愛のない結婚
カフェーでの仕事が終わった後、琴絵は道継から提案された話を思い返しながら帰途についた。
琴絵が裕福な生活を送り、優に楽をさせるために、道継がした提案――それは、琴絵が道継の娘の身代わりとなって、実業家の男性に嫁ぐことだった。
道継は華族で、子爵の称号を持っているらしい。娘の光香に、お金持ちの実業家との結婚話が持ち上がっていたが、光香は顔も知らない相手に嫁ぐのは嫌だと、以前から密かに恋仲だった運転手と駆け落ちをしてしまったらしい。
今更、婚約を反故にはできず、道継は光香の身代わりになるような女性を捜し、顔立ちや背恰好の似ている琴絵に辿り着いたのだそうだ。
道継のとんでもない提案を、琴絵はもちろん「無理です!」と断った。
自分が華族の令嬢の身代わりになるなんて考えられない。ばれるに決まっている。
けれど道継は引き下がらなかった。
「君は高等女学校にも通っていたし、礼儀作法も身についている。しかも、今は不遇の身の上だ。君ほどの適任はいないのだよ」
「そのようなことを言われましても……」
戸惑う琴絵に、道継は笑いかけた。
「よく考えてほしい。後日、君の答えを聞きに来る」
そう言って、驚くほどのチップをはずみ、カフェーロイアルを出て行った。
「また来るとおっしゃっていたけれど……どうしたらいいのかしら」
身代わりとして顔も知らない相手と結婚するなんて無理だ。けれど、自分が道継の頼みを引き受ければ、優に高等教育を受けさせてあげられるかもしれない。
悩みながら歩いていると、ふと、背後に人の気配を感じた。
気になって振り向いてみたが、誰もいない。
「……?」
首を傾げ、再び歩き出すと、また気配がする。注意深く耳を澄ましてみれば、足音が聞こえる。
(つけられているの?)
カフェーでの仕事が終わるのは深夜だ。一人歩きの女性を狙った変質者だろうか。
怖くなって早足になると、後ろをついてくる足音も早くなった。
つけられていることを確信し、逃げようと駆け出したが、あっという間に追いつかれ、男に手首を掴まれた。そのままずるずると暗がりに連れ込まれる。
「いやっ! 離してください!」
抵抗した琴絵の爪が相手の頬をかする。
「つうっ」
呻いた男の顔が月明かりに照らされ、琴絵は驚いた。三ツ橋涼介だった。
「なぜあなたが……」
動揺する琴絵の体を、三ツ橋が壁に押しつけた。
ベルトに挟んであったのか、小刀を取り出し、琴絵に突きつける。
「悪く思うなよ。ちょっと怖がらせてやれって言われたんだ」
夜闇の中、キラリと光った切っ先に恐怖を感じ、琴絵は震える唇を無理矢理開けて叫んだ。
「だ、誰か! 誰か、助けて!」
「チッ!」
三ツ橋が琴絵の口を片手で塞いだ。
「んんっ」
拘束を振り払おうとしてみても、相手は男。力が強くて逃げられない。
暴れていたら、額にピリッと痛みが走った。三ツ橋の持つ小刀が、琴絵の額を掠ったのだ。その時、
「おい、何をやっている」
低い声が聞こえた。三ツ橋がぎくりとして振り返る。
琴絵は涙の浮かんだ瞳で、声のした方向を見た。
帽子が影になり顔はよく見えないが、背の高い男性がそこに立っていた。
彼は二人のそばまでやってくると、三ツ橋の襟を掴んで琴絵から引き離し、地面に投げ飛ばした。
「女に乱暴をするな。警察官を呼ぶぞ」
「く、くそっ」
三ツ橋が急いで立ち上がり逃げていく。
琴絵を助けた男性は忌々しそうに溜め息をつくと、琴絵のほうを向いた。額から血を流し震えている琴絵を見て、背広のポケットから手巾を取り出した。
「これで押さえておけ。病院に行くか?」
「あ……す、すみませ……」
声がかすれ、うまくお礼が言えない。男性は琴絵の手を取り手巾を握らせると、今度は、
「病院よりも警察のほうが良いか?」
と尋ねた。
琴絵はふるふると首を横に振った。
カフェーでの仕事帰りに客に襲われかけたなどと、人に知られたくない。カフェーの評判にも関わるだろう。
「女がこんな夜中に一人歩きをしているから、あのような目に遭う。車を使って早く帰れ」
その言葉は優しさよりも厳しさが勝っていて、琴絵は身を縮めて小さな声で「申し訳ございません」と謝った。
男性が懐から財布を取り出し、紙幣を抜いて、琴絵に差しだす。
「車代にしろ」という意味なのだと察し、琴絵は慌てて両手を横に振った。
「いただけません!」
「また誰かに襲われたいか?」
男性は冷ややかにそう言うと、琴絵の手を取り、紙幣を握らせた。
やるだけのことはやったとでも言うように、男性は琴絵に背を向けた。帽子を被り直し、振り返りもせずに去っていく。
男性の背中に向かって、琴絵は呼びかけた。
「ありがとうございます……! いつか、このお金はお返しいたします!」
男性の姿が見えなくなると、琴絵はぽつりとつぶやいた。
「お顔がわからないままだったわ」
帽子を深く被っていたのと、夜の闇の中で、彼の顔はよく見えなかった。お金を返すと言っても、どこの誰だかわからない。
「また、お会いできるかしら……」
その可能性は、限りなく低く思えた。
*
数日後、約束通り道継がカフェーロイアルにやって来た。
琴絵を指名し呼び寄せると、顔を見るなり目を丸くした。
「その額の傷はどうしたのだね?」
「あ、これは……」
あの夜、三ツ橋に小刀で付けられた傷はまだ治っていない。
「不注意で怪我をしまして……」
「……それは災難だったね」
道継は何かを察したのか、真面目な表情を浮かべた後、
「先日の話は考えてくれたかね?」
まっすぐに琴絵を見て、問いかけた。
琴絵は店のためと三ツ橋の名誉のために、彼に襲われたことを、誰にも話さなかった。
けれど胡蝶はなぜか、あの事件を知っていて、「あの子、男に襲われたらしいわよ」とカフェー中に言いふらした。
胡蝶の言い方は多分に誤解を招くものだったため、琴絵は女給たちから腫れ物に触るような扱いを受け、客たちからは以前より執拗に絡まれるようになった。おそらく、琴絵に隙があるのなら、自分にもよい思いをする機会があるのではないかと思われたのだろう。
(きっと、胡蝶さんが三ツ橋さんをけしかけたのね)
琴絵はそう確信していた。これ以上カフェーにいたら、胡蝶にもっとひどい目に遭わされるかもしれない。
道継を見つめ返し、唇を開く。
「ご依頼、お受け致します」
琴絵の決心を聞いて、道継は満足そうに頷いた。
「その代わり、お願いがございます。優――弟は、私が嫁ぐと一人になってしまいます。あの子を引き取っていただけませんか? そして、高等教育を受けさせてやってほしいのです」
琴絵の要望に、道継が微笑む。
「わかった。では、契約は成立だ」
*
道継の娘・光香の身代わりとして嫁ぐことを決めた琴絵は、カフェーを退職後、すぐさま佐代原家に入り、光香の兄・浩太郎から、華族令嬢としての所作を叩き込まれた。
もともと礼儀作法は身についていたので、浩太郎が驚くほど、琴絵はあっという間に良家の令嬢となんら変わらない娘に仕上がった。
そして、額の傷が完治し、桜の花が咲き誇る季節、琴絵は桐山憲斗に嫁入りすることとなった。
*
婚儀が終わり、宴の席で、琴絵は不安に襲われた。
憲斗は琴絵のほうを見もしない。話しかけてもこない。
隣に座る夫を横目で見て、
(もしかして、私が光香様とは別人だと疑われているのかしら……)
と心配になる。
憲斗は見合い写真でしか光香の顔を知らず、直接の面識はないという話だった。琴絵が光香の身代わりだとばれる可能性は低いものの、万が一ということもある。
(令嬢らしくない言動をしてしまったかしら。実際に顔を合わせて、違和感をお抱きになったのかもしれないわ)
不安になっていると、道継が徳利を持って、上座に座る二人のもとへ近付いて来た。
「桐山君、娘を何卒よろしく」
憲斗の杯に、祝いの酒を注ぎ入れる。
憲斗は無表情のまま答えた。
「迎え入れたからには、光香さんに不自由な思いはさせません」
(光香……)
その名前を聞き、琴絵の胸が罪悪感で痛んだ。
憲斗は杯に口を付け、表情を変えずに酒を飲み干した。いい飲みっぷりだ。
道継が琴絵に視線を向けた。まなざしで「よろしく頼むよ」と、語りかけている。
(ここまで来たら、後には引けない。とうに覚悟は決まっています)
琴絵は無言で頷いた。
道継が憲斗の前から離れると、祝宴に招かれた者たちが、次々に酒を注ぎに来た。
憲斗は、客人をそつなく対応しつつも、琴絵に気を使う様子はない。道継に「光香さんに不自由な思いはさせません」と答えていたものの、それは社交辞令で、「妻に興味はない」という思いがひしひしと伝わってくる。
カフェーの客のように、色目を向けられるのは嫌だが、ここまで徹底して無視をされると、それはそれで居心地が悪い。しかも、琴絵と憲斗は今日から夫婦になるのだ。
琴絵はこの先の結婚生活に不安を感じ、そっと目を伏せた。




