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憲斗の思い

 光香が憲斗の元に嫁いできて数日が経った。


 帆波屋の社長であり憲斗の父である桐山辰喜(きりやまたつのぶ)は、やり手の経営者だ。

 神戸に西洋料理店を作ったのも、自社仕入れの製品の味を知ってもらい、売上を伸ばすためである。

 帆波屋の西洋料理店の一階は物販店舗になっており、客は気に入った商品を買うことができる。上流階級の人々や外国人に人気で、好評を得ている。


 帆波屋の跡取りとして、現在副社長の役職に就いている憲斗は、京都に西洋料理店の二号店を作るため奔走していた。

 憲斗にとって、光香は父に無理矢理あてがわれた、帆波屋の副社長夫人として相応しい出自のいい女でしかない。女嫌いの上、会ったこともない娘を妻に迎え入れるのは不本意だった。


 とはいえ、夫婦仲が悪いと父に誤解されては面倒くさいので、邸の者たちに疑われないよう、夜は寝室を共にするようにしている。


 光香と本当の夫婦関係になるつもりはないので、同じ寝台で寝ていても、色っぽい気持ちにはならない。 

 光香は意外にも豪胆な性格なのか、結婚初日もすうすうとよく眠っていた。


 二日目からはさすがに遠慮が芽生えたのか、憲斗を待つようになった。

 憲斗は書斎で遅くまで仕事をしているので、「先に寝ていればいい」と言っても、困ったような顔をする。彼女は憲斗が来るまで、書物を読みながら時間を潰しているようだった。


 仕事が一段落し寝室に入ると、今夜の彼女はめずらしく長椅子に座ったまま眠っていた。連日の寝不足が祟ったのかもしれない。絨毯の上に書物が落ちている。拾ってみれば、西洋料理の調理本だった。


(今夜も俺を待っていたのか。先に寝ろと言っているのに、彼女は頑固者なのか?)


 憲斗は書物を机に置いた。

 桐山別邸の図書室には、文学から詩集、雑誌まで、様々な書物が揃っている。琴絵はあえて料理の本を選んでいるようだった。

 憲斗は、嫁いで来た次の日の朝、琴絵が見事な朝食を作ったことを思い返した。


(この娘、料理の腕はいい。西洋料理にも興味があるようだな)


 どうせ何もできない華族の娘がくるのだろうと思っていたが、琴絵に意外な部分があることを知り、憲斗は少し驚いていた。


(帆波屋の副社長夫人としては、悪くはないか)


 琴絵の体を抱き上げる。寝間着越しに触れた彼女は華奢で、軽い。

 寝台に運び、横たわらせる。

 布団を掛け、まじまじと顔を見た。卵形の輪郭の中に、具合良く目鼻口が収まっている。髪色は射干玉のようで艶があり、サラサラとしている。化粧っ気のない顔は、まだ少女の面影が残っていた。


(存外、美しい娘だったのだな)


 そういえば、彼女の顔をこんなにじっくりと見たことがなかった。

 ふと、この顔に見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。

 佐代原光香とは、婚儀の日に初めて会ったのだ。知っているはずはないと思い直す。


 ふぅと溜め息が漏れる。先程から頭痛がしている。書類の確認に、根を詰めすぎたようだ。眉間を摘まみ、ぎゅっと目を閉じる。


「俺も寝るか……」


 今は大事な時だ。倒れるわけにはいかない。

 憲斗は部屋の明かりを消すと、光香の隣に潜り込んだ。

 出来るだけ彼女から離れ、横を向く。


(人の気配を感じながら眠るのは、妙な気持ちだ)


 健やかな妻の寝息を聞いているうちに、眠りに落ちていた。

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