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縁の辿り着く先

「旦那様。山の紅葉がとても綺麗ですね。川面から見上げると、もっと美しいでしょうね」


 茶屋の床几に腰をかけ、琴絵は嵐山の風景を眺めた。

 上流では舟遊びをする人々の姿も見える。

 写生帳を膝の上に載せ、向かい側に座る琴絵を描いていた憲斗が顔を上げた。


「後で舟に乗ってみるか?」

「よいのですか?」

「お前が乗りたいのなら構わない」


 憲斗の言葉に、琴絵が嬉しそうに笑う。憲斗はその表情に目を細めると、鉛筆を握り直した。この写生帳には、もう何枚も、琴絵の笑顔が描かれている。

 今日、夫婦は連れだって、嵐山に紅葉を楽しみに来ていた。

 琴絵は憲斗の隣に座り直すと、写生帳を覗き込んだ。


「旦那様は本当に絵がお上手ですね。私、旦那様の描く優しい世界が大好きです」


 琴絵の言葉に、憲斗の手が止まった。


『私、あなたの描く優しい世界が好きです』


 帝大生時代、憲斗にそう言ってくれた少女がいた。


 憲斗は、幼い頃から絵を描くのが好きだった。

 幼い頃、病床にいることの多かった母に見せると、とても喜んでくれた。

 憲斗は母を笑顔にするために、庭の草木や鳥や動物、立ち働く女中たちの姿、様々なものを描いた。

 体が自由にままならない母にとって、憲斗が見せてくれる絵は、外の世界との繋がりのように感じたのかもしれない。


 母が亡くなった後、憲斗は父に美術の学校に進みたいと話した。

 けれど、桐山家の跡継ぎとして許してもらえず、断念せざるを得なかった。


 信頼していた女中のあやが父の後妻となり、夢は絶たれ、燻りながらも帝大に入学した憲斗は、実家から離れて下宿をした。

 絵は辞めることができず、勉強の合間に趣味で続けていたある日、学友たちから誘われた。


「大学近くのミルクホールに行かないか?」

「新聞も読みたいし……それに、あそこには可愛い女給仕がいるんだ」


 友人たちがミルクや新聞よりも女給仕に重きを置いていることがわかり、憲斗は「別に」と言って断ろうとしたが、


「どうせ暇なんだろ」

「硬派ぶるなよ」


 と、無理矢理連れて行かれてしまった。


 新聞や官報の閲覧所でもあるミルクホールは、牛乳や軽食などを提供する飲食店でもあった。派手な看板はなく、店内も質素。一人だけいる女給仕が、客に料理と飲み物を運んでいた。


「あの子だよ。可愛いだろ?」

「お前、声をかけてみろよ」


 地味な着物に前掛けをした少女は、こそこそと話をしている大学生たちに気付いているのかいないのか、真面目に仕事に励んでいる。


「邪魔をしないほうがいいんじゃないのか」


 憲斗が友人の一人を諫めると、友人はむっとしたのか、憲斗に突っかかった。


「桐山は女に興味がないのかよ」


 他の友人がけらけらと笑う。


「こいつ、生身の女は嫌いなんだよ。花街に誘っても、絶対に来ない」

「ああ、だから、いつも絵ばかり描いてるのか」


 友人が憲斗の鞄を勝手に開け、中から写生帳を取り出した。


「やめろ!」


 手を伸ばした憲斗を、別の友人が笑いながら押さえつける。


「ケチケチするなよ。見せろって」


 写生帳を手にした友人は、ぱらぱらと紙をめくり鼻で笑った。


「なよっとした線の軟弱な絵だなぁ」

「裸婦の絵でも描いていないかな~っと」

「返せ!」


 友人を押しのけ取り返そうとした憲斗から、写生帳をめくっていた友人が高く手をかかげて身をのけぞらせる。


「おっと! 焦るところを見たら怪しいなぁ。やっぱり裸婦画があるんだな」

「きゃっ!」


 その時、ちょうどミルクとパンを運んできた少女に、友人の手があたった。写生帳が床に落ちて、雀を描いた頁が開く。


「あっ、も、申し訳ございません」


 零れないようかろうじてミルクを守った少女は、慌ててお盆をテーブルの上に置くと、写生帳を拾い上げた。彼女が差し出すよりも早く、憲斗は写生帳を奪い取ると、表紙を閉じた。

 驚いて目を丸くしている少女に、友人が軽い口調で謝る。


「ごめんね、こいつが乱暴なことをして」

「無愛想な奴だから、気にしないで」

「こちらこそ、申し訳ございません! ミルクがお体にかかっていませんでしょうか?」


 懐から手巾を出し、気遣う少女に、友人たちは鼻の下を伸ばしている。

 憲斗は不機嫌な表情で立ち上がった。


「失礼する」


 財布からお金を出し、テーブルの上に置く。

 友人たちに背を向けて、さっさと店を出る。


「すみませんっ……お釣りを……」


 背後から声をかけられ振り向くと、先ほどの少女が憲斗を追いかけてきた。

「釣りなんていらない」と思ったが、彼女も仕事だ。受け取らなければ、それはそれで困るだろう。

 しぶしぶ手を出すと、少女は憲斗に小銭を渡そうとした。そして、小さな声で恥ずかしそうに言った。


「あなたの絵、素敵でした。私、あなたの描く優しい世界が好きです」

「……っ」


 少女は憲斗を見上げてにこりと笑った。

 けれど憲斗は、彼女に、自分が友人たちにからかわれていたところを見られたのだと知り、羞恥で顔を赤くした。少女が手のひらに載せた小銭を乱暴に掴み、背中を向ける。


「あ、あのっ、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております……!」


 少女の声には振り向かず、憲斗は足早にその場を去った。


 下宿に帰っても、憲斗の頭の中には少女の言葉が残っていた。

 父に否定され、友人たちにも馬鹿にされている絵を、彼女だけが好きだと言ってくれた。世界は自分に冷たいと思っていたが、彼女は憲斗が見ている世界は優しいと言った。

 どういう意味だったのか聞いてみたい気もしたが、恥が勝って、もう一度ミルクホールを訪れる勇気は出なかった。


(あの時は、彼女にひどい対応をしてしまった)


 顔もおぼろげな少女の、あの言葉だけは記憶に残り、忘れることはできなかった。

 憲斗は写生帳を眺める琴絵を見つめた。意を決して尋ねる。


「琴絵。今更こんなことを聞いて気を悪くしないでほしいのだが――お前はカフェーに勤める前は何をしていたんだ? もしかして別の場所……ミルクホールで働いてはいなかったか?」


 突然の憲斗の質問に、琴絵が不思議そうに小首を傾げた。


「私がミルクホールで働いておりましたことを、どうしてご存じなのですか? あっ、優が話しておりましたか?」


 優は今、桐山別邸で共に暮らし、中学校に通っている。


「いや、そうではなく……かつて、俺に今のお前と同じような言葉をかけてくれた少女がいたんだ。彼女はミルクホールの女給仕で、友人たちに絵を馬鹿にされていた俺に『あなたの描く優しい世界が好き』だと言ってくれた」


 そう話すと、琴絵の目が丸くなった。琴絵の脳裏にも、数年前の出来事が蘇る。


「もしかして、旦那様はあの時の学生さん……?」


 琴絵は父が亡くなった後、一時期、父の友人から紹介された帝大近くのミルクホールで働いていた。

 近所の学生たちが新聞を読みにくる店で、それなりに流行っていたものの、世間のカフェー人気に押されて客足が減り、閉店してしまった。

 その後、ちょうど求人を出していたカフェーロイアルに転職したのだ。


 ミルクホールにやって来る学生たちは同じ顔ぶれが多かったが、ある日、知らない青年が混じっていた。

 聞こえてきた彼らの会話から、硬派な雰囲気の青年は、絵を描くのが好きだとわかった。

 床に落ちた写生帳の、偶然開いた頁に描かれていた雀が目に入り、その可愛らしさに胸がときめいた。

 きっと彼は、この絵のように優しい人なのだろう。友人たちに馬鹿にされて悔しそうに店を出て行った彼に、「あなたの絵が好きです」と、どうしても一言伝えたかった。


 琴絵と憲斗は見つめ合った。まさかという気持ちと、やっぱりという気持ちで、不思議な思いがする。


「私たち、またお互いの顔を覚えておりませんでしたね」

「俺は羞恥心で、お前の顔をよく見ていなかった」

「私は、あの時、旦那様が学生服を着ておられたので、今の旦那様とお姿が一致していなかったようです」


 琴絵が恥ずかしそうに微笑むと、憲斗も微苦笑を浮かべた。


「俺は絵の道には進めなかったが、こうして今でも描き続けていられるのは、琴絵があの時に言ってくれた言葉のおかげだと思う。冷たい対応をして申し訳なかった。それから、琴絵、あの言葉を俺にくれて、ありがとう」


 丁寧に頭を下げられて、琴絵の胸がいっぱいになる。


「私、旦那様のお役に立てていたのですね」

「今もたくさん助けてもらっているぞ」

「左様でございますか?」

「この間、パーラーに出す新メニムの相談をした時、あれこれと意見をくれただろう」

「あっ、あの時は、差し出がましいことをたくさん申し上げました。お恥ずかしいです……」


 琴絵が両手で顔を隠すと、憲斗は呆れたように笑った。


「お前は本当に不思議な女だな。意志は強いのに、控えめだ」


 そう言った後、


「まあ、そういうところが愛しいのだがな」


 と続けた。憲斗の告白に、琴絵の頬が赤くなる。


「さて、そろそろ舟に乗りに行こうか」


 憲斗は写生帳を閉じ、鞄にしまうと立ち上がった。琴絵に手を差し出す。

 琴絵はにこりと微笑むと、夫の手を取った。


 絵画のように鮮やかな秋景色の中を、夫婦は肩を並べて歩いて行った。

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