第七話、筆子さんの暴走
私は筆子さんと二人きりで長い話をした。一度レイレイが食事のことを聞いたようだが、筆子さんがまた追い払った。レイレイやダミアンの態度が不思議だった。この部屋に軍隊が突入してきても仕方がないと思う。今なお存命していると信じられ、生神とも崇められる太后の部屋に日本人二名が話をしているのに。
私が今までの話と知っていることを全て教えた。筆子さんは黙って聞いていた。私の話が終わっても長い間黙っていた。彼女のグレーのスーツにはシワ一つない。ローヒールもきれいに磨かれていて染み一つない。でも以前のような華やかさはない。亡きご主人の喪に服されているのだろう。ややあって筆子さんは私に話しかけた。
「めぐみさん。怒らないで聞いてくださるかしら」
「はい」
「まず、苦言から」
「苦言ってなんですか」
「忠告です」
「は、はい」
筆子さんは微笑を浮かべながら言う。この人の忠告なら何でも聞ける。
「私の推測に間違いがなければ、あなたはここに一年近くもいて、メイディドゥイフのことを理解しようとも言語を覚えようともしなかった。そうですね」
風向きが変わった。責めているように聞こえる。思いがけないセリフだ。私は声が上ずった。
「……だ、だって、早く日本に帰りたいし、そんなこと覚える必要もないと思ったのです」
筆子さんは首を振った。
「通常ならば太后に気に入られようと一生懸命言葉を覚えて話しかけたりはするでしょうが、聞く限りあなたからの太后に働きかけ皆無だったようね。しかも一緒に寝起きしながらの状態で」
「……」
「亡くなられたスタブロギナ・プラスコヴィヤ太后は気に入らぬ人間に対しては残忍でした。すぐにカッとなって殺したと聞いています。あなたが怖い思いも一度もしなかったのは、そういった怠惰とも思える性格とメイディドゥイフに対してなんら執着もなかったことが幸いしたのでしょう。つまり、めぐみさんは太后に気に入られていたのよ」
バカにされつつ褒められているのか。筆子さんはかべを指さした。ミラーになっている方のかべだ。そこには私と筆子さんが映っている。
「この鏡はなんですか」
「あれは、バレエレッスン用に用意してもらった分です。私は時々バーを使って足をひっかけて柔軟体操をしていました」
「壁の一部をミラーに……あなたや太后を見張るためのマジックミラーではないの」
「それは絶対にないと思います。だってあの人、独裁者ですよ。この国の。パソコンに向かって指一本動かしただけで人を殺しましたよ」
「まあ、では純粋にこのミラーはめぐみさんのためのものね。太后の好意でしょうね」
「それでもあの人は私を日本に返してくれなかった」
「めぐみさんは死んだことになっていますから」
私は筆子さんに改めて向き直った。
「あの、き、き、帰国。日本に帰れますよね、私は?」
文法がめちゃくちゃだが必死だ。ところが筆子さんは首を振った。
「いえ、私もまたあなた同様の目にあうでしょう。つまり今後は日本に二人とも帰れないということですよ」
「え、どうして」
「レイレイが快くあなたに会わせてくれた。それは好意ではなく、打算だからですよ」
「おっしゃっている意味がわかりません」
急に筆子さんが私の耳元に口を寄せてきた。目を閉じかけてうっとりしているような表情だ。私は不思議な気分になった。筆子さんは私と会って喜んでいるのではない。彼女の考えていることがわからない。私を帰国させてくれるように日本政府に働きかけてくれないのか。
「ね、めぐみさん。これもチャンスね。いろいろと頭に来ますのでこの国を奪っちゃいましょうか」
「えっ」
「しぃ……騒がないで。私はしばらくこの部屋で寝泊まりしますからおいおいと今後の話をしましょうね」
「あ、あの」
筆子さんは立ち上がった。
「向こう側にベッドがあるわ」
「あっそこはダメです。太后の死体が置いてあります」
「えっ」
「本当です。でもそのままじゃなくって、ええと、なんというのかな、くさらないようにしているの」
「長期保存、エンバーミングですね」
「そうそう、それです。筆子さん、だからそっちに行くと死体があるの」
「ほほほ、構わない。お邪魔するわ」
筆子さん、大丈夫かしら。ミイラ取りがミイラになったりは……さすがに……ないわよね。まさかね。ところが筆子さんが確認に行く。死体だっていうのに何やらカーテンの奥でごそごそしている。こんなことをしているのにもかかわらず、レイレイもダミアンも来ない。どうなっているのだろう。
結論から言うと筆子さんもまた私同様に軟禁されたことになるのだろうか。しかし私は普通の高校生だが筆子さんは違う。元皇室の人だ。筆子さんの姿が見えなくなると絶対に大きなニュースになる。
その日の夕食をレイレイが運んできた。筆子さんは平気で食べる。いや、かなり上品な動作だ。昔のお姫様ってあわてず騒がずこうして動いていたのだなと思うぐらいだ。
それにしても私は筆子さんという人と再会するとは思わなかった。筆子さんが近くにいると思うだけですごく安心する。この異常な状況に筆子さんがまさか入り込んでくるとは思わなかった。それも私とは違って自ら来た。おつきも誰もなく、単身で。そのせいかレイレイたちの扱いも違う。
筆子さんはレイレイに「明日の朝は和食にしてね」 という。レイレイはかしこまって頭を下げる。信じられない。私が筆子さんに気遣いつつ「どうなってるの」 と言っても「存じません」 とだけいう。筆子さんは語学が堪能らしく、軟禁されたといってもメイディドゥイフ語で会話をする。食後に様子を見に来たらしいダミアンを相手に会話する。何かジョークを飛ばしたらしくダミアンをひどく笑わせたときはびっくりした。筆子さんはそんなにも外交的に有能な人なのに、安穏とここにいるつもりだろうか。
やがて筆子さんは当然のように「そろそろベビーを見せて」 という注文をした。日本語だ。私は息をのんだ。この私でさえ、二度ほどしか見せてもらえないのに。案の定、レイレイは拒む。筆子さんは肩をすくめただけだ。私はおろおろするだけだ。
「無理よ。私だって見せてくれないのよ」
「私も頼んだのは三回目よ」
「あ、あの、筆子さん。あの、その、大丈夫なのですか」
「ええ、心配しないで」
「やはりカゲで坂手大臣が動いてくれるということですか」
「まさか。そんなことをしたら間違いなく国際問題になりますよ。めぐみさん、あなた、今の状況を分かっているようでわかってない。こちらが被害者ですからね。もっとしっかりしなさいよ」
「あの、私、帰国できますか」
筆子さんは上品に食後の紅茶をすすったかと思うと優雅な仕草でソーサーに戻した。ガレットという分厚いバタークッキーを手にとって二つに割る。
「めぐみさん、あなたはもう普通の女の子には戻れないわ。一度有名になった人は二度と匿名に戻れない。このメイディドゥイフ王国で暮らす気はないの」
「ないわ」
「元の生活には戻れませんよ」
「戻るわ」
筆子さんもついでに一緒に軟禁されたはずではないのか。これは私の勘違いなのか。筆子さんはガレットの味を気に入ったらしく二枚目を取る。それから私を見る。お茶会でもしているつもりかしら。筆子さんは微笑みを崩さない。それでいていろいろな重大な話をする。
「めぐみさん、もう一度言わせてね。あなたはこの国の言葉も歴史も地理もわかってないし、第一覚えようともしなかった。だからこそ太后と同居して命拾いをした。でも、太后が亡くなったばかりの今がチャンスなのよ。国内外には内緒でも、中枢の政局が混乱しているから。私の忠告を聞いてくれたら有り難いけど」
「私はお父さんのいるところに戻りたいだけ。この国を奪いたいなら筆子さんが一人でやればいいのよ。私は帰るから」
筆子さんはふっと笑って紅茶にミルクを入れた。メイディドゥイフのミルクはおいしい。それはいいが、どうして話がこうなるのだろう。筆子さんはグレンも見せてもらえない。帰国できないといいつつ、優雅にお茶を楽しみながらこの国を奪いましょうよと来た。もしかして頭がおかしくなっているのか。
私のいうことを見透かすように筆子さんがいたずらぽい目で片手で唇を抑える。
「メイディドゥイフの紅茶は本当においしゅうございますね」
「筆子さんったら」
「ふふ、めぐみさん、私には切り札があるの。坂手大臣も知らぬ切り札がね」
「どういうことですか」
「その前におじいさまの授業を思い出して」
「え? 袋小路先生のですか」
「お妃教育の時に、一緒に同席したでしょ、思い出せるかしら」
面食らったが思い出した。
「確か源氏物語ですね、あ、筆子さんは確か六条の歌が好きだと……えっと、どんな歌だっけ」
「なげきわび、そらにみだるるわがたまを むすびとどめよ したがいのつま」
「そうだった。その時に袋小路先生が心配そうな顔をしていたっけ」
「その通りよ。実はあのころから夫の春美野とは仲が悪くなっていて離婚を考えていたのよ」
どう反応したらいいのだろう。話の先が見えない。筆子さんはさらに言った。
「源氏物語の話を思い出して。あなたはうまくやれば、帝の立場にだってなれたのに」
「源氏を産んだお母さん、桐壺の更衣ですよね。帝に召されて他の女性に嫉妬されて意地悪されてかわいそうだった」
「違いますよ。帝の立場ですよ」
「どういう意味かわかりません」
筆子さんはナプキンでくちびるを抑える。
「あなたが帝の立場になれば、この部屋に男性をいくらでも呼べるのよ。順番にね。気の向くままに。その気概があればいいのに」
意味がわからなかった。でも筆子さんは私の顔を黙って眺めている。だんだんとほおが自動的に赤くなってくるのを感じる。
「あっ」
それはレイレイやダミアン、ヨハンたちを召使としてこの部屋に順番に招き入れて寝ろということか。裸になってあれやこれや……まさか。筆子さんは再度肩をすくめた。
「やっと意味が通じたようね。でも、あなたには無理かな」
「無理ですよ、そんなこと、したことありません。第一私は帝の立場じゃなく、拉致されてきたのです」
「そうね、でもやり方によってはと思うのよ」
「私は、そういうことをしないまま、妊娠と出産を経験しました。それも寝ている間に。信じられないでしょ。太后の命令だけで。到底許せないです」
レイレイが入ってきた。筆子さんはレイレイに指先一つでワインを開けさせた。こんなメイディドゥイフにとって危険極まりない話をしているのに、レイレイは無言だ。
なんというかハーレムの世界で、夜に呼ばれる話にレイレイの名前も出たのに平気でいる。わけがわからない。筆子さんの意志もわからない。筆子さんは私を見据えて話す」
「私があなたなら源氏物語の通りのことをするわ。それも桐壺の更衣ではなく、帝の立場になる。それなのに、めぐみさんったら、本当に欲がないのね。だからあのスタブロギナ・プラスコヴィヤ太后に殺されなかったのね。私が女帝なれば有能な男性を、それも毎晩違う男性に来させて相手させるわ」
ワインのせいだろうか、筆子さんは顔に似合わず、すごいことを言いだす。
「あの、ちょっと、やめましょうよ。恥ずかしいわ」
「スタブロギナ・プラスコヴィヤ太后だって同じことをしていたはずよ」
「筆子さん、あのね。あの人のハダカをお風呂で見ましたけど、拷問の傷だらけでそんなこと一度もしなかったはずよ」
筆子さんは目を丸くした。私は深く頷く。もしかして話が余計にややこしくなっている? 筆子さん、本当にだいじょうぶ? 私は説明する。
「あの~、結婚式のあと、坂手大臣のお土産で日本食が来ました。温泉もどーんと来たの。それで一緒にお風呂に入りました」
筆子さん、まだ驚いている。
「一緒にってあの太后と二人きりで、ですか」
「もちろん」
「まあ、そうなの……一緒に、ねえ……」
日本語で話をできる人が来てくれたのはうれしいけど、筆子さん、ほんとうにだいじょうぶかしら。
「傷だらけで、かわいそうでしたよ」
「ふーん……あなたにはそれを見せたのね」
「はい」
「どういう傷か聞いた」
「いえ、ろくに話もしてません」
「まあ」
「でも温泉はわりと楽しかったですよ。あの人も悪い人じゃないって思えたし。あのさ、筆子さん。私、日本に帰ったら本物の温泉に入りに行くわ。それから回るお寿司を食べに行くの。もう決めているの。ここにはいないからね」
筆子さんは私の顔をまじまじと見つめたままだ。理玖が私の刺繍に気づいてくれたのは奇跡に近い。だから理玖には感謝する。でもこれからどうなるのだろうか。筆子さんは背筋を再度伸ばした。多分最大限に。私も緊張して背筋が伸びる。
「めぐみさん」
「はい」
「今後のためにも、うかがいたいことが若干ございます」
「は、はい」
「聞いてもいいですか」
「……はい」