皇太子は池津さんの方を一切見なかった。私だけを見ている。レイレイも私を見ている。そのほかの皇太子のおつきもみんな私を見ている。皇太子の口がまた開いた。その言葉はわからない、だけどめぐみ、めぐみという言葉が頻繁に挿入されている。池津さんが近寄ってくるとレイレイが手で制した。そしてレイレイが皇太子と私の間をかばうようにして、坂手大臣とお父さん、池津さんの前に立った。そして説明した。
「日本側のみな、さん。ここからは、メイデイドゥイフの通訳のレイレイ、が話します」
まるで打ち合わせていたように、皇太子が私から視線を離さないまま何かを言う。レイレイがそれを通訳するたびに私の目は驚きのあまり大きくなっていった。たぶん大臣やお父さんたちもそうだったと思う。
「……めぐみは、画像で見た、のもかわいいが、実物はもっとかわいい。めぐみは、どうかこのままメイデイドゥイフへ来て、ください。私はとても大事、にします。あなたは私の皇太子妃です。国民はあなたを歓迎します、日本の皆さんも、この結婚を歓迎する、でしょう」
皇太子はやおら手をあげると私の髪にさわった。そっと撫でられる。初対面の人に髪をさわられるなんて、驚いたが私はじっとしていた。皇太子の笑みが広がる。顔も近づいてきて、えっうそ、思っている間にと皇太子はもっと私に近づいた!
えっ……皇太子の口元が私のおでこにキス、えっ、うそ! うそうそ、うそっ!
私のおでこは皇太子にキスされてしまった。軽いキスで口元はすぐに離れて皇太子は私の様子を見ている。おでこにまだ口がつけられているような奇妙でむず痒い感覚がする。私は硬直したままだ。皇太子は今度は私の頬によせてそのまま頬ずりした。うそお、うそっ、うそっ。私、頬ずりされてしまったわ……。髭剃り跡がちくちく、くすぐったい。うそ、うそおっ。そしてそのまま口が、口があいて私の口が。
ここまできて私は思わず両手を出して皇太子をどんとつきとばしてしまった。はっとしたがもう遅かった。
空気がずーんという音をたてて、シャンデリアが落ちてくるかと思った。確実にその場が絶対零度以下になった……と思う。
もっとも胸板が厚い皇太子なので私ごときが突き飛ばしても痛くもかゆくもなかったとは思う。悪い人ではなく、決していたずらでもないことはようくわかった。
この皇太子はいい人だ。坂手大臣が誠実な人です、とほめたのもわかる、わかるよ。だけど、出会ってすぐいきなりキスはまずい、というかイヤだ。しかも私のファーストキス。それがお父さんはじめよくわからない皇太子側の人やイケメンのレイレイはじめSPの広本さんや外務大臣にさらされてしまった。 ファーストキスは二人きりで綺麗な夜景を見ながら肩をやさしく抱かれながら好きです、と言われながらうっとりするものだ。漫画やドラマの読みすぎと笑われてもいい。それが私の夢、初恋でのファーストキス。こんなのになっちゃった。想像と全く違う。どうしてくれる。ファーストキスが今日みたいな日に前触れなくされてうれしいはずがなかった。でも相手が外国の皇太子なのでさすがに面とむかって怒ることができない。そのかわりに私は涙が出てきたのでぐいっとこぶしを出して涙をふいた。なんだ、これ、私って小さな女の子みたい。でもイヤだ、こんなの。私はこぶしで涙をふくと皇太子をぐっとにらんだ。日本の女子高校生をなめんな、皇太子!
私の涙がすっとひいた。ファーストキスを奪われたことはもう取り返せないのだ。私は足をバレエの二番の足にして、つまり、つま先を外側にして踏ん張ったと思う。その状態で皇太子を睨んでやったのだ。
皇太子は私に突き飛ばされてとても驚いたようだった。池津さんが何かを皇太子に向かって言った。たぶんすみません、とかでも言ったのだろう、私は何も言ってないので勝手にあやまっているのだろうと思った。皇太子は落ち着いた様子でレイレイの方に向いてナントカナントカと言った。すると坂手大臣がナントカナントカと返した。池津さんがまだ何か言っているのでレイレイが手で制した。
そしてレイレイが私に向かって言った。
「いきなり、のキスでごめんなさいと、皇太子は、おっしゃって、マス」
私は言った。驚きが過ぎるとかえって冷静になれるのだ、これも私の己の発見だった。私は皇太子にむかってはっきりと言った。
「日本人の女の子は誰でもファーストキスに夢をみます、とてもがっかりしました」
池津さんがああっという小さな悲鳴をあげて早口でナントカナントカといった。私はもっと冷静になって池津さんを叱った。
「ちょっと池津さんいい加減にしてください。私の通訳はレイレイにまかせるから、あなたは勝手なことを言わないでください。私が言ってもいないことを勝手に私が言ったことにして勝手に通訳しないでください」
本当に大きな声でぴしっと言った。池津さんは顔を真っ赤にした。坂手大臣が池津さんに去れという風に手で合図された。彼女はうつむきながら部屋の奥に引き下がった。
私は勝ったと思った。
お父さんはおろおろとしている。坂手大臣はじっと皇太子の様子を見ている。まるで観察しているようだった。
やがて私は皇太子の方を向いてはっきりと言った。もう緊張はほぐれて、ほぐれすぎというか、ファーストキスを奪われた驚きと怒りが私を解放したのだ。私ははっきりと言った。
「私はまだ誰のお嫁さんにもなりません。だから皇太子妃も無理です。お付き合いもしません……メイデイドゥイフには行きません……でっでも、日本人としてはメイデイドゥイフと仲良くできたらうれしいです……あの、以上です」
レイレイの声がした。ナントカナントカナントカナントカ……ナントカナントカ。もう全然わからない。そんな状態なのに、意志の疎通自体ができないのにどうして私があなたの皇太子妃にならないといけないのだろう?
私は言った。
「お父さん、終わったから早く帰ろう」
お父さんは後ずさりして首をふった。池津さんは部屋の隅っこで両手をまるでお祈りするみたいに組んでイヤイヤしている。赤ちゃんですか、あなたは?
お父さんは口を開けて私を見ているし、でも私はもうどうでもよかった。さすがに坂手大臣は私を制して「お嬢さん、もうちょっとだけ我慢してね」と言った。あとは坂手大臣と皇太子との会話になった。二人は正味五分は話していただろうか、坂手大臣は流ちょうに話していた。国交がないのにメイデイドゥイフ語で皇太子と対等に話せるのはすごいと私は思う。
やがて大臣は「待たせたね、帰りましょう。あいさつだけはしましょう」と言うので私は皇太子に向かって「突き飛ばしてごめんなさい、気をつけてかえってください」とだけ言った。これで終わった。皇太子は二度と私には触れなかった。めぐみのめ、も言わなかった。日本人の女の子に突き飛ばされてさぞや幻滅しただろう。レイレイもお付きの人も平然としていたが、怒られなくてよかったと思った。自衛隊基地で無理やり帰国するレイレイの様子を思い返せば私もその場で銃殺されても仕方がなかったかもしれないけど、それはなかったのだ。
去り際にレイレイが何か言った。私が振り返るとレイレイが手を小さく振った。前面にいる皇太子は両手を背中に組んで直立している。もう笑顔ではなく私を真面目に真剣な顔でじっと見ていた。彼の心の中は何を思っているかまではわからない。でももう終わったのだ。恥をかかせたというならば、悪かったかも、でもファーストキスを奪われたのだからこのぐらい我慢して……ごめんなさいね……。
バイバイ……そうバイバイなのだ。
レイレイは最後まで私に対して親切で礼儀正しかった。いつの日かメイデイドゥイフとの国交がなされて行き来が自由になったら私はメイデイドゥイフに行って観光するかも。皇太子妃ではなく、ただの日本人観光客の女性として。
皇太子には無礼なことをしでかしてしまったけど、仕方がないことだ。相手側は私に何もしなかった。よかった。許されないことかもしれないが、私は許されたのだ。多分私が庶民すぎるということと、マスコミも知らないこと、そしてここはメイデイドゥイフではなく、日本だから。
去り際に皇太子は私に握手を求めたので私は握手を返した。大きくて暖かい手だった。皇太子は仲直りしたとばかり握手の手をなかなか離さないので、私から手を振り払った。レイレイは興味深い様子で私をじっと見ていた。大臣は皇太子を見ていた。
部屋を辞するとまたエレベーターを使って一階上のスイートルームの部屋に戻る。部屋には大山さん、田中さんや鈴木さんが待ち構えていた。ここで待機していたのだ。私を見るなり「お帰りなさい」と言った後は無言だった。坂手大臣が私の代わりに彼らの聞きたいことを言ってくれた。
「このお嬢さんは皇太子妃にならぬと、ちゃんと断りましたよ自分でね」
大山さんはずっこけたし、田中さん鈴木さんはがっかりした顔を隠さなかった。池津さんは絨毯の上にへたりこんでしまった。お父さんは天井の壁紙を真剣に眺めていた。
私はベッドのある小部屋に戻り、自分がもってきた小さなバッグを取り出した。やっと家に帰れると思うとうれしかった。帰る前に坂手大臣や大山さんたちにちゃんとお礼を言おう。
私はこれで終わりだと思ったがでも終わりではなかった。




