第1話 怪奇事件発生
私は、桝井小次郎。職業は、検察官。悪く言えば、ノンキャリア公務員。横浜地方検察庁に所属している。まだ実務に着いて、半年の若輩者だ。
なんの因果か、そんな年端もない私に、今日は特別、宇賀という法務大臣からのお呼びがかかった。宇賀は、死刑制度万歳の、死刑執行回数歴代ナンバーワンという非常に危ない人間である。
そんな法務大臣様が、このような未熟な私をわざわざ召喚した理由?
そんなこと、私が聞きたいくらいだ。
まず間違いなく、昇進ではない。彼に気に入られるようなことを何一つした覚えなどないし、刑事司法に対する国民の信頼を著しく害するようなミスをした覚えもない。
だが、少なくとも嫌な予感はしている。こんな若輩者の下っ端を、法務省のトップに君臨する法務大臣様がわざわざお呼び立てするなど、異例中の異例。前代未聞の出来事なのだから。吉報が待っているなんてありえない。そんなに人生は甘くできていない。何か、やんごとなき理由が控えているに違いない。
桝井は、ただそんなことをぐるぐると思案しながら、非常に重い足取りで検察庁の廊下を歩き、応接用に指定された部屋へと向かっていた。
(二)
「失礼いたします」
桝井は、不安を表面化させないよう、クールな面を保ちながら、静かに扉を開いた。
「おお、来てくれたかね、桝井君」
宇賀法務大臣は、とてもフレンドリーにアメリカンスタイルの歓迎をしてくれた。つまり、両手を大きく広げて、満面の笑みで来客である桝井を迎え入れ、軽い抱擁をしたのだ。そのため、いささか対応に困った桝井は、無表情で受身的にそれを喰らうだけであった。宇賀は、最上級の上司であるし、今回で会うのも2度目であったから、相手と対等に同じあいさつをするのは、さすがに気が引けるのだ。しかも、1度目は、桝井が入庁の際の正式な場所であり、私的に宇賀と会うのはほぼ初めてと言っていい。
「ささ、早速、かけてくれたまえ」
宇賀はそういって、桝井に着席を促した。彼の指し示す椅子は、とてもではないが下っ端の桝井が座るには畏れ多いほど、ふかふかしたソファーであった。しかも、法務大臣よりも先にそんな豪勢な椅子に座れるのだ。いったい、何様のつもりであろうか。そのため、桝井は、変な罪悪感に苛まれながら、おそるおそるそのソファーに腰を落とした。
(何か、企んでおられるな・・・)
桝井は、自分の前にあるテーブルを見ると、そこにはとても良い香りのするハーブティと、皇族でもなければ一生口にすることのないような茶菓子が用意されていた。公務員として贈収賄の違法性を徹底的に叩き込まれる桝井には、それらが賄賂の見返りのように思えてならなかった。
「さて、君をここに呼んだのは他でもない」
そういつつ、宇賀も、桝井に対面するように腰掛ける。
「最近、起こっている妙な殺傷事件についてだ」
「妙な殺傷事件、ですか?」
桝井は、茶菓子に手をつけることもせず、早速、宇賀の話に食いついた。
「横浜にいる君には、耳慣れないかもしれないが、東京ではこれが最近、話題になっていてな・・・」
宇賀は、自分用に煎れておいたハーブティをすすった。
「絶対に有罪にできない事件、とでも言っておこうか」
「絶対に有罪にできない?いったい、どういうことです」
「うむ。なんでも、担当検事がことごとく、犯行と結果の因果関係の立証に失敗し、裁判官も無罪とせざるをえない事件が増えてきているのだ。しかも、東京地検で第一線で働くベテランたちが担当したにもかかわらず・・・なのだ」
「そんな馬鹿な・・・」
「そう、馬鹿な話だろう。当然、彼らが無罪判決を出すわけがない。しかも、立証の容易な殺傷事件でだ。仮に、無罪のおそれがあるなら、彼らはそもそも起訴なんてしない」
「なら、なぜ先輩方が、そんなミスをなされるのです」
「確かに、その事件の被告人たちは捜査段階で、決まって犯行を自白している。だから、完全に調書も作られているし、犯行を100パーセント立証可能なほどの証拠も揃う。これを起訴しない手はない」
「なら、無罪などありえないはずでは?」
宇賀は、桝井の突っかかりに少し圧倒され、気分を落ち着かせるべく、タバコを胸ポケットから取り出し、火をつけた。
「ところがな、彼らは公判になると、一転して無罪の主張を始めて、とんでもない証拠をもってくるのだよ」
「とんでもない証拠・・・」
「百聞は一見にしかずだ、見たまえ」
宇賀はそういうと、部屋に設置されたスクリーンになにやら映像を映し出す。
「これは、その事件の被告人が証拠として提出した映像ディスク。むろん、偽造・変造の有無も確認され、真正立証はなされている。ちなみに被告人による立証趣旨は、犯行と死亡結果との因果関係不存在だ」
そして、間もなく同ディスク内のデータが映像化され、スクリーンに映し出される。
そこには、被告人とされる20台の男と、被害者とされる10台後半の女性が写されていた。場所は、どこかの駅前の雑踏。時間は昼間であり、背景部分には人も多く、とてもでないが密航的になされる殺人の現場とは思えない。他方、両者の位置関係を見ると、およそ4メートルほど距離を離れていて、銃砲を使用しない限り、被害者を殺害することは不可能である。
ところが被告人の男は、そんな場所で刃渡り15センチメートルほどのサバイバルナイフを取り出して、4メートル先に被害者がいるにもかかわらず、彼女を一突きにするモーションをした。
そして、そのあと、男は何事もなかったかのように、ナイフを仕舞って、すたすたとその場を離れていった。それから数秒ほどしたときである。雑踏の音よりもはるかにうるさい悲鳴が聞こえだして、場は騒然とし始めた。よく見れば、被害女性の胸部から大量の血が噴出して、容赦なく道ゆく通行人たちを汚し、驚愕させるのだ。悲鳴は、突然に異様な光景を目の当たりにした通行人によるものだろう。
そして、ある程度、血を出し切ると、女性はその場に倒れ、絶命したのであった。
「どうかね?」
宇賀は、桝井に対して意見を求めつつ、スクリーンの映像を消した。
「これが、法廷に?」
「そう。あとこれが、捜査段階で作成された、被告人の自白調書だ。読んでわかるとおり、被告人の供述と、犯行時に被告人がとった行動は一致しているだろう。普通なら、これでほぼ有罪確定なのだ」
桝井は非常に良くできた調書を手に取り、事前に宇賀がハイライトしてくれた部分にざっと目を通す。するとその調書には、『被告人は、12月22日午後14時30分頃、東京都新宿区新宿駅東口前の路上において、被害者楠木聖華に対し、殺意をもって刃渡り15センチメートルのサバイバルナイフでその胸部を一突きにし、心臓部裂傷の重傷を負わせ、出血多量により失血死させた』との記載があり、つい先ほど桝井が見た被告人の犯行と一致していた。
「この被告人の自白をもとに、被害者の傷を調べれば、ほぼ間違いなく被告人の行為によって、被害者が殺害されたとわかるだろう。これほど証拠が挙がっているのに、君は彼を不起訴とするかね?」
「いえ・・・。間違いなく起訴します」
「そうだ。出世願望のある健全な検察官ならば、誰だってそうする。だが、法廷であんな映像を見せられてはな。みな、苦虫を噛み砕いても噛み砕ききれない思いであったであろう」
映像のように、被告人の行為に人を殺害するだけの危険性があるにしても、あれで人間が殺せるはずもない。完全なる不能犯だ。被告人は丑の刻参りをしているのと何ら変わらない。因果関係が存在しないのだから。
いくら、被告人の犯行と結果の発生を証明できたとしても、このふたつを結びつけるための因果関係に合理的な疑問をはさませてしまったのでは、裁判所としては無罪とするしかない。担当検事は、非常に簡単な事件であると考えていただけに、無罪判決を耳にしたときは、身を投げたくなるほどの思いを味わったはずである。
「・・・それで、大臣。この映像を私に見せた理由を、そろそろお聞かせ願えませんでしょうか」
桝井は、全てを理解し、手に持っていた調書をテーブルに戻すと、宇賀の方を見た。
「絶対に有罪にできない事件。これがどれほど、東京地検の検事たちのプライドを傷つけたのか、同じ検事である桝井君にはよくわかるはずだ」
「ええ、痛いほどわかります」
「であるから、東京地検には、この手の事件を引き受ける検事がだれひとりとしていないのだよ。だが、反面において、被害者が存在していることは事実。法務省としては、この事件を摘発しないわけにはいかない」
「しかし、無罪とするわけにもいかない・・・」
桝井は、宇賀に代わって、彼の最も関心ある事実を言う。殺人という最も重大な犯罪が起こっている以上、これを起訴しないのは国民の刑事司法に対する信頼を著しく損なうものであり、事実上、担当の検察官たちは起訴を強制されている。しかし、この事件の場合には起訴をしたらしたで、無罪判決が大量生産され、長年において維持してきた99パーセント以上を誇る有罪率が急落し、精密司法の検察庁として長年にわたり築いてきたものが失われてしまう。まさに検察庁、権威失墜である。そうすると、お役所とは、本当に数字を気にするところなので、大臣はこれを最も懸念しているのである。
「そこで、新米の中でも特に優秀な君なら引き受けてくれると、こうしてお願いに参ったのだ」
そういって、宇賀は身を乗り出して、桝井の手をとって、強く握ったのだ。
「私が・・ですか?」
やはり、はじめ自分にくすぶっていた嫌な予感は的中したようだ。まさか、上司たちの尻拭いをさせられる羽目になるとは・・・。完全に貧乏くじを引かされたに違いない。
「・・・・」
とはいえ、法務大臣直々の請託だ。これを断ろうものなら、一生、最高検察庁の椅子はおろか、高等検察庁に近づくことすらできないだろう。早々に検事を辞め、やくざたちの顧問弁護士にでもなるしかない。まさに生きるか死ぬか。オール・オア・ナッシングの選択であった。
「わかりました。喜んでお引受けしましょう」
ということで、桝井は宇賀の申し入れを断れず、快く引き受ける表情を無理矢理に作った。自分は、性格上、弁護士なんて全く向いていないし、この仕事を続けていきたかったからだ。
「本当かね、桝井君」
宇賀は、握ったままの桝井の手を上下にぶんぶん振った。そのうえで、馴れ馴れしく抱きついてきて、ほっぺにチューすらされそうになった。それを桝井は、半ば放心状態で、甘んじて受け入れるしかなかった。
そう、このとき彼は、人生終わったと思わずにはいられなかったのだ。
(三)
その後、桝井は、何か宇賀から重要な事項の説明を受けていたが、放心状態の桝井には馬の耳に念仏であり、全く頭の中に残らなかった。ただ彼の手元には、疫病神のような事件関係書類を押し付けられ、それを手に持ったままフラフラと夢遊病のように自分の部屋に帰ってきた。
「あ、検事。お帰りなさい」
桝井が、部屋に戻ると、検察事務官であり、彼のパートナーである能美玲子がうれしそうな表情で上司を迎え入れたのだ。彼女が、桝井とは対照的にうれしそうな表情をしているのは、法務大臣からの召喚が大変名誉なものであると勘違いしているからであろう。まあ、その辺の見解の相違である。
「検事。どうでした?いったい、大臣は検事になんておっしゃっていたんですか」
能美は、桝井の絶望的な表情を見てもなお、その笑顔を崩すことはなかった。どうやら彼女の頭には、おそらく桝井の昇進だとか、それに準ずる内容しかないらしい。
「ははは、すごい仕事を頼まれたんですよ」
とはいえ、そんな彼女の希望を打ち砕くようなことを言うのは野暮というもの。そこで、表情の粉飾が特異な桝井は、抽象的な表現を用いて、今、彼が作りうる最大の笑顔を見せたのであった。
「ええ?本当ですか、検事?検事もとうとう、大臣に認められるようになったんですね」
「ええ、そのようです」
能美は、桝井の気も知らないで、彼を祝福してくれた。本当はご愁傷様と言われるべきであるだけに、彼女に対して嘘をついているようで気が引けたが、まあ嘘は言っていないはずだと、その祝福に甘えるのだった。
「検事は、やっぱりさすがだなぁ。なんだか、私までうれしくなってきちゃった」
「すごい仕事ならば、それだけ貴女の負担も増えるんですよ、能美さん」
「え、でも、その方が断然、やる気でるじゃないですか。なんか、すごく楽しみぃ。だから、どんどん私のことを使ってください」
そういう能美の目には、闘志が灯っていて、やる気満々のようであった。
「貴女には、いつも迷惑をかけますね。しかし・・・ありがとう」
桝井は、内心、彼女の陽気に元気付けられ、少しだけ気が楽になった気がした。だから、今回は珍しく、作り物でない笑顔を彼女に対して向けた。
「やだ、検事ったら。そんな顔しないでください」
ところが、その珍しい表情を見た能美は、突然、顔を赤くする。そして桝井は、意味もなく、彼女に強くぶたれるのであった。
このように、能美玲子は、桝井小次郎と正反対の人間なのであるが、桝井にとっては数少ない、信頼できるパートナーであった。たしかに、あまり有能とはいえないし、全然論理的でないし、うるさいし、しかもこれで年上というのであるから、絶対にパートナーとして成り立つ余地はないとさえ思っていた。しかし、自分で言うのもなんだが、有能で、論理的で、うるさくなく、かつ、年下の人間は、自分ひとりだけいれば十分だ。彼女は彼女ができる仕事をして、自分の足りない部分を補ってくれればいい。だから、今となっては、別の人などありえない。
「ところで、検事。大きな事件ってなんですか?」
桝井が、自分の机に戻ると、能美はその机の上に尻をかけた。すると、エアコンの風に乗って、彼女の香水の匂いが桝井の鼻をくすぐった。
「東京地検が手こずっているという、絶対に有罪にできない事件だそうです。あ、事件の概要はこの書類を見てください」
そういって、桝井は大臣に押し付けられた書類を能美に渡した。
「あ、これ私も知っていますよ。最近、ニュースで話題になっているじゃないですか」
「あれ、そうだったんですか」
「最近の司法関係のニュースでは、これが一番の関心ごとですよ。検事、いい加減にテレビくらい見てください」
「面目ありませんね・・・」
「それにしても、すごい難しい事件を任されましたね。名だたるベテランたちを差し置いて、検事が選ばれるなんて、やっぱり貴方はすごいです」
「ははは、ありがとう・・」
ただ貧乏くじを引かされただけだ、とは言えなかった。
「とりあえず、僕たちが動くのは、この手の事件が裁判所に係属したと発覚してからです。数ある殺傷事件のうち、公訴が提起され、被告人が問題の証拠を提出しない限り、当該事件であるかどうかさえわかりません」
「たしかに、公訴提起前に被告人側の証拠をディスカバリーする制度は、現在のところ全く整備されていませんからね」
「ですから、現在の実務では当該事件であることが判明した時点で、無罪判決だけは避けるために公訴取消しを請求するという対応がなされているようです。そして、その再起訴を一手に請け負うのが僕たちの仕事になります」
「なるほど。要は、みなさんの尻拭いをさせられているというわけですね」
「はい」
桝井は、強く同意した。ようやく、彼女も自身が置かれた状況の悲惨さに気がついたようだ。浮き足立っていた彼女の肩が、かっくりと外れるように下がるのがわかる。
「道理で、検事が部屋に入ってきたとき、元気がなかったわけだ・・。それなのに、何、調子こいてんだろ、私」
能美は、頭を抱えるしぐさをする。
「いえ、でもそのおかげで元気付けられましたよ」
「本当・・・?」
「ええ、ですから、どうか気にしないで下さい。それに、この困難な仕事は、僕たちにとって千載一遇のチャンスでもあります。当たれば、その分、見返りも大きいですよ」
「検事ってすごいポジティヴですよね、見直しちゃった」
「貴女に言われたくはありません」
「何、その言い方?私のこと、能天気って言いたいわけですか?」
「・・・ところで、本題に戻りますが・・・」
「こら、小次郎。話を逸らすな」
頭にきた能美は、桝井にチョーク・スリーパーを決めてきた。
「じょ・・冗談です・・・。死んでしまいますって・・」
「えへへ、これでおあいこね」
桝井が非を認めると、能美は彼を解放してくれた。
「え~、改めて本題に戻りますが、当該事件が我々に回ってくる前に、なんとしてもこの事件のからくりを解き明かす必要があります。ですから、本日から早速、この不可解な現象に関連する資料を漁り、原因を突き止めてきましょう」
「はぁい」
桝井は、彼女が『は』と『い』の間を伸ばしていることから、最近たるみつつあるなと思うのであった。しかし、今日は彼女に言いたいことをひとつ言えたので、目を瞑ることにした。
「あと、そういえば検事」
「何ですか」
「ふと思い出したんですけど、この一連の事件について、最近、ネットで噂が流れているんですよ」
「噂・・ですか」
「はい。なんでも、外法学というものが絡んでるとか、いないとか・・・」
「外法学・・・」
外法学。滅多にテレビを見ない桝井であるが、さすがにこの言葉は彼も知っていた。近年、日本人が火星に有人着陸した際に見つけた、外からのお土産である。なんでも、外なる法則を適用することにより、人智を超えた力を生じさせるものであるらしい。しかしながら、クローンが実用化されると言われながら、はや100余年。いつまでたってもこれが実用化されるめどすら立ってはいない。馬鹿らしい。外法学というものも、それと同じだ。
「いや、待てよ。人智を超えた力・・か」
そう、当該事件もまた、人智を超えた力であるところは、一致していた。
「能美事務官。その外法学ですが、貴女の方でさらに調査を頼めますか?」
「ええ、大丈夫ですけど・・・」
「それなら、お願いします。頼りにしていますよ」
桝井は、笑顔を浮かべて、パートーナーに頼みを託したのだった。