プロローグ
現在、早朝6時を回ったころ。
東京都渋谷の道玄坂から小さな路地を入っていったところにある古いビルの前で、ふたりの男女が横に並んで、黙って何かをじっと待っていた。この時間にもなると、たとえ渋谷の街とはいえ、ホームレスや朝帰りの連中などのほか、ほとんど人気はなく、路地裏に入ってしまうとさっぱりもぬけの殻のようである。
それにしても日本の2月の朝は、本当に冷える。風が冷たいだけでなく、穢れのない澄みきって乾いた空気が一層のこと、この肌を通して身を凍てつかせるのだ。
もちろん、この国に20年以上も住んでいれば、朝が寒いのはよく分かっていること。温かくしろとお天とうさんに文句を言ったところでどうにでもなるものではなく、衣服の工夫によって寒気を減殺するほかない。だから、寒さ対策に上着を4枚くらいは着込んできたつもりだ。肌着に、アウターに、いろいろと。
だが、致命的なミスは足元が非常に寒いことだ。見事に盲点を突かれてしまった。あまり履きなれない新品の革靴は、アイスバーンのようなアスファルトの冷気をダイレクトに、この足の裏に伝えてくれる。だから、交互に足踏みして、凍傷になるのを防ぐしかない。
「検事。検事。落ち着かないんですか?」
隣で自分のことを検事と呼ぶこの女は、使い走りの検察事務官。使い走りといっても、全然彼女の方が年は上なのである。しかしながらその髪型は、茶髪のショートボブで年齢にしては若々しく感じられる。また彼女の背はいたって並であり、自分に比べて頭ひとつ分小さい程度ではあるが、いやらしい眼鏡に、いやらしい黒のパワースーツを見ると、この人は一体なにを目的に検察事務官になったのかと問い質したくなるほどだ。個人的には、検察官を結婚相手にするのは避けたほうがいいと考えている。平均2~3年で転勤が頻繁に起こり、離婚率も高いからだ。
それはともかくとして、どうやら彼女は、自分の上司が先ほどから足を交互に足踏みしている様子が気になっているのだろう。
「申し訳ありません。足が凍ってしまいそうで、こうでもしていないと凍傷にかかってしまいますからね」
検事は相変わらず、足踏みしながら笑顔で応えた。
「もう、1時間もこうして待っていますからね。それにしても、私も凍傷だけは気をつけないと・・」
部下は寒さで震える振りをする。しかし、冷え性である彼女が大量のカイロを忍ばせていることは百も承知だ。
ところで、こんな朝早くからこのふたりは何をしているかというと、当然に捜査である。でなければ、こんな寒い思いをしてまで渋谷の狭い路地裏などにきやしない。ターゲットの尻尾をなんとしてでも掴むため、こうしてターゲットのアジトの前で待機しているのだ。
「ここに車さえ進入できればよかったんですけどね」
検事は、部下に対し、うらめしそうに愚痴をこぼした。本来ならば、暖房の機能がある車内で張り込みを続けるのがセオリーではあるが、いかんせんこの狭い路地では軽自動車でも侵入は許されない。そのため、近くのコインパーキングに車を置いてくるしかなかった。
「じゃあ、検事だけ車に戻っていてもいいですよ。私が見張っていますから」
「あの、それじゃあ意味無いですよ・・・」
そう、証拠を差し押さえることは彼女にはできない。自分のこの力でなければ、ターゲットの犯行を裏付ける証拠を押さえることはできないのだ。
そう、これはこの外道検察の専権捜査事項なのだ。この外道検察でなければ、絶対になしえない。まして、単なる雑用のこの女などの手に勤まる仕事ではない。
「きた・・・」
そんなことを考えているうちに、検事の右手に持っていた羅針盤のようなものが、その針を勝手に回した。これは外法エネルギーが、この世界に流入したことの合図。すなわち、現に犯行が行われ、もしくは行われて間がないことを示す。
「検事、ビンゴですか?」
「はい。能美事務官、行きますよ。突入です。私の後についてきてください」
「了解です」
検事は、やっとこの寒空から解放されると、突入を前にして安心しきっていた。
そして気の早い彼は、帰りに温かいブレンドコーヒーを買って帰ることを決心するのであった。
本日もアクセスいただきまして、誠に御礼申し上げます。
なお、本作と同じ世界観で描かれた前作につきましても、目を通していただければ幸いです。