転生したら町娘でした。王子様が忘れ物を持って追いかけてきました
前世の私は、過労で死んだみたい。でも、はっきりとした記憶はない。
気がついたら神様みたいな存在に「転生させてあげる」と軽く言われていたので、「じゃあ今度は好きに生きます」と軽く即答した。
交渉の余地すらなかったけれど、転生先は異世界のようで……王族でも貴族でもなく、ただの町娘だったのは正直助かった。
面倒ごとが少なそうだから。まぁ、裕福な暮らしをしてみたかった気持ちはあるけど。
社畜のささやかな夢、ってところかな。
こうして、私は前世の記憶を持ったまま転生した。転生した場所はエルバン王国、王都内の端っこの下町。私の新たな人生の名は――シンシア。今日も喫茶店のカウンターを磨いている。
転生しても、忙しいのは相変わらず。
「ちょっとこれお願い」と言われれば迷わず引き受けるし、常連のおじさんが「おかわりついでにチェスの相手もしてくれ」と言えば盤を挟む。
断り方というものが、前世からどうにも身についていない。だから過労で死んでしまったんだろうな。でもまぁ、今世の「頼まれ事」は理不尽じゃないからいい。前世のそれとは、重さが違う。
昼過ぎの店内はほどよく賑わっていた。常連のおじさんたちがチェスをしているテーブル、若い女の子たちがお喋りに夢中なテーブル。
それぞれの日常が、ゆっくり流れている。
私はこれが好き。前世では終電を逃すのが日常だったから、こういう穏やかな時間が、まだ少し夢みたいに感じる。
カランカラン――扉が開く音が聞こえた。
「いらっしゃいませ!」
来店したお客様を心を込めて笑顔で迎えた。
入ってきたのは、フードを目深に被った人物だった。背はそこそこ高いけど、どこか丸まっていて、存在ごと小さくしようとしているみたいに見えた。
空いている隅の席に座って、メニューも見ずにぼんやりしている。
注文を取りに行くと、フードの陰からでもわかる整った顔立ちが見えた。
目が赤くて、泣いてたのかな?
若いなとか、そういうことを思った。
「ご来店、ありがとうございます。何になさいますか?」
「……なんでもいい」
なんでもいい、かぁ。
前世でそれを言うときの自分を思い出した。疲れ果てて、選ぶ気力すらないときの言葉だ。
「では、今日のおすすめご用意しますね!」
放っておけなかった。断れないのと、たぶん同じ理由で。
おすすめのブレンドと、おまけで焼き菓子をひとつ。それだけ置いて引き下がろうとしたら、案の定呼び止められた。
「……待ってくれ」
振り返ると、彼はカップを両手で包んだまま、テーブルを見ていた。
「はい、どうされましたか?」
「いや……」
少し間があった。
「ありがとう。焼き菓子」
おまけに気づいてくれたらしい。
「お疲れのようでしたので……甘いもの食べると気分転換になりますよ」
「そんなに酷い顔してたか?」
「ええ、まぁ……まだ酷い顔してます」
正直に言ったら、彼は小さく笑った。フードの陰で表情が見えにくいけれど、笑うと少し幼く見える。やっぱり年下かな、と思った。
その後なんとなく立ち話になり、気がつけば私は椅子を引いて向かいに座っていた。
話を聞き始めたら途中でやめられないのも、前世からの悪い癖。
「仕事でお悩みですか?」
「悩みというか……仕事自体は嫌いじゃない。ただ、やっても意味がないと思うと疲れる」
「意味がない?」
「俺が何か言っても、どうせ聞いてもらえない。やっても横取りされる。だったら最初からやらない方がいいって、最近そればかり考えてる」
あー、あるある。
私は内心で深く頷いた。
「わかります、それ」
「え?」
「前の仕事でそうでした。一生懸命やっても評価されない、意見しても無視される。でも面倒な仕事だけは押し付けられちゃう。あれ、じわじわ削られるんですよね。精神的にも肉体的にも。で、我慢の限界が来るとどうでも良くなっちゃう」
彼がこちらを見た。フードの陰から、青い目がまっすぐ向いてくる。
「……同じだ」
「でしょう?」
「そうなったとき、君はどうしたの?」
「死にました」
私の発言に、会話が止まった。
少し間が空き、思い出したように彼が驚きの声を発した。
「……え?」
「あ、いえ……気持ち的に……ですよ?」
誤魔化したものの、本当に疲れ果てて死んだらしいから、でもそれは言えない。
「それで今はこの仕事を?」
「はい。今は自分のやりたいこと、好きなことを仕事にしています」
店内を見渡しながら、私は続けた。
「立ち仕事なので身体は疲れますけど、帰ってお酒飲んで寝る。休みの日は好きなことを全力でやる。それだけで十分楽しいです」
「……羨ましいな」
ぽつりと言った小さな声に、私は思わず問いかけた。
「あなたはお酒、好きですか?」
「……飲んだことない」
「え? もしかして、まだお子さ――」
「俺は、子どもじゃないぞ!」
遮られて全力否定する彼を見て、私は目が丸くなった。
私はしばらく彼を見た。フードから覗く整った顔、疲れた目、でもさっきよりは少し表情が出てきた。
まずい、何だか興味が湧いてきた。放っておけない。
「閉店まで付き合ってください。終わったら飲みに行きましょう」
「え……?」
「嫌ですか?」
彼は一瞬躊躇して、それからゆっくり首を振った。
「……いや……じゃない」
「なら、行きましょう! あなたのお話もっと聞かせてください!」
閉店後、エプロンを外して店を出ると、彼は律儀に外で待っていた。
「ちゃんと、待っていてくれたんですか?」
「当然だろ……約束は守る」
さっきより声に張りが出ている。少しだけ、フードの位置も上がっていた。そこから覗く青い瞳が、灯りに反射して光っている。
真っ直ぐに私を見つめて聞いてきた。
「君の名前、聞いてなかった」
「今日だけの縁ですし、お互い秘密でいきましょう? 私のことは『キレイなお姉さん』とでも呼んでください」
「……キレイな……お姉さん?」
「なんですか、その顔」
「いや、別に……行こう。変なお姉さん」
「はーい!…………え? なんて?」
王都の夜は賑やかだった。
通りに並ぶ酒場の灯りが石畳に滲み、どこからか音楽が聞こえてくる。
私は迷わず馴染みの店へ彼を連れて行った。
「ここです、私の行きつけのお店。安くて美味しいんですよ!」
「……庶民的だな」
「まぁ、庶民ですから!」
カウンターに並んで座り、まずは酒を二杯注文した。彼はカップを受け取ると少し眺めてから口をつけた。
「どう?」
「……美味い」
「でしょう?」
それから私たちは何軒か酒場を回った。
彼は最初こそ遠慮がちだったが、杯を重ねるごとに素直になっていった。兄たちに利用される話、頑張っても報われない理不尽な日々。私は黙って聞き、時折相槌を打った。
「俺が言ったことを、翌日兄が会議でそのまま言うんだ。父上は兄を褒めて、俺には『見習え』の一言だけ」
「最悪ですね。私も似たようなことありましたよ。寝る間も惜しんで作った企画書を丸ごと持っていかれて、昇進したのは上司で」
「きかくしょ……じょうし?」
「仕事の提案書みたいなもので、自分より上の人間ってことです」
「……それは腹が立つな」
「立ちますとも! でも文句も言えず、結局泣き寝入りですよ……世の中、理不尽過ぎませんか!?」
私の熱意に、彼は自然と笑みをこぼした。
「君、面白いな。変わってる」
「よく言われます!」
「褒めてるからな」
「わかってます! 少し元気出ましたか?」
「ああ、君のおかげで久々に楽しい」
「良かった! では次のお店へ行きましょう!」
気がついたら、お互いかなり飲んでいた。私は酒に強い方だけれど、今日は何だか楽しくて、酔いが回るのが早かった。
四軒目にはすでに千鳥足で、彼と肩組んで歩く始末。でも彼は嫌がりもせずに楽しそうだった。
彼の頬も赤くなっていて、フードはいつの間にか下ろされている。
フードの下から出てきた素顔は、予想以上で私は固まった。
金色の髪に青い瞳。整いすぎていて、現実感がない。まるで物語に出てくる王子様みたい。
「……お顔がいいですね」
「急に何だ。飲み過ぎておかしくなったのか?」
「いえ、フードが取れて、今しっかり顔見たから……つい……なんで隠してたんですか?」
「……目立つからな」
「まぁ、確かに。昼間に歩いてたら貴婦人たちの取り巻きができてそうです」
納得してもう一杯頼んだ。彼の美しい顔を見ながら一気飲みした瞬間――。
――ぶつりと記憶が途切れた。
**
「いたたたたぁ……昨日、飲み過ぎた……」
翌朝、目が覚めて最初に思ったのは、すごく頭痛い。
(あれ? 昨日はどうやって帰ったんだっけ?
ここ、どこ……?)
そんなことを考えていると、指が隣の何かに触れた。人の感触。ゆっくり首を動かした。
白いシーツの上に、金色の髪が広がっていた。
整った顔立ち。長い睫毛。かすかに寝息を立てている、どこからどう見ても現実離れした美少年。
(あなた……誰? いや、待って……昨日の……美少年?)
私はそろそろと体を起こした。私は服着てない。隣も、たぶん服着てない。
そして乱れたシーツの状態がいろいろと、昨夜の過ちを物語っている。
私は一旦、深呼吸をした。
落ち着け、シンシア。状況を整理しろ。
その時、彼のマントが椅子にかかっているのが目に入った。何気なく視線を滑らせて、そこについた小さなブローチを見て、私は固まった。
金地に蒼い石と、翼を広げた獅子の意匠。
さすがに知ってる。これは……王家の、紋章だ。この国の王族が持つ、王家の勲章。
つまり……つまり?
私は震える手でブローチを確認した。本物だった。偽物であってほしかったけど、本物だった。
「……処刑案件」
前世に続いて二度目の死の予感がした。しかも今度はもう転生できないかもしれない。
王族に手を出した町娘の末路なんて、考えるまでもなかった。
「……よし、逃げよう」
決意して静かに立ち上がり、ドアに手をかけた瞬間だった。
「……ん」
振り返ったら、彼が目を開けていた。
青い瞳と、目が合う。
「っ、ごめんなさいいいいい——!」
財布から宿代を掴み、テーブルに叩きつけた。相場の三倍。それでも土下座する時間も惜しくて、ドアを開けて全力で走った。
後ろで何か声がした気がしたけど、聞こえなかったことにした。
**
私という人間は、つくづく学習しない人生を歩む人間だ。前世では働きすぎて死に、今世では飲みすぎて王子に手を出した。
普通、二度目の人生ならば多少は慎重になるものじゃないだろうか。
なのに私ときたら……救いようがない。
気がつけば王都から馬車で一週間の辺境で、またのんきに花を売っている。
喫茶店には謝罪の置き手紙を置いてきた。
エルバン王国の東の果て、ルーデン村。
ここでは私はリリィだ。シンシアは王都に置いてきた。名前くらい変えないと、万が一の万が一が怖い。王族に手を出した女の行方を捜索するような御触れは出ていないようだったけれど、念には念を。
花屋というのは、思ったより性に合っていた。
喫茶店と違ってお客さんは少ない。でも来る人はみんな、何かしら理由があって花を買いにくる。
祝いごと、弔いごと、謝罪、告白と、花束ひとつに、いろんな人生が詰まっている。
それを眺めているのが、案外好きだった。
断れない性格は相変わらずで、村人に頼まれれば配達に行くし、子供に頼まれれば花冠を作る。やっぱり、それもまぁ、悪くない。
前世と今世一度目の教訓をまとめるなら、頑張りすぎないこと、深入りしないこと、その場限りのお付き合いをしないこと。完璧な教訓だと思う。
ルーデン村に来て一ヶ月が経った頃から、毎日同じ青年が花を買いに来るようになった。
その青年、トーマスさんは村の鍛冶屋の息子さんで、日に焼けた顔に人懐っこい笑顔の、どこからどう見ても善人という顔をしている。
「今日はこれにします」
「またマリーゴールド? 昨日もマリーゴールドでしたよ」
「好きなんですよ」
好きなんで、で済ませているけれど、マリーゴールドの花言葉は「絶望」だ。花屋としては指摘すべきか毎回悩む。でも言い出せない。
教訓の一つ、深入りしない。
一週間後、トーマスさんは突然切り出してきた。
「リリィさん、少しいいですか」
嫌な予感がした。
「結婚を前提に、付き合ってほしいんです」
やっぱりそういう話だった。しかも結婚を前提とは……。私は三秒ほど固まって、それから精一杯の笑顔を作った。
「……少し、考えさせてください」
「もちろんです。リリィさんの為なら待ちます」
笑顔が眩しかった。きちんと断れなかった。
それから、トーマスさんは変わらずマリーゴールド一本を毎日買いに来る。
そして「お返事は?」とは一切聞かなかった。健気すぎて余計に断りにくかった。
そして、ある日。
蹄の音が、村の入り口から聞こえてきた。
馬から降りてきた人物を見て、私は持っていた花束を落とした。
金色の髪に青い瞳。あの夜より少し険しい顔をしているけれど、見間違えるはずがない。
(どうして? なんで?)
「……探した」
あの日の美少年がまっすぐこちらを見て、言った。その瞬間、トーマスさんが店から出てきた。
「リリィさん、お客さんですか?」
王子様の視線がトーマスさんに移った。笑顔のトーマスさんと、無表情の王子様が、無言で向き合った。
「……この人は?」
トーマスさんがひそひそ声で私に向かって聞いてきた。
「……え、えーと」
返答に困って首を傾げてみる。冷や汗がだらだら滴り落ちそうだった。
私の様子に目を丸くしたトーマスさんは王子様に向き直り話し出した。
「俺はトーマスといいます。リリィさんにプロポーズ中でして」
言わなくていいのに。何もこの場で。
王子様の眉が、わずかに動いた。
「そうか」
「あなたは?」
「フェリクスだ」
名前だけ言って、一歩前に出た。
「彼女は俺の婚約者だ」
突然の発言に沈黙が落ちた。トーマスさんが固まり、私も固まった。
さっきまでお店の周りで遊んでいた村の子ども達も足を止めてこちらを見てくる。
「え」とトーマスさんが言い、「え」と私も言った。
「リリィさん……婚約者がいたんですか?」
「私に婚約者っていたんですか?」
混乱した私は逆に聞き返してしまった。
「知らなかったのか」
空気を読まないフェリクス様がトーマスさんに言い放つ。困ったような顔をして続けた。
「彼女はそういうところがあるんだ。悪気はないが、はっきりと断れない」
それは私の話です?
この人は、何で長年連れ添った仲みたいなこと言ってるの?
「……そう、でしたか」
トーマスさんはしばらく私を見てから、小さく頭を下げた。
「すみません。リリィさんが困っているとは、知らずに……」
「トーマスさん、そ、それは……」
「いいんです」
彼は笑った。少し寂しそうだったけど、それでも笑った。健気すぎて心が痛い。
「あなたが幸せなら、それでいいんです。お幸せに、リリィさん」
マリーゴールドを一本カウンターに置いて、トーマスさんは去っていった。
残されたのは私とフェリクス様と、沈黙と、興味津々に見つめている村の子どもたちだけ。
私はゆっくりフェリクス様に向き直った。
「……婚約者ってどういうことですか?」
「忘れ物を届けに来た」
……この人、全然話を聞いてくれない。
徐にフェリクス様が懐から何か白い布を取り出して手を伸ばしてきた。
そして、その白い布を私に向かって広げた。
「これを手かがりに君を探したんだ」
その布を見て私の思考が完全にストップした。
…………?
………………??
……………………!?
その布は紛れもなく、私の『パンツ』だった。
しかも、何度も履き潰した常連パンツ。
見ていた子どもたちが思わず叫ぶ。
「パンツだー!!」
子供たちの歓声が響く中、私は真っ赤になってフェリクス様の手から履き潰した常連パンツを荒々しく奪って叫んだ。
「な、な、何考えてるんですか!? あなたにはデリカシーというものがないの!?」
「心配しなくても、きちんと洗ってあるぞ!」
「そ、そ、そ、そういうことを言ってるんじゃありませんよ!!」
子どもたちが「パンツ」と言いながら私たちの周りを走り回っている。
私は、もはやそれどころじゃなくて、じわじわと顔から火が出そうなほど熱くなった。
そして、恐る恐るある疑問を投げかけた。
「まさか、この国の全ての女性にこれを履かせて探したわけじゃ……ありませんよね?」
「そんなことするわけないだろ」
食い気味に否定されて、ひとまず安心した。
「なら、手かがりって……どういう意味……」
「下着に名前が書いてあった。そこから君の身元を割り出して追跡したんだ」
フェリクス様は、私の手の中のパンツを指さした。私は目を丸くしてそのパンツを見た。
そうだ、確かに名前を書いていた。
……前世の習慣のせいだ。まさか異世界で仇になるなんて。
「シンシア」
顔を真っ赤にしてパンツを凝視している私にフェリクス様が名を呼んだ。
私は真っ赤な顔を上げた。
フェリクス様がまっすぐこちらを見つめる。
「あの日の責任を取る。俺と結婚してくれ」
「無理です」
一瞬、時が止まった。
「何で即答するんだ!? 君はすぐには断れない性格だろ!?」
「パンツ片手にプロポーズされて『はい喜んで』なんて答える女性はいませんよ! それに責任って……あれはお互いの過ちです! 忘れましょう!?」
全力で拒否すると、彼は目に見えて傷ついた表情を浮かべた。青い瞳がわずかに揺れ、唇が引き結ばれる。そのとき、フェリクス様はふと声を落として言った。
「君が初めてだったんだろう。男として責任を取るのは当たり前だ」
その言葉に、子どもたちが「何の話?」という無垢な目でこちらを見上げてくる。
私は慌ててフェリクス様の袖を掴み、店の中に引きずり込んだ。子どもたちを外に残し、ドアを閉めて二人きりになる。
店内は花の甘い香りに満ちていた。私は深呼吸をしてから、できるだけ落ち着いた声で言った。
「確かに……初めての経験だったと思います。でも私は酔っていて、あの日の記憶はほとんどありません。フェリクス様がそんなに責任を感じる必要はありません。私はただの村娘です。あなたは王族……立場が違いすぎるんです。ちゃんと考えてください」
私の言葉を聞いたフェリクス様は、痛みを堪えるように眉を寄せ、唇をきつく噛んだ。整った顔が苦しげに歪む。
その表情に、私の胸がちくりと痛んだ。
「……なんで、そんな顔をするんですか?」
フェリクス様はゆっくりと息を吐き、青い瞳を私に向けた。声は低く、しかし熱を帯びていた。
「あの日は確かに君は酔い潰れていた。覚えていないのも仕方ないかもしれない。だが、俺は全部覚えている」
彼の瞳が、わずかに潤んだように見えた。
「君の声も仕草も、全部頭から離れなかった。思い出すだけで胸が苦しくて、息が詰まるくらいだった。それでも、もう一度会いたかった」
フェリクス様は拳を軽く握り、感情を抑えるように続けた。
「この状態が、ただの過ちだと言うのなら……俺は病気か? それとも、君は俺に何かしたのか? 教えてくれ……俺はどうしてしまったんだ?」
真剣で、どこか必死すぎるその瞳に、私は言葉を失った。
喉が塞がり、息が上手くできない。
すると、フェリクス様の服の裾を小さく引っ張る感触があった。
「王子様! それは恋だよ! リリィのことが大好きなんだね!」
いつの間にか中に入り込んでいた子どもたちが、キラキラした目でフェリクス様を見つめていた。
「……恋?……これが?」
フェリクス様は目を大きく見開き、困惑したように呟いた。頰がわずかに赤らんでいる。
「そうだよ! リリィが大好きだから苦しいんだよ! なら、ちゃんと伝えなきゃ!」
別の子が元気よく助言すると、フェリクス様はゆっくりとこちらを向いた。
青い瞳に、初めて確信のような光が宿る。
彼は店内に並ぶ花々を見渡し、一輪の深紅のバラをそっと手に取った。そして私の前に片膝をつき、バラを差し出した。
「あの日、君は俺に生きる意味を教えてくれた。君にとってはただの親切心だったのかもしれない。それでも、君と過ごした時間は俺にとってかけがえのないものだった」
声がわずかに震えていた。真剣すぎるほどの眼差し。
「シンシア。あの日、俺は君に恋した。好きなんだ。だから、もう一度だけ……一緒にいる時間を、俺にくれ」
真っ直ぐに注がれる想いに、私の視界がぼやけた。指先が震えながらも、自然とその赤いバラを受け取っていた。
涙が頰を伝い、熱くて止まらない。
「……本当に、馬鹿真面目なんだから……」
私は涙を拭いもせずに、苦笑した。
「後悔してもしりませんよ? フェリクス様」
フェリクス様は立ち上がり、私をそっと抱きしめた。力強く、しかし優しい腕。金色の髪が私の頰に触れる。
「後悔なんてしない。あの日に出会えたことが運命だった」
その言葉に子どもたちが「きゃー!」と歓声を上げ、盛大な拍手を送っていた。
魔法もない、かぼちゃの馬車もドレスもなければガラスの靴もない。
まさかのパンツから始まるシンデレラストーリーなんてあっていいのかな?
**
王都に戻ってきて、私は花屋を再開した。
名を戻して、シンシアとして生きることを選んだ。フェリクス様は私の希望を尊重し、無理に王族の後ろ盾を押し付けたりはしなかった。
それでも、彼は毎日のように公務の合間を抜けて店にやって来た。
いつも、赤いバラを一輪買っていく。
時には疲れた顔で、時には照れくさそうに、ただ私の顔を見つめてから帰っていくこともあった。
ある日、フェリクス様はいつもより少し早い時間に現れた。バラを一本手に取りながら、こちらから目を逸らさずに言った。
「シンシア、君に報告があるんだ」
「報告?」
「先日、君に手伝ってもらった提案書……父上が認めてくださった」
思わず手を止めた。辺境から王都に戻って間もない頃、フェリクス様が「うまく言葉にできない」と持ってきた書類のことだ。内容を聞いて、「こう伝えた方が伝わりやすくないですか」と少し手直ししただけの、他愛もないことだったけれど。
「本当に? よかった!」
「……ああ」
短く答えて、それからほんの少し口元が緩んだ。
「……それだけじゃない。君が言っていた『上司の攻略法』とやらを使ってみた」
「え、あの話ですか?」
「結果を出してから意見を言え、先に根回しをしておけ、褒めるときは人前で、提案するときは二人きりで、全部試したんだ」
前世の愚痴交じりに話した、社畜時代の処世術だった。異世界の王宮でまさか役に立つとは思っていなかった。
「……効いたんですか? それ……」
「ああ、驚くほどな」
フェリクス様はくすりと笑った。
「君は本当に、すごいよ」
「……ありがとう、ございます……」
バラを持って、いつものように帰っていく背中を見送りながら、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
多分――いや、間違いなく顔が赤くなっている。
ある夕暮れ、閉店の片付けをしていると、フェリクス様が勝手口から顔を出した。手には果実酒の瓶を携えている。
「シンシア、今日は時間があるか?」
「……どうしたんですか? こんな時間に」
「一杯だけ、付き合ってくれ」
店の奥にある小さなテーブルに向かい合って座る。フェリクス様は慣れた手つきでグラスに酒を注いだ。深い琥珀色の液体が、夕陽を透かして優しく揺れる。
「お酒はもうこりごりなんですけど……」
「一杯だけだ。君は一杯では酔わないだろう?」
グラスを差し出しながら、彼は静かに言った。
「俺も、もう逃げられたくないから」
その言葉に、頰が熱くなった。誤魔化すようにグラスを受け取り、一口だけ唇をつける。甘く、少し酸っぱい。穏やかで優しい味わいが、口の中に広がった。
フェリクス様もゆっくりとグラスを傾ける。私はふと、あの夜の彼を思い出した。一口で頰を赤く染め、それでも嬉しそうに飲んでいた顔。
「……あの時は、一口で赤くなってたのに」
今日の彼の頰は、どこも赤くない。
「強くなりましたね?」
「……特訓した」
「特訓?」
「俺はもう子どもじゃないから。シンシアを酔わせたくて……兄上たちと特訓してる」
照れくさそうに、しかし真っ直ぐにこちらを見つめて言ったその表情に、胸がきゅっと締め付けられた。
「……ずるいですよ」
「何が?」
「そういうことを、さらっと言うから。王子様ってずるくないですか?」
「シンシアが可愛いのがずるいだろ?」
「ほらっ! ずるい!」
フェリクス様は真っ赤になった私の顔を見て、楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥に長く積もっていた何かが、そっと溶けていくような気がした。
もしかして、私は――フェリクス様を、好きなのかもしれない。確信へと変わりつつある想いを、私は慌てて心の奥にそっと閉じた。
でも、グラスの中の果実酒は、あの夜よりもずっと甘く感じた。
――そして108日目の夕暮れ。
「シンシア」
振り返ると、そこにフェリクス様が立っていた。いつもの一輪ではなく、深紅のバラをたくさん束ねた大きな花束を抱えて。
金色の髪が夕陽に輝き、青い瞳は真剣そのものだった。
彼は私の前に跪き、花束を差し出した。
「この108本のバラを君に。毎日、君のことを想ってる。愛してる。今度こそ、結婚してくれ」
ベタベタで、まるで物語の王子様のような、気恥ずかしいほど真っ直ぐなプロポーズ。
でも、それがフェリクス様らしくて、たまらなく愛おしかった。
私は花束を受け取り、胸に抱きしめた。
涙を堪えながら、満面の笑みを彼に向けた。
「……はい、喜んで」
その瞬間、私の頰に一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。
「私も、愛してます」
人目もはばからず、私たちは強く抱き合った。
周囲から驚きの声と、祝福の拍手が一斉に沸き起こった。
――そして
結婚式は盛大にはしなかった。
私たちの希望で、花々に囲まれた小さな礼拝堂で、親しい者たちだけを招いて慎ましく執り行われた。
誓いの言葉を終えると、フェリクス様は私の両手を優しく握り、ゆっくりと顔を近づけてきた。
柔らかなキスが、触れるだけの優しいものから、深く甘いものへと変わる。
花の香りに包まれながら、私たちは永遠の誓いを交わした。
「シンシア……幸せだ」
「……私も。夢みたい」
パンツから始まる、奇跡のようなシンデレラストーリー。
前世の過労死から転生し、異世界で王子様と巡り合い、こんなにも深い愛に包まれるなんて――誰が想像しただろう。
私はフェリクス様の顔を見つめて、そっと目を細め、未来の子どもたちにこの話を伝えるときのことを考えた。
もちろん、パンツの部分は『ガラスの靴』にでも置き換えて、ロマンチックなお伽話として語り継ごうと思う。
だってこれは、私とフェリクス様、二人だけの『秘密の物語』なのだから。
それと、一番泣いていたのは国王陛下だったという話も――民衆には内緒の話。
**
数年後。
王宮の一室に、小さな籠の中の物と格闘している女がいた。私だ。
問題はシンプルだった。双子の娘たちの下着が、どちらのものかわからなくなる。
解決策もシンプルだった。名前を書けばいい。
……名前を、書けばいい。
針を持ったまま、手が止まった。
名前入りのパンツ。それを手がかりに、王都から馬車で一週間の辺境まで追いかけてきた真面目すぎる王子の顔が、鮮明に浮かんだ。
「……やめとこう」
即決だった。娘たちに同じ目に遭わせるわけにはいかない。将来どんな相手が現れるかわからないのだから。
ならば刺繍でマークを入れよう。片方にはお花、もう片方には星。そう決めて針を持ち直したのはいいが、いかんせん裁縫が苦手だった。
お花と星が歪な何かとなったけど、まぁこれも個性ってことで。
てんやわんやしていると、小さな足音が二つ、駆け込んできた。
「お母様〜! これなぁに?」
双子の娘たちが、籠の中を覗き込んでくる。金色の髪に青い瞳、どこからどう見ても父親似の二人が、きらきらした目でこちらを見上げていた。
「お花とお星さまの印を付けてるの。どちらのものかわかるようにね」
「「かわいいっ! ありがとう!」」
二人が声を揃えて笑った。さすが双子、息がぴったりだ。それに、心優しいところは私似ねって鼻高々に微笑む。
「ねぇ、お母様?」
片方の娘がふと首を傾げた。
「下着って、白色じゃなきゃダメなの?」
私は手を止めた。
確かに、この国の下着は基本的に白だ。着色の技術がないわけじゃない。
ただ、色とりどりの下着という概念が、まだ誰も思いついていないだけで。
……よし。
「王妃様にプレゼンしてみようかしら」
王妃様はとても気さくな方だ。転生者らしい突拍子もない提案でも、いつも親身に聞いてくれる。前回の「衛生的な布巾の普及案」も、笑いながら採用してくれた。
色とりどりの下着。世の中の女性たちに需要は絶対ある。うん、絶対ある。
よし、明日――
「シンシア」
扉が開いて、フェリクスが入ってきた。いつもより少し早い帰りだった。名を呼ばれて顔を上げると、穏やかな青い瞳がこちらを見ている。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
数年経っても、慣れない。
「おかえりなさい、フェリ」
立ち上がりかけた瞬間、娘たちが先に駆け出した。
「「お父様――!!」」
二人がそれぞれフェリクスの脚にしがみつく。彼は苦笑しながらも、それぞれを片腕で抱え上げた。二人同時に抱えても顔色一つ変えないあたり、逞しくなりたいと誓った彼の特訓の賜物だと思う。
「お母様、あのお話聞かせて!」
腕の中から、片方の娘が叫んだ。
「また?」とフェリクスが眉を上げた。「もう何万回と聞いてないか?」と優しく苦笑いを浮かべた。
「だって好きなんだもん! シンデレラ! お父様とお母様も、そのお話みたいに出会ったんでしょ?」
もう一人がフェリクスの腕の中からぐいっと身を乗り出した。
「ねえねえ、今日は二人のお話聞かせて! 本当のやつ!」
私とフェリクスの視線が、ぴたりと合った。
一瞬の沈黙があって、それから二人同時にほんのり赤くなった。
パンツから始まるシンデレラ。なんとも恥ずかしいお話だけど、でも本当にあったお話。
くすり、と笑いが漏れた。フェリクスも困ったように口元を緩めた。
首を傾げて不思議そうに見上げてくる二人の娘を見て、私はソファに腰を下ろした。
「いいわ、聞かせてあげる」
フェリクスが娘たちを膝に乗せたまま、隣に座った。その重みが、温かかった。
「昔むかし、あるところに……」
私は少し考えた。
「……お酒が大好きで、断れない性格の、ちょっとおっちょこちょいな女の子がいました」
「それ、お母様だ!」と娘たちが笑う。
「シーッ! 続きを聞きなさい」
フェリクスが小さく吹き出した。隣で肩が揺れているのがわかった。
「ある日その子は、フードを深く被って、ひとりで落ち込んでいる男の子に出会いました。とっても綺麗な顔をした、真面目で不器用な、かわいい男の子でした」
「お父様だ!」
「かわいい!?」
フェリクスが素っ頓狂な声を上げた。
「子どもに聞かせるお話ですから」
澄ました顔で続けた。隣から「……かわいいはないだろう」という抗議が聞こえたけど、聞こえなかったことにした。
「その子には魔法使いも、かぼちゃの馬車も、ガラスの靴もありませんでした。でも代わりに、ちゃんと届けてくれたんです。大切な、忘れ物を」
「忘れ物? 何を忘れたの?」
娘たちが目を輝かせる。
私とフェリクスはもう一度顔を見合わせた。
「それはね――」
私は微笑んだ。
「ガラスの靴と同じくらい、大切なものよ」
娘たちが「えーっ、教えてよ!」と騒ぎ出した。フェリクスが「大きくなったらわかる」と真面目な顔で言い切って、「それは困る」と真面目な顔で私は返した。
娘たちがさらに騒いで、王宮の一室に笑い声が溢れた。
これが私の転生シンデレラストーリー。
何を忘れたか、それは――私たちだけの秘密。
おしまい。
お読みいただきありがとうございました。
ロマンチックではない、シンデレラストーリーですが、楽しんで頂けたようでしたら評価お願いします!




