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たばこはまだ吸えない

 ロッキングチェアに揺られる老人は、あの頃を懐かしむように、そっとたばこの火を点けた。



 荒木(あらき)(しゅん)は早々にペンを置いた。


 追試の試験官としている担任の汀沙(なぎさ)は、興味がないのか、もはや日常となった教室での喫煙をしながら、窓の外をぼんやりと眺めている。


 答案用紙の見直しを終えた荒木は、汀沙に声を掛けるべきかと迷い、煙草の臭いも相まって、あの日の出来事がフラッシュバックした。




 朝から小雨が降っていた。夕方を境に雨足は強くなり、塾の終わる午後九時には土砂降りとなっていた。


 荒木は自身の傘が盗まれていないことに満足しながら、もうすぐやってくる電車に乗り込むべく、早足に最寄りの駅まで歩いていた。


 ふと、道中のコンビニが目に留まった。普段は飲み物や軽食を買う程度であまり利用しないし、行きと帰りで特段の意識もしない。なんなら、今は雨で視界も悪い。それなのに、コンビニのゴミ箱の横のベンチで、ふかした煙草を手に持ったまま項垂れている人が、自身の担任の汀沙であると荒木は直感した。


 近付くにつれ本人であることが確信へと変わっていく。


 何かがあった、というのは明白だった。多分、面倒ごとだろうということも。自分には関係ない、放っておけばいい、今なら見て見ぬフリができるしそれを咎める者もいない。いつものように利害損得を計上して、少しでもマイナスが出ないよう、上手く立ち回るのが賢い生き方と心得ている。


 しかし、荒木は抗いようのない引力に吸い込まれるように、コンビニへと足を伸ばし、汀沙の前に立っていた。


 事ここに至ってようやく、自身の振る舞いを自覚した荒木は、なんと声を掛ければいいのか逡巡して、「こんばんは」持ち前のコミュニケーション能力に身を委ねることにした。


 灰になった煙草の先端が、自重に耐えかねてぽとりと落ちる。汀沙はやけにのっそりと、もったいぶった動作で頭を上げ、数瞬、蛇に睨まれたカエルのように固まった。


「どうしたんですか、こんなとこで」


 荒木は傘を閉じて汀沙の隣へ腰かける。未だ理解の追いついていない様子の汀沙では、それを拒否する選択が出るはずもなかった。瞼をぱちくりと開閉してようやく、「あんたこそ」出てきた言葉は教師であろうとしていた。


「ガキは寝る時間でしょ」

「最近のガキはこんな時間まで勉強ですよ」


「青春のせの字もないじゃん」

「青春はどどめ色らしいんで」


 どこぞの歌手がそんな歌を歌っていたな、と荒木はラジオで流れていた内容を思い出す。背の立つ深さで海を知ったと豪語することが恥ずかしいように、青春が煌びやかで青々としていたことを知るのは、相対的な今が暗くなければいけないのだ。それはきっと、今の汀沙のように。


「それで、先生は何をしてたんですか」


 荒木は空気の読める男である。触れてほしくない話題を避けることは容易であった。ゆえに、話題の核心に触れたのは、汀沙が聞いてほしそうにしていたからに他ならない。


 汀沙はといえば、少し返答に迷って、大きく溜め息を吐くと、観念したように口を開いた。


「浮気されたの。同棲してた彼氏に」


 仕事から帰ったら、彼氏がシャワーを浴びていて、テーブルの上に置かれていた彼氏のスマホに通知が入った。


『今度の土曜日楽しみにしてるね』


 女の名前と思しき者からのメッセージに、怒りが込み上げてきた。


 汀沙は束縛なんてしたことがない。ただ、思わず目に入ってしまったのだ。


 そうして、知ってしまった以上は、感情が理性を振り切ってしまう性格であった。


 今度の土曜日が正確にはいつか分からないが、仮に今週なのだとすれば、それは汀沙たちが付き合って一年の記念日である。彼氏は仕事があるからと、埋め合わせは必ずするからと言い、汀沙が渋々それを受け入れたのがつい昨日のこと。舌の根も乾かぬうちにとはこのことで、汀沙はスマホを持って風呂へと突撃した。


 彼氏は最後まで仕事だと言って譲らなかったが、メッセージの履歴を見せることはついぞしなかった。

 埒の明かないことを悟った汀沙は家を飛び出し、気付いたらここに行き着いていて、放心していたというわけだった。


「それは、なんというか、その……」


 荒木は言葉に詰まった。恋愛経験の乏しさゆえに、というより、例えどのような言葉であっても、自分のそれでは決して汀沙に届くことはないだろうと。生徒と先生という関係の壁は、驚くほど高く頑丈なのだ。


「悪いね気を遣わせて」


 汀沙は言って立ち上がり、たばこの吸い殻を投げ入れると、大きく伸びをした。


「話聞いてもらえただけで十分、スッキリしたよ。ありがとね」


 荒木の頭を乱暴に撫でた汀沙は、なおも弱まる気配のない雨の中へと一歩踏み出した。感情に任せて家を飛び出した汀沙は傘を持っていなかった。


「これ、使ってください」


 荒木は自身の傘を差し出した。ビニール傘では間違えて持っていかれたり盗まれたりが頻発したために、最近自腹で購入した少々値の張る物だった。


「あんたはどうすんの」

「俺は親が迎えに来るので」


 嘘である。そして、嘘であることが汀沙にバレていることも荒木には分かっていた。


「風邪引かれたら困るんだけど」

「それは俺も同じです」

「はあ。ま、そういうことなら遠慮なく」


 こういう気さくな、ともすれば大雑把な性格は好みが分かれるのだろう。言語の形を成さない思考の中で、なんとなく、荒木は汀沙が浮気された要因のようなものを感じ取っていた。


「ありがとね」


 傘を差して、暗がりに遠のく背を見送りながら、不意に振り向き微笑みかけるその頬に、伝う水滴が雨か涙か、荒木には判別がつかなかった。

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