トライアングル
とある高校。
広い体育館は、バレーボール、バスケットボールなどの室内球技の部活動の練習が行われ、その体育館に隣接した、一回り小さな体育館がある。
館内に一足踏み入れると、轟音のような生徒達の気合で溢れていた。
それもそのはず。この体育館は剣道部、柔道部、そして空手部が使用しているからだった。
館内の隅に位置する畳敷きのスペース。
そこに二人の男子が対峙していた。
両者共に白い胴着をまとい、帯の色は互いに白だ。
二人は腰を十分に落し、拳を構えている。
空手特有の後屈といわれる構えだ。
間合いは遠い遠距離。
すると、突如黒髪の右足が跳ねる。
上段回し蹴り。
「せいやぁぁ!」
上段回し蹴りはガードした茶パツの両手を叩く。
ずしりと重い手応え。
体勢が崩れた――すかさず茶パツが軸足を狙う。
下段回し蹴りだ。
上段蹴りの後の隙を狙いすます。
しかし、黒髪の右足はすでに床を蹴っていた。
パシンと乾いた音。
茶パツの下段回し蹴りは、あっさりとカットされる。
黒髪の左足が床から跳ねた。
鞭のようにしなやかな上段回し蹴り。
「せいやぁぁ!」
気合が弾けた。
左足が側頭部を打ち抜いた。
ずしりと重い感覚が左甲に突き抜けた。
「――ぐっ!?」
茶パツの口からうめき声が漏れる。
白目を向いて、茶パツは膝から崩れ落ちた。
黒髪の生徒は床に倒れ伏す茶パツに向かって構え、残心をとった。
「あ、やべぇ! モロに入っちまった!」
黒髪の生徒は慌てて残心を解き、茶パツの生徒に駆け寄った。
「おい、しっかりしろ! 武司!」
ぺしぺしと茶パツの頬を平手で叩く。
「――あ、翔――か」
「わりぃ、モロに入っちまった」
武司と呼ばれた茶パツの生徒は、暫し視線を漂わせ、記憶を辿るように口を開いた。
「そうか、試合を想定した組手の途中か。お前のハイ(キック)か?」
翔は小さく頷き、そうだと答える。
「やっぱりお前のハイは見えねぇ。受けた足で蹴り上げるなんて一体――」
「ムエタイだ――もっとも見よう見まねだがな」
翔は悪戯っぽく笑いながら、武司に右手を差し出した。
全くこいつは化けもんだ――全国大会で期待がかかっている事はまんざら嘘ではないと思いながら、武司は差し出された手を掴み、体を起こした。
その時だった。
場違いなほど脳天気な声が館内に響き渡った。
「せんぱーい! お疲れ様ぁぁぁ!」
一人の女子生徒が翔に駆け寄ってきた。
「はい、これタオル。琴美特製スポーツドリンクもあるよ!」
琴美は翔にスポーツドリンクを手渡すと、タオルで汗を拭き始めた。
「お、おい、琴美――」
「お礼には及びませんよ、先輩! まねーじゃの仕事ですから」
うらやましそうに指をくわえる武司を尻目に、翔は額を押さえた。
うちの部にマネージャーなんていねぇし――内心で呆れ果てる。
極度のお節介なのか、空手が好きなのかわからいが、気がつけば彼女はマネージャーを勝手に名乗り、空手部に居坐っていたのだ。
やかましいほど絡んでくる琴美に、翔は半ばうんざりしていた。
しかし、面と向かって迷惑だなんて言えない翔は、やりきれない気持ちをごまかすように、スポーツドリンクに口をつけた。
隣では剣道部が激しく竹刀を打ち合っている。
翔は一人の女子剣道部員を見つめていた。
由佳――翔が思いを寄せる生徒だ。
稽古が終わったのか、その生徒は床に正座し、おもむろに面を外した。
少女の手拭いの巻かれた額からは大粒の汗が滴り、体育館の照明がそれをきらきらと輝かせていた。
綺麗だ――翔は正直そう思った。
「せんぱぁぁい? どこみてるんですか?」
「今日の稽古は終わりだ」
言い捨てるようにスポーツドリンクを琴美に預け、翔はロッカールームに向かった。
「あん、もう、せんぱいったら――」
今日こそ――制服に着替えた翔は体育館出口でうろうろとしていた。
空手地区大会を通過したら、由香に告白すると心に決めていたのだ。
しかし、どうもふんぎりがつかない。
時間だけが無常にも過ぎ去っていく。
心臓が高鳴り、嫌がおうにも胸が焼けるように熱くなった。
このチャンスを逃したらもう俺はだめだ――恥かしさのあまり、今にもその場から離れたい衝動を必至に抑え込む。
と、そのときだった。
「あら、高槻くん?」
「あ、は!? 由佳!?」
声をかけてきたのは告白の相手、由香だった。
といっても、告白は地区大会を通過できてから。
こんど開催される地区大会に由香に応援にきてもらい、自分が優勝したところで衝撃的な愛の告白。
これが翔の思い描くビジョンだった。
必ず成功する――そう自分に言い聞かせるも、いざ本人を目の前にするとなかなか言葉がでない。
由佳はブレザーの制服に着替えを済ませ、帰宅する様子だった。
翔のいつもと違うそわそわした様子に、由香は微笑しながら首を傾げる。
長く美しい黒髪が肩をさらりと流れた。
ひとつひとつの仕草に、翔は心奪われながら、思い切って口を開く。
「あ、あのさ、ちょっと付き合ってくれるか? は、話があるんだ」
「うん、いいけど?」
そんなことを言われるとは予想していなかったのか、由香はきょとんとした様子で首を縦にふった。
体育館の裏。
意を決して翔が切り出した。
「あのさ、今月空手の地区大会があるよな」
「うん」
翔は大きく深呼吸をする。
「お、応援にきてくれるか? もし、地区大会通ったら伝えたいことがある」
「え!?」
由佳は狼狽しきった表情で視線を虚空に漂わせていた。
そして、一拍の後、由香ははにかんだ様子で頷いてみせる。
「わかった、翔くんの応援にいくよ」
由香はいつも自分のことを高槻と呼んでいるのに、このときは「翔」と呼んだことにはっと気がつく。
気を許せばにやけてしまいそうな表情を必至にしまいこむ。
冷静だ、クールを装え――そう自分に言い聞かせる。
「マジ? 俺、めっちゃがんばるぜ」
クールどころか、ぎこちなさ満載で翔は大会に懸ける決意を表明した。
「っしゃぁぁ!」
翔はガッツポーズをとった。
往来では何事かと道行く人々が冷ややかな視線を向ける。
帰宅途中とはいえ、喜びが抑えられない翔は、人の視線など眼中にはなかった。
あのあと、お互いにメールアドレスを交換した。
準備は整った。
これで、地区大会を勝ち、全国大会に由佳を連れていくことが叶う。
それも彼女としてだ。
全国制覇を由佳にプレゼントできる。
膨れ上がる妄想と、幸福の絶頂に、翔の顔からは笑みが溢れいていた。
地区大会当日。
翔は次々と勝ち進んでいった。
しかし、一つ気になることがあった。
由佳の姿が見えない――会場の隅で目立たないように観戦しているのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、試合に集中する。
向かえた決勝戦。
相手は関東でも強豪といわれる極心高校だ。
「互いに礼!」
翔と、対戦相手が頭を垂れる。
「構え!」
始まった。
重心を真下に落した試合の構えか――翔は距離を取り、手を開き円心の構えをとった。
相手から仕掛けてくることは明白だった。
ガードの範囲が広い構えで様子を見るのが得策だと、翔は瞬時に判断する。
間もなく翔の予想通り相手は右足を大きく踏み込んだ。
遠距離からの下段回し蹴り。
翔は左足を退く。
右足を上げた。
左の下段蹴りを受け止める。
脛にはレガースが装着されているとはいえ、鍛え抜かれた蹴りの衝撃が右足を蝕む。
やはりなかなかの威力だ――翔は唇を噛んだ。
まともにもらっていたら一撃で勝敗が決してしまうだろう。
しかし、俺は負けるわけにはいかねぇ――相手の挙動を睨み据える。
そう、この試合には翔にとって重大な意義があるのだ。
翔の眼光の鋭さが増す。
一挙手一踏足も見逃さないと思われるほどに。
不意に相手が動いた。
翔の眼光はそれを見逃さない。
何が来るか容易に予想できた。
左の正拳突き。
それを右手で払うが、心なし手応えが薄い。
フェイク!? いや――思うと同時、右足を上げる。
布を叩く乾いた音。
下段回し蹴りだった。
翔は右足で下段回し蹴りをカットした。
相手が狙っていたのは正拳突きからローのコンビネーションだった。
かなり体重を乗せたのだろう。ガードしたにも関わらず、右足がジンジンとしびれた。
しかし、翔は内心でほくそ笑む。
重い蹴りは技の戻しが極端に遅れる――右足が跳ね上がる。
ムエタイ式の上段回し蹴り。
視界の外から左こめかみを捉えた。
由佳、いくぜ――渾身の力と、思いをその足に乗せる。
「せぇぇぇいやぁぁぁぁ!」
そのとき、試合を取り仕切る主審を始め、その場に居合わせた者がことごとく驚きで声を失った。
会場の近くの公園。そこの噴水にきて――由佳からのメールだった。
ジャージに着替えを済ませ、翔は公園に向かって走っていた。
試合は文句無しの勝利だった。
しかし、果たして由佳はその時の試合を見てくれていただろうか。
一抹の不安が脳裏を過る。
暫く走ると、大きな噴水が見えてきた。
翔の心臓が飛び出そうなほど鼓動が増した。
手のひらにはじわりと汗がにじんできた。
大きな大理石の噴水。目印にするにはうってつけだ。
ここで間違いないだろうと、翔は由佳の姿を探す。
そこで、ある女性の姿が翔の目に止まった。
後ろ姿で顔まではわからないが、大きな麦わら帽子から覗く栗色の髪。
もしや!
いまにも心臓が飛び出そうな思いを必至に抑え、翔は女性に声をかけた。
「由佳?」
「せんぱい!」
「!?」
なぜ琴美がここに!?
こいつ、なんで俺の邪魔ばかりしやがるんだ!
せっかく由佳に告るはずが、なんでお前なんだ!
困惑は抑えがたき怒りへと変化し、その矛先は琴美へと向けられた。
「なんでお前がここにいるんだよぉぉぉ! うぜぇんだ! とっとと失せろ! 俺の目の前に二度と現れるんじゃねぇぇぇ!」
その声は遥か遠くまでこだまし、暫く余韻を残しながら消えていった。
二人の間に時が止まったかのような静寂が訪れた。
琴美は大きく目を見開いていたが、翔の言葉を理解したのか、ボロボロと涙をこぼした。
「ご、ごめんなさい――」
言い終えぬうちに琴美は背を向け、走り出した。
ふざけんな!
まるで汚らわしい物を一瞥するかのように吐き捨てると、翔は噴水の近くのベンチに腰を降ろした。
まったく、今日はなんて日だ――内心で愚痴っているとポケットの中の携帯が振動した。
「こんな時に誰だよ」
どうせ武司だろうとタカをくくってメールを開き、翔は唖然とした。
メールの送信者は由佳だった。
試合見たよ。おめでとう。
携帯のバッテリーがなくなって、簡易充電器を買いに行っていたら道に迷っちゃって。
あともう少しで着くから。
丁度会場で一緒になった琴美ちゃんに、充電器買いに行くから遅くなるかもって伝言頼んだんだけど聞いた?
メッセージを確認した翔は携帯を思わず落としそうになるほど狼狽した。
なにぃ!?
俺は、俺はなんてことを!
琴美――まさかあいつ、ショックで死ぬなんて考えたりしないよな。
それくらいの勢いで怒鳴り散らしてしまっていた。
「琴美!」
翔はすでに姿の見えなくなった琴美の跡を追い、走り出した。
「琴美! 琴美ぃぃぃ!」
街の商店街で声を張り上げた。
すでに声が枯れてかすれきっていた。
翔はそれでも構わずひたすら琴美の名前を呼び続けた。
「琴――美――」
かすれた声の変わりに、涙が頬を伝った。
今まですまなかった――うっとうしいと思っていた琴美。
いつもふわふわなタオル。
心地よく冷えたスポーツドリンク。
全ては自分の為に――どんなにそっけない態度でいても、俺にお節介を焼いていた。
ほんと嬉しそうに。
もう二度と琴美に会えないかもしれない。
あの笑顔がもう見れないかもしれない。
翔は今になって後悔していた。
もっと優しくしてやればよかったと。
「琴美――」
狂おしいほどに胸が締め付けられ、視界が涙で歪んでいた。
どれだけ走り回っただろう。
数時間はゆうに経過している。
膝はすでに言うことを聞かないほどガクガクになり、体は鉛でも担いでいるかのように重い。
それでも翔は走り続けた。
これだけ捜しても見つからないなんて、もしや――諦めがかった思考を必死に振り払い、声を上げた。
「琴――美――」
すると憔悴しきった翔の声に答えるかのように、商店街の路地裏からかすかな物音が聞こえた。
翔はすかさず音の元へ駆けだした。
そこは建物に挟まれた狭い通路だった。
隠されたようにごみ箱が並んだ狭い路地だ。
ごみ箱を次々どけていくと、小さな背中が現れた。
見慣れた栗色のボブの髪。
「琴美!?」
「せん――ぱい?」
驚き、振り向いた琴美を翔は抱きしめた。
「本当にごめんな――ごめんな」
安堵の気持ちは涙となり、込み上げる思いは翔の胸を熱く焦がした。
もう、どこにも行くなよ――琴美のことがこんなにいとおしく思う。
「い、いいんですよ、せんぱい」
琴美の頬から涙が伝い、翔のシャツを濡らした。
俺の愛しい琴美――見せてやるよ。
お前に――全国大会を。
その時は俺と――翔は流れる琴美の涙を指で拭い、優しく唇を重ねた。
――END――




