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「婚約破棄だ。お前がいなくても何も困らない」——翌日から王子の醜聞が止まらなくなったのは、偶然ではありません

作者: 歩人
掲載日:2026/03/04

 朝日が王宮の書斎を照らすより早く、ヴィクトリア・フォン・ヘルダーリンの一日は始まっていた。


 羽根ペンが羊皮紙ようひしの上を走る音だけが、静寂の部屋に響いている。ヴァイスブルク帝国の外務卿に宛てた親書の下書き。先月の通商会議での合意事項を確認し、次回の日程調整を打診する内容——もちろん、差出人はアレクサンダー第二王子の名義である。

 ヴィクトリアの名前は、どこにも書かれない。


「ヴィクトリア様!」


 侍従のハインリヒが息を切らせて書斎に飛び込んできた。


「昨夜のパーティーで、殿下がヴァイスブルク帝国の大使に——」

「ロートリンゲン大使に対して、帝国の軍備を『過剰な威嚇』と評された件ですね」


 ハインリヒは目を丸くした。


「……もうご存じなので?」

「帰りの馬車の中で侍女から聞きました」


 ヴィクトリアは羊皮紙を一枚引き寄せ、新しい文面を書き始めた。大使への謝罪ではない。謝罪は相手の怒りを認めることになる。そうではなく、「殿下は帝国の軍事力を高く評価されており、その力強さを率直に表現されたもの」という趣旨の書簡。失言を好意的な発言に転換する——この五年で何十回と繰り返してきた手法だった。


「この書簡を午前中にロートリンゲン大使の元へ。それから、王妃付きの侍女マルガレーテに伝言を。王妃様から大使夫人への茶会の招待状を出していただけないかと」

「茶会、ですか」

「大使は夫人の機嫌に弱い方です。夫人が満足すれば、大使の不満も和らぎます」


 ハインリヒは深く頭を下げて駆けていった。ヴィクトリアは窓の外を見た。朝日がようやく中庭の噴水を照らし始めている。

 王子はまだ眠っているだろう。昨夜は飲みすぎていた。自分が何を口走ったかも覚えていないはずだ。




 昼前。ヴィクトリアは王宮の廊下を歩いていた。


 午前中だけで、三件の案件を処理した。大使への書簡の手配。来週の外交会議の資料作成——王子が理解できるよう、要点を三行にまとめた概要書も添えて。そしてレーゲンスブルク侯爵への訪問の約束。侯爵は先月の領地境界線問題で王子に不満を持っている。放置すれば反対派に回る。


 不意に、奥の回廊から視線を感じた。


 振り返ると、宰相グスタフ・フォン・アイゼンベルクが書類の束を抱えたまま立っていた。灰色の目がヴィクトリアを静かに見つめている。


「宰相閣下。何かご用でしょうか」

「いや。……お忙しいようだな、ヴィクトリア嬢」


 それだけ言って、グスタフは歩き去った。

 不思議な人だ、とヴィクトリアは思った。宰相が自分に声をかけることは滅多にない。それなのに——時折、こうしてヴィクトリアの動きを見ているような気がする。

 気のせいだろう。自分の仕事は誰にも見えていない。それでいい。それが裏方の矜持きょうじだと、ヴィクトリアは自分に言い聞かせていた。


「ああ、ヴィクトリア。今日の予定は何だったかな」


 アレクサンダー王子が寝室から出てきたのは、正午を過ぎてからだった。金髪を無造作にかき上げ、まだ眠そうな碧眼へきがんをこちらに向ける。

 昨夜の失態を覚えている様子はない。


「午後二時からヴァイスブルク帝国関連の書類確認、四時から侍従長との打ち合わせです。夕方には——」

「ああ、書類はまた頼む。要点だけまとめておいてくれ」

「すでにお手元に概要書をお届けしてあります」

「さすがだな。では四時に起こしてくれ」


 王子は欠伸をしながら自室に戻っていった。「さすがだな」——それが、ヴィクトリアが受け取る唯一の評価だった。

 さすが。便利だ。助かる。——五年間で王子が口にした言葉は、その程度だった。感謝ではない。ただの感想だ。水が流れるのを見て「さすが川だな」と言うのと変わらない。


 午後。レーゲンスブルク侯爵の屋敷を訪問した。三度目だ。

 侯爵は領地境界線の問題で王子に強い不満を持っている。先月の裁定で侯爵領の一部が王家直轄地に編入され、その決定に王子が関わっていたからだ——もっとも、実際に裁定書を読んで「これは問題になる」と危惧していたのはヴィクトリアだけだった。

 侯爵の怒りをなだめ、代替案を提示し、次の議会で修正案を出す約束を取り付けた。侯爵は最後に「ヘルダーリン嬢が来なければ、もう王子とは話さないところだった」と言った。

 ヴィクトリアは微笑んで礼を述べた。この言葉が王子の耳に届くことはない。




 その日の夕方、ヴィクトリアは王子の賭博の借金をもみ消す作業に取りかかっていた。


 相手は下町の賭場の元締めで、宮廷の侍従を通じて金を貸している。公になれば王家の恥。先月も同じ件で対処したばかりだ。

 ヴィクトリアは元締めに「王宮御用達の酒商の紹介状」と引き換えに、借用書を回収する交渉をまとめた。酒商には別の便宜を図る。貸し借りの連鎖は複雑だが、ヴィクトリアの頭の中ではすべてが整理されている。


 自室に戻ったのは深夜だった。

 蝋燭ろうそくの灯りの下で、明日の予定を確認する。レーゲンスブルク侯爵への三度目の訪問。エルトリア公国との通商条約の草案。王子の衣装合わせへの同行。そして来週の夜会の席順調整——王子の隣にはヴァイスブルクの大使夫人を配置し、先日の件の関係修復を図る。

 これが毎日だった。五年間、ずっと。

 ヴィクトリアは蝋燭を吹き消した。暗闇の中で、一瞬だけ表情が崩れた。疲弊ひへいの色が浮かんでは消える。

 誰にも見られていない暗闇だけが、ヴィクトリアの素顔を知っている。




 三日後の夜会。

 それは突然だった。


 社交ホールに集まった貴族たちの前で、アレクサンダー王子が宣言した。その傍らには、蜂蜜色の巻き髪を揺らす令嬢が寄り添っている。


「本日、重大な発表がある。ヴィクトリア・フォン・ヘルダーリン。お前との婚約は、本日をもって破棄する」


 社交ホールがざわめいた。

 ヴィクトリアは微動だにしなかった。いつもの穏やかな微笑みを浮かべたまま、碧眼の王子を見上げている。


「お前は地味で華がない。王子の隣にふさわしいのは、こういう女性だ」


 アレクサンダーがシャルロッテの肩に手を置いた。翡翠ひすいの瞳が不安そうにヴィクトリアを見ている。シャルロッテ自身、この場で婚約破棄が行われると知らなかったのだろう。


「お前がいなくても何も困らない。今までご苦労だった」


 困らない。

 その言葉が、五年間の全てを否定した。

 早朝の書斎での外交文書。走り回って処理した失言のフォロー。誰にも知られず押さえ込んだ醜聞。夜を徹して作成した会議資料。——それらすべてが「困らない」の四文字で切り捨てられた。


 けれどヴィクトリアは、表情を変えなかった。


「畏まりました、殿下」


 その声は凛として、社交ホールの隅まで届いた。


「では、本日をもって全ての業務を停止いたします」


 アレクサンダーが怪訝な顔をした。


「業務? 何のことだ」

「引継ぎ書は殿下の書斎の机に置いておきます。……読む方がいらっしゃれば、の話ですが」


 一礼。深く、丁寧に。

 そしてヴィクトリアはきびすを返した。振り返らなかった。


 社交ホールの扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 貴族たちがざわめいている。同情、好奇、軽蔑——さまざまな視線がヴィクトリアの背中に突き刺さったが、彼女はそのどれにも反応しなかった。


 廊下に出たヴィクトリアの足取りは、いつもと変わらなかった。背筋を伸ばし、一歩一歩を正確に刻む。

 だが——胸の奥では、何かが砕けていた。

 困らない。お前がいなくても、困らない。

 五年間、自分が何のために働いていたのか。王国のため? 王子のため? ——いいえ。本当は、認められたかった。この仕事を、誰かに見てほしかった。

 その願いすら持ってはいけないと、自分に言い聞かせてきたのに。

 自室の扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。壁に背中を預け、天井を仰ぐ。

 泣かない。ヴィクトリア・フォン・ヘルダーリンは、泣かない。

 ——ただ、しばらく立ち上がれなかった。




 それでもヴィクトリアは、荷造りの前に一つだけ仕事を残した。


 引継ぎ書。

 便箋に丁寧な文字で、現在進行中の全案件を書き出していく。


 一、未返信の外交文書——ヴァイスブルク帝国三通、エルトリア公国二通、ノルデン連合一通(この件は至急対応が必要)。

 二、レーゲンスブルク侯爵との交渉——領地境界問題は第三回訪問で軟化の兆し。ここで手を引けば反対派に回る。

 三、来月の通商条約交渉——エルトリア公国との関税引き下げ案。草案は八割完成。資料は書斎の棚の上から三段目。

 四、王子の賭博問題——先月分は処理済みだが、今月分の借用書が元締めの手元に残っている。

 五、ノルデン連合の国境挑発——外交的牽制の書簡を準備中。草案は引き出しの中。


 リストは三枚の便箋を埋め尽くした。

 ヴィクトリアは最後の一枚を書き終え、そっと机に置いた。


「……読む人がいるかしら」


 誰もいない部屋で、小さく呟いた。


 翌朝。

 ヴィクトリアは最低限の荷物だけを持ち、王宮を去った。侍従のハインリヒだけが頭を下げて見送った。




 ヘルダーリン侯爵家に戻ったヴィクトリアは、自室で荷を解いていた。五年ぶりの実家の部屋は、出た時のまま整えられている。


 父も母も婚約破棄について多くを語らなかった。侯爵家にとっては政治的な打撃だが、ヴィクトリアの前では口にしない。その無言の配慮が、かえって胸に染みた。


 翌日の午後、来客を告げられた。


「宰相閣下がお見えです」


 ヴィクトリアは驚いた。宰相が侯爵家を直接訪ねるなど、尋常ではない。


 応接間に現れたグスタフは、いつもの書類の束を持っていなかった。代わりに、真っ直ぐにヴィクトリアを見つめた。


「ヴィクトリア嬢。単刀直入に申し上げる」


 灰色の瞳に、温かみが浮かんでいた。


「あなたの仕事を、私は全て見ておりました」


 ヴィクトリアの呼吸が止まった。


「先月のロートリンゲン大使への書簡。あの文面は殿下には書けません——私には分かる。外務卿と三十年やり取りしてきた目を、甘く見ないでいただきたい」


 グスタフは淡々と続けた。


「レーゲンスブルク侯爵の懐柔。三度足を運んだことも知っています。侯爵が急に軟化した理由を、殿下は自分の威光だと思っていたようですが」

「……」

「殿下の賭博の件。下町の元締めとの交渉をまとめたのも、あなたでしょう」


 ヴィクトリアの唇が震えた。微笑みの仮面が、僅かにずれる。


「なぜ——今まで何もおっしゃらなかったのですか」

「婚約者としての仕事に、私が口を挟む立場にはありませんでした。しかし——もうその立場ではない」


 グスタフは居住まいを正した。


「宰相府に来なさい、ヴィクトリア嬢。正式な政務官の職位を用意します。婚約者の影ではなく、あなた自身の名前で働く場所を」

「あなたの能力が正当に評価される場所が、ここにはあります」


 五年間。

 誰にも見えていないと思っていた。誰にも認められていないと思っていた。暗闇の中で独り、歯を食いしばって働き続けた日々。

 ——見てくれていた人が、いた。


 ヴィクトリアの微笑みが消えた。代わりに——初めて見せる、素の表情。氷青色の瞳が揺れ、唇が微かに震えている。


「……謹んで、お受けいたします」


 涙は見せなかった。ヴィクトリア・フォン・ヘルダーリンは、そういう女だった。

 だが、声だけが——ほんの少し、掠れていた。




 ヴィクトリアが王宮を去って、翌朝。


 アレクサンダー王子は、いつものように正午近くに目を覚ました。


「……予定表は」


 枕元にない。毎朝ヴィクトリアが用意していたそれが、今日はない。当然だ。もういないのだから。

 だがアレクサンダーは、その「当然」にまだ気づいていなかった。


「ハインリヒ。今日の予定は何だ」

「殿下の本日の予定は把握しておりません。それは……ヴィクトリア様が管理されていましたので」

「なら自分で確認する。書斎に行く」


 書斎の机の上に、三枚の便箋が置かれていた。引継ぎ書だ。ヴィクトリアの丁寧な文字で、現在進行中の案件がびっしりと書き込まれている。

 アレクサンダーはそれを一瞥して、脇に避けた。


「こんなものは後でいい。まずは外交文書だ」


 ヴァイスブルク帝国からの親書が届いていた。返信が必要だ。いつもならヴィクトリアの下書きが添えられているが——ない。


「私が書く」


 アレクサンダーは羽根ペンを取り、書き始めた。三十分後、完成した文面を読み返して頷く。


「うむ。問題ない」


 その書簡がヴァイスブルク帝国に届いた三日後、外務卿から抗議が来た。「貴国の王子は外交儀礼をご存じないのか」——文面が稚拙すぎて、侮辱と受け取られたのだ。




 一週間後。

 社交の場で、アレクサンダーは失言した。


 ノルデン連合の使節団が列席する晩餐会で、「北方の蛮族」という言葉を口にした。冗談のつもりだった。以前なら——ヴィクトリアが即座に「殿下はノルデンの勇壮な文化を称えておられるのです」と取り繕い、翌朝には使節団への謝罪の品と書簡が届いていただろう。

 しかし、誰もフォローしなかった。

 シャルロッテは隣で凍りついていた。外交の場での対処法など知らない。使節団は青ざめた顔で席を立った。


 翌日、魔法通信で各地にこの失言が広まった。

 以前なら——こうした情報が広がる前に、ヴィクトリアは魔法通信の管理官に連絡を取り、「王子の真意はこうである」という訂正を発信させていた。噂が根を張る前に、正しい——あるいは「正しく見える」——情報で上書きする。それがヴィクトリアの手法だった。

 だが今、その手を打つ者は誰もいない。


「あの王子、前はもう少しまともだったのでは……?」


 社交界でそんな囁きが増え始めた。不思議なことに、王子の「人柄」は何も変わっていない。変わったのは——それを取り繕う人間がいなくなっただけだ。




 二週間後。

 せきを切ったように、醜聞が噴出した。


 まず、賭博の借金。ヴィクトリアが毎月処理していたもみ消しが途絶え、元締めが取り立てを再開した。王宮の侍従が関わっていることが露見し、下町の新聞に書き立てられた。


 次に、過去の女性問題。ヴィクトリアが情報源を押さえていた複数の案件が、彼女の退場と同時に解放された。宮廷の侍女たちの間で噂が走り、社交界に広まるまで三日もかからなかった。


 そして、公費の使途不明金。ヴィクトリアが予算を監視していた間は表に出なかった王子の浪費が、次の月末報告で白日の下に晒された。


 敵対貴族が動き始めた。レーゲンスブルク侯爵を筆頭に、王子への不満を持つ貴族たちが結集する。ヴィクトリアの根回しが途切れた今、遠慮する理由がない。

 宮廷で「第二王子に王位を継がせて大丈夫なのか」という声が、公然と上がり始めた。




 三週間後。

 シャルロッテ・フォン・ベルクシュタインが、王子の書斎に足を踏み入れた。


 机の上に、三枚の便箋が置かれていた。ほこりを被っている——一度も読まれていないのだ。

 シャルロッテは何気なくそれを手に取り、読み始めた。


 そして、絶句した。


 未返信の外交文書。進行中の貴族交渉。通商条約の草案。賭博問題の処理。国境問題の外交的牽制——。

 それは、一人の人間が毎日こなしていた業務のリストだった。


「……ヴィクトリア様は、これを……毎日、お一人で?」


 シャルロッテの翡翠の目が見開かれた。自分がここ数週間で投げ出した——いや、最初から手をつけることすらできなかった仕事が、全て列挙されている。


 その日の夕方、シャルロッテはアレクサンダーの前に立った。


「殿下。わたしには無理です」

「何が無理だ」

「この……全部です。外交も、根回しも、書類も——何一つ、わたしにはできませんでした。ヴィクトリア様がなさっていたことの、十分の一も」


 大きな翡翠の瞳に涙が溢れていた。


「ごめんなさい、殿下。わたし——婚約を辞退させてください」


 アレクサンダーは激怒した。だが、引き留める言葉が出てこなかった。シャルロッテを引き留めたところで、何も解決しない。それはもう、王子自身が分かっていた。

 シャルロッテは最後に振り返った。翡翠の瞳は涙で滲んでいたが、その奥に——不思議な敬意があった。


「ヴィクトリア様は、すごい方だったんですのね」


 それだけ言って、花飾りを揺らしながら去っていった。

 悪女ではなかった。ただ、場違いな場所に置かれた普通の令嬢だった。そして——唯一、ヴィクトリアの仕事の重さを肌で理解した人間だった。




 一月後。


 外交は完全に行き詰まっていた。エルトリア公国との通商条約交渉は決裂。ヴィクトリアが八割まで仕上げていた草案は、引き出しの中で眠ったまま——誰もその存在を知らなかったからだ。

 ノルデン連合は国境で兵を増強していた。ヴィクトリアが準備していた外交的牽制の書簡も、同じ引き出しの中だった。


「なぜだ! なぜ何もかもうまくいかない!」


 アレクサンダーは執務室で叫んだ。机の上の書類を薙ぎ払い、インク壺が床に砕ける。


 侍従のハインリヒが、静かに言った。


「……殿下。以前は——ヴィクトリア様が、全て処理されておりました」


 アレクサンダーの顔から血の気が引いた。


 机の隅に、埃を被った三枚の便箋があった。シャルロッテが読んで、そのまま戻したものだ。

 アレクサンダーは初めてそれを手に取った。


 ヴィクトリアの文字が、目の前で揺れた。

 一行一行が、彼女の五年間だった。そして——一行一行が、今の自分にはどうにもできない問題だった。

 ようやく、アレクサンダーは理解した。自分が何を失ったのかを。

 だが理解は、解決ではない。




 宰相府。

 ヴィクトリアは政務官の執務室で書類を整理していた。


 ここに来て三週間。宰相府での仕事は、王宮の裏方とは根本的に異なっていた。自分の名前で文書に署名し、自分の判断で案件を処理する。誰かの影ではない。

 グスタフは有能な上司だった。必要な権限を与え、不要な干渉はしない。週に一度の報告で進捗を確認し、的確な助言を添える。ヴィクトリアの仕事を「殿下の代わりに」ではなく「ヴィクトリア嬢の成果として」評価してくれた。


 その日の午後、執務室の扉が荒々しく開いた。


「ヴィクトリア」


 アレクサンダー王子が立っていた。

 一月前とは別人のようだった。金髪は乱れ、碧眼は充血している。完璧だった王子の外見が、もう完璧ではなかった——それを整えていたのも、ヴィクトリアだったからだ。


「戻ってこい、ヴィクトリア。これは……頼みだ」


 声が震えていた。


「お前がいないと、何もかもうまくいかない。外交も、書類も、貴族たちも——全部だ」


 ヴィクトリアは書類から顔を上げた。穏やかな微笑み。だが——もう以前のような従属の笑みではなかった。


「殿下。『困らない』とおっしゃったのは、殿下ご自身です」

「……」

「私はそれを信じただけですよ」


 静かな声だった。怒りも、恨みも、皮肉もない。ただ——事実を述べているだけ。それが何より深く、王子に突き刺さった。


「引継ぎ書は殿下の書斎の机に置いてまいりました。読まれましたか?」


 アレクサンダーの顔が歪んだ。つい先日、ようやく読んだのだ。一月遅れで。


「あ、あれは読んだ。だからこそ分かった。お前がいなければ——」

「であれば尚のこと、お分かりいただけるかと存じます。あの業務は、殿下ご自身で対処されるべきものです」


 ヴィクトリアは書類に目を戻した。


「もう私の仕事ではありません。どうぞ、ご自分でお確かめください」


 アレクサンダーの顔が紅潮した。


「命令だ! 戻れ、ヴィクトリア!」


 その声が廊下に響き渡った瞬間、背後から低い声が割って入った。


「殿下」


 グスタフ・フォン・アイゼンベルクが、静かに歩み寄った。灰色の瞳が冷静に王子を見据えている。


「ヴィクトリア嬢は現在、宰相府の政務官です。殿下の命令系統にはおりません」


 アレクサンダーが歯を食いしばった。


「宰相。これは——」

「そして——殿下が『困らない』とおっしゃった以上、お困りにはなっていないはずですが?」


 沈黙が落ちた。


 アレクサンダーは何も言い返せなかった。自分が放った言葉が、寸分たがわず自分に返ってきた。「困らない」——あの夜会で、大勢の貴族の前で宣言した言葉。

 今さら「困っている」と認めることは、自分の愚かさを公に認めることに等しい。


 王子は唇を噛み、踵を返した。

 扉が閉まる音が、宰相府の廊下に響いた。




 王子が去った後、執務室に静寂が戻った。


 ヴィクトリアは書類を持つ手が微かに震えていることに気づいた。平気なふりをしていたが、五年間支えた相手と向き合うのは——やはり、堪えた。


「……よく耐えましたな」


 グスタフが執務室の隅から、紅茶のカップを差し出した。いつの間に淹れていたのか。湯気が穏やかに立ち昇っている。


「五年間、お疲れ様でした」


 ヴィクトリアは杯を受け取った。両手で包み込むように持つ。陶器の温もりが、冷えた指先にじわりと沁みた。


「……ありがとうございます、グスタフ様」


 その声は、宰相への敬意と——ようやく見つけた安堵を含んでいた。

 紅茶を一口含む。温かさが喉を通り、胸に落ちる。


「五年間——私の仕事には、名前がありませんでした」


 窓の外を見た。宰相府の窓から、王宮が見える。あの回廊を何百回歩いただろう。誰にも気づかれず、誰の名前でもない仕事を、黙々と。


「ですが——ここでの仕事には、私の名前が書かれています」


 グスタフは黙って頷いた。それで十分だった。


 ヴィクトリアは紅茶を置き、書類に向き直った。

 宰相府政務官ヴィクトリア・フォン・ヘルダーリン。

 署名欄に記された自分の名前を、一瞬だけ見つめる。


 今度の仕事は——誰かの影ではない。


 ヴィクトリアは羽根ペンを取り、新しい書類に取りかかった。

 窓の向こうの王宮では、歯止めを失った王子がまだ叫んでいるのだろう。だが、もうそれはヴィクトリアの耳には届かない。

 彼女の一日は、今日も朝から始まる。

 ただし、もう——暗闇の中ではなく。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 「お前がいなくても何も困らない」——このシリーズで最も残酷な婚約破棄の台詞かもしれません。リリアーナの薬草もカタリナの帳簿も、奪われたときに初めて価値が証明されました。でもヴィクトリアの場合、彼女の仕事は「存在すら認識されていなかった」のです。失言のフォロー、醜聞のもみ消し、貴族への根回し——完璧にこなすほど透明になる仕事。「さすがだな」という王子の感想は、川が流れるのを見て「さすが川だな」と言うのと同じだと書きました。感謝ではなく、ただの自然現象扱いです。


 だからこそ、宰相グスタフの「あなたの仕事を、私は全て見ておりました」という一言が、この物語の核心です。五年間、誰にも見えていないと思っていた仕事を、ずっと見てくれていた人がいた。シャルロッテの「ヴィクトリア様は、すごい方だったんですのね」という台詞も大切に書きました。彼女は悪女ではなく、場違いな場所に置かれた普通の令嬢です。そして唯一、ヴィクトリアの仕事の重さを肌で理解した人間でもある。名前のなかった仕事に、ようやく自分の署名が入る——その静かな逆転を、感じていただけたなら嬉しいです。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇


婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


▼ 公開中

・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】

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・毒が効かない体になるまで〜【断罪型】

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