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私は一度も嘘をついていない

掲載日:2026/03/10


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── 私だけが、本当のことを知っている ──


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誰も、私の苦しみを理解できない。


それが、五十七年間必死に生きてきた、桐島恵きりしまめぐみの、偽らざる実感だった。


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娘の美咲が連絡をよこさなくなって、もう十二年になる。


十二年。長い、長い年月だ。母親を捨てた娘が十二年間、一度も顔を見せない。愚かな世間の人々はきっとこう思うだろう。「よほど酷いことをされたのだろう」と。


正解である。私がひどいことをされた側なのだ。


美咲は小学三年生のとき、私の母――つまり美咲の祖母の家に預けられた。「預けられた」というのは正確には語弊があるかもしれない。世間的な目から見れば「捨てられた」と映るかもしれないが、それは表面だけを見た浅はかな曲解だ。私には、私なりの事情があった。


当時、私はカズくん――本名、田村一輝、ホストクラブ「ルナ・ノワール」のナンバーワン――に夢中だった。夢中、というのも少し違う。あれは純愛だった。純粋な、魂のぶつかり合いだった。


カズくんは私を「姫」と呼んだ。三十八歳の、子持ちの、パート勤めの私を。


姫、と呼ばれるたびに、私は生まれ直すような気がした。


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誤解してほしくないのだが、私はべつに育児を放棄したわけではない。


美咲には毎月、学校に必要なものを買ってやれるよう、母に多少の仕送りをしていた。多少、というのが正確な額かどうかは記憶が曖昧だが、気持ちはたしかに送っていた。気持ちというのは金額では測れない。


それに、私だって辛かった。カズくんへの貢ぎ物を用意するために、朝から夜まで掛け持ちでパートをして、それでも足りなくてキャッシングをして、取り立ての電話が来るたびに胃が痛んで――それのどこが幸せな生活だというのか。


私は被害者だった。


ホストに騙される女は、みんな被害者だ。カズくんが私に向けていた笑顔が、職業的な作り笑いだったと気づいたのは、担当を外されてからのことだった。新しい姫ができたらしい、と風の噂に聞いた夜、私はトイレで三時間泣いた。


その涙の重みを、誰が理解できるというのか。


---


美咲が成人したあと、一度だけ会いに来たことがある。


そのときの娘の顔を、私は今でもよく覚えている。妙に落ち着いた、老けた顔だった。二十歳なのに、目に笑いがなかった。


「お母さん、私のこと、覚えてる?」


馬鹿にしているのかと思った。忘れるわけがない。私のお腹を痛めて産んだ子だ。


「覚えてるに決まってるでしょ。何を言ってるの」


「そう」と美咲は言った。それだけだった。


あの子はもともと、口数の少ない子だった。私に似ず、感情を表に出さない、難しい子だった。育てにくかった。そういう子を持つ親の苦労というのも、なかなか理解されない。


美咲はお茶を一杯飲んで、帰った。置いていったのは、実家から引き取った荷物の整理が終わったという書面と、祖母の位牌の写真だった。


母は、私が気づかないうちに死んでいた。


それを責める気にはなれない。忙しかったのだ、私は。


---


今、私は月十三万円の生活保護を受けて、四畳半のアパートで暮らしている。


隣の部屋の住人はいつも夜中に咳をしている。台所の蛇口は少し緩んでいて、夜になるとぽたりぽたりと音がする。テレビは五年前に壊れた。


暇な時間に、私はよく昔のことを考える。


カズくんのことを考える。今ごろどこで何をしているのだろう。あの人も、私のことをたまには思い出すだろうか。「姫」と呼ばれた夜のことを。


きっと思い出している、と私は思う。あれだけ深く交わった魂が、まったく相手のことを忘れるなんてことは、ありえない。


美咲のことも、たまに考える。


元気にしているだろうか。結婚しただろうか。子供はいるだろうか。私には孫がいるかもしれない。一度も会ったことのない孫が。


それは美咲が連絡を寄越さないせいだ。


私は待っている。いつでも、娘が戻ってきたら受け入れる準備がある。母親とはそういうものだ。どんな子でも、どんなことがあっても、受け入れる。それが母というものだ。


私はずっと、そういう母親だった。


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ケースワーカーの田中さんという若い女性が、月に一度訪ねてくる。


先月、田中さんがこんなことを言った。


「桐島さん、娘さんに連絡は取れていますか?」


「あの子が連絡してこないんです」と私は答えた。「私は待ってるんですけどね」


田中さんは少し間を置いて、「そうですか」と言った。その「そうですか」の言い方が、どこか妙だった。何かを飲み込んだような、言いかけてやめたような。


若い人は、複雑な人生経験のある大人の事情を理解できない。仕方のないことだ。


田中さんが帰ったあと、私はまた昔のことを考えた。


私の人生は、不運だったと思う。もし別の環境に生まれていたら。もしカズくんに出会っていなかったら。もし、もし、もし――。


でも、そんなことを言っても仕方ない。


私はただ、愛に生きた女だった。


それだけは、誰にも否定させない。


---


**エピローグ**


美咲は今、別の町で夫と二人で暮らしている。


子供は作らなかった。


理由は、誰にも話していない。


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