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オニオン・スープ

 午前中は出勤していた憲斗だが、過労続きが祟ったのか、会社で目眩を起こしてしまった。

 危うく倒れかけた憲斗を心配した秘書の千種比文(ちぐさひふみ)が、半ば無理矢理、家に帰らせたのだ。

「まだ仕事がある」と抗議をしたが、「憲斗さんは無理をしすぎです」とぴしゃりと叱られてしまった。


 憲斗が京都帝国大学に通っていた時には既に帆波屋の社員だった比文は、一時期、辰喜の命令で、大学近くの下宿に一人暮らしをしていた憲斗の様子を見に来ていた。

 憲斗が副社長に就任し、彼が秘書となった今でも、時折、昔のように名前を呼んで説教をしてくるので、頭が上がらない。


「家に帰って寝てください。いいですか? 起きて仕事をしようとなさらないでくださいね」


 くどくどと念を押してきた比文の顔を思い出し、憲斗は溜め息をついた。


 新規店の建物の工事が終わり、これから開店までますます忙しくなるという時に、我ながら情けない。

 嫁いで来た妻に構う暇など、全くない。


 華族の令嬢だという光香は、放置されていても文句を言わず、毎日、女中たちと仲良く暮らしている。すぐに家事を手伝おうとするので、女中たちを慌てさせていた。

 知り合いの妻君も華族の娘だが、贅沢ばかりして何もしないと聞いている。

 夜会で媚びてくる令嬢たちも、いつも豪華に着飾っていたし、女とは欲深く我が儘なものだと思っていた憲斗には、光香の行動は不可解だった。

 自分の前では硬い表情をしていることが多いが、女中たちと一緒の時は、よく笑っているようだ。


 薔薇園で菊と楽しそうに語らっている光香を眺めていた憲斗は、ふと思いつき、机の引き出しから写生帳を取り出した。白紙の頁をめくると、鉛筆を手に取り、紙面に滑らせ始める。


(光香の顔は卵形。目もとは扁桃(アーモンド)に似た美しい形をしている。髪は黒く艶やか……)


 庭にいる光香を観察し、見えにくい部分は脳内で補完して、写生帳の上に妻の姿を描いていく。


 三十分ほどして、お茶の時間が終わったらしい。

 食器を片付けている菊を、光香が手伝おうとしている。慌てている菊に、光香が何か言っている。「奥様、おやめください」と断る菊に、「二人でお片付けをしたほうが早いでしょう?」とでも言って、困らせているのだろうか。


 憲斗は思わず、くすりと笑った。そして、そんな自分に気が付き驚いた。

 手元の写生帳を閉じる。

 ふと、かつてある人に言われた言葉が脳裏をよぎった。


『私、あなたの描く優しい世界が好きです』


 憲斗にそう声をかけてくれたあの人の顔はおぼろげで、ほとんど覚えていない。

 それも仕方がない。当時、斜に構えていた憲斗は、女性に対して紳士的な態度を取っていなかったのだから。

 苦い思い出だ。


「俺は何をやっているんだ……」


 憲斗はため息をつき、引き出しの中に写生帳をしまった。


 その日の夜、憲斗は食欲がなく、食堂へ下りなかった。

 比文に「くれぐれも仕事をしないように」と言われたものの、休む気にもなれず、書斎に籠もり書類を確認していたら、トントンと控えめに扉を叩く音がした。


「誰だ?」


 不機嫌に呼びかけると、小さな声が帰ってきた。


「光香です」


 なんの用事だと思いながらも立ち上がり、扉を開ける。

 光香が心配そうな表情を浮かべ、廊下に立っていた。手に盆を持っている。


「旦那様がお食事にお見えにならなかったので、差し出がましいかと思ったのですが、これをお持ちしました」


 盆の上に載っている椀の中には、澄んだスープが入っていて、鮮やかなグリンピースが沈んでいる。小皿には玉子を挟んだパンが載せられていた。


「オニオン・スープとサンドウィッチを作りました。少しでも栄養が取れて、体が温まればと……」


「お前が作ったのか?」


 憲斗が驚くと、光香は控えめに頷いた。


 憲斗は料理ができないが、まがりなりにも西洋料理店を作ろうとしているのだから、多少の調理法は知っている。

 オニオン・スープは作るのが面倒な料理だ。玉葱を細かく刻んでバターとともに褐色になるまで炒りつける。それと合わせる鶏肉のスープは、丸鶏を野菜と香草と共にあくを取りながらゆっくりと煮込まなければならない。


「…………」


 黙っている憲斗を見て、光香が慌てた。


「あ、あの……申し訳ありません。ご体調が悪い時にお持ちして……でも、しっかりと鳥を煮込んだスープを使っているので、滋養があります」


 おずおずとしていた前半に比べ、後半の言葉には気合いが入っていて、憲斗は思わず目を丸くした。


「あ、あの……旦那様?」

「ああ、いや……」


 急いで表情を取り繕い、光香の手から盆を取り上げる。


「いただこう」


 すると、光香は嬉しそうに微笑んだ。


「はい、ぜひ」


 憲斗の前ではいつも遠慮がちな光香の、今まで見せたことのない笑顔に、なぜだか一瞬どきっとした。

 ふと、昔、自分が懐いていた女中の顔を思い出す。彼女も今の光香のように、慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべていた。けれど――


 ……それもまた、憲斗が抱える苦い思い出だ。


 憲斗は無愛想な表情に戻ると、光香に背を向けた。


「先に寝ていろ。これ以上、俺に構うな」

「お仕事でしたら、ご体調が悪いのですから、ご無理をなさらず……」


 心配する光香の目の前で、扉を閉める。

 女性に心を寄せ、信じても、いつか裏切られる。もう、あの時のような思いはしたくない。


 琴絵は寝室に向かいながら、憲斗のことを考えた。

 仕事に邁進する憲斗は、自分の体を軽んじているように思える。毎晩遅くまで起きていて、朝は早くに出て行く。頭の中は、常に仕事でいっぱいのようだ。


(あのような生活をしていては、いつか倒れてしまうわ……)


 憲斗は生真面目な性格なのだと、一ヶ月近く共に暮らしてよくわかった。

 彼は琴絵に対しても女中たちに対しても厳しい言葉遣いをするが、言うことは理にかなっているし、虐げるようなこともしない。琴絵の行動を縛るようなこともしない。

 それを放置というのかもしれないが、琴絵は、憲斗が意に染まぬ結婚をした琴絵――彼にとっては光香だが――に対して、敬意を払っているようにも感じられた。


(旦那様との間にまだ距離はあるけれど、私たちは夫婦なのだから、思いやりを持って接したいわ)


 仕事に精を出す憲斗を、妻として支えたい。彼が倒れないよう、心を配りたい。

 琴絵はそう決心した。

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