とある紳士の提案
数日後、耀子がカフェーロイアルに復帰した。
休憩に向かった琴絵は、従業員控え室から出てきた胡蝶とすれ違い、違和感を抱いた。
「あら、琴絵さん。お疲れ様」
胡蝶は上機嫌だ。琴絵に向かってにこやかに笑いかけ、歩み去っていく。
(胡蝶さん……?)
普段の胡蝶は、琴絵に挨拶などしない。何か思惑があるのだろうか。
嫌な予感を抱きつつ控え室の中に入ると、耀子が立ち尽くしていた。
「耀子さん。どうかなさったのですか?」
もしや、再び母親の具合が悪くなったと連絡を受けたのだろうか。
心配して声をかけたら、耀子はきっとしたまなざしで振り向いた。琴絵をひと睨みし、口も利かずに控え室を出て行く。
「耀子さん……?」
いつも優しく穏やかな耀子の様子がおかしく、琴絵は心配になった。
(本当にお母様の具合がよくないのだったら、早退したほうがいいわ)
耀子が心配になり、急いであとを追う。
店内に戻ると、耀子の周りに仲良しの女給たちが集まっていた。耀子はひどく落ちこんでいるのか、見るからに元気がない。琴絵が彼女たちに近づいて行くと、女給たちは琴絵の姿に気づき、さっと表情を変えた。
「耀子さん、お母様のご体調が悪いようでしたら、今日はもう早退なさったらいかがでしょうか? 言いにくいようでしたら、私から支配人さんにお願いしてみますから……」
気遣いの言葉をかけたが、耀子から睨み返され困惑する。
女給の一人が前に進み出て、琴絵に言った。
「琴絵さん。耀子さんのお客様に色目を使ったなんてひどいわ」
「い、色目?」
予想外のことを言われて、琴絵は驚いた。
「この間、吉田様を接客したでしょう? その時、腕に触ったり、胸を押しつけたりして誘惑していたって聞いたわ」
「ええっ!」
覚えのないことを責められて、思わず大きな声を上げた。
「そのようなこと、していません!」
「またご指名してくださいねって言ったらしいわね」
「耀子さんの大切なお客様を横取りするようなことはしません!」
強く否定したが、女給たちは「嘘を言わないで」と聞く耳をもってくれない。耀子に目を向けると、涙を溜めた恨めしそうな瞳で琴絵を睨んでいた。
「琴絵さんは、人のお客様を取るのがお上手ですものねぇ。この間は、私の大切なお客様にも取り入ろうとしていましたものね」
背後から声が聞こえたので振り向くと、胡蝶がこちらを見てにやにやしていた。その顔を見て、琴絵はハッとした。
(胡蝶さんが耀子さんに、私が吉田様を誘惑していたって嘘を吹き込んだのだわ)
控え室から出て来た胡蝶は、讒言を信じた耀子と琴絵の間に溝ができることを確信し、上機嫌で琴絵に挨拶をしたのだ。
琴絵は悔しさでこぶしを握った。
揉めている女給たちに気が付いたのか、ボーイが近付いてきた。パンパンと手を叩き、
「何をおしゃべりしているんです? 仕事をしてください。お客様からご注文を聞いてきて」
と、注意をする。
「はぁい」
「行って参ります」
女給たちが、耀子を気遣う様子を見せながらも、店内へと散っていく。
「あ、あの、耀子さん……」
背中を向けた耀子に、琴絵は手を伸ばした。肩に触れ「違うんです」と言おうとしたが、耀子に無言で手をはたかれた。
「耀子さん、ご指名だよ!」
空気を読まないボーイから声をかけられ、耀子が歩み去っていく。
(誤解を解かないと)
胡蝶の策略で、こんな風に耀子から嫌われたくはない。視線を巡らせると、二階のダンスホールへ登っていく胡蝶の姿が見えた。琴絵は急いで胡蝶を追いかけ、踊り場で彼女を呼び止めた。
「胡蝶さん! 耀子さんに何をおっしゃったのですか?」
問い詰めると、胡蝶が振り向き、
「何のこと?」
と、うそぶいた。
「私が耀子さんのお客様を誘惑したって、嘘をおっしゃったのでしょう? 私、そのようなことをしていませんし、しようと思ったこともありません!」
「まあ、そうなの? 私には、あなたがチップほしさに吉田様に媚びを売っているように見えたのだけど」
嫌らしい笑みを浮かべて、胡蝶が答える。
「耀子さんに訂正してください!」
「あなたが自分ですればいいでしょう? 私と踊りたいってお客様が、二階で待っていらっしゃるの。私は人気者で忙しいのよ。あなたと違ってね」
胡蝶はドレスの裾を翻して、階段を上っていった。
琴絵は唇を噛んだ。確かに今は仕事中だ。客が待っているという胡蝶を引き留めるわけにもいかない。改めて、もう一度話をしよう。肩を落として階段を下りる。
一方胡蝶は、階段の上で足を止めて振り返り、一階フロアに戻った琴絵に忌々しいまなざしを向けた。小さく舌打ちをする。
「あの子、私にたてついてきたわ。生意気」
いらいらし、爪を噛む。
いじめても、孤立させても、まだ頑張りますという顔をしている琴絵を見ると、無性に腹立たしくなる。
どうにかして心を折ってやりたいと思案しているうち、ふと名案が浮かんだ。胡蝶は口から指を外し、ほくそ笑んだ。
「先輩としてしつけが必要よね……」
*
耀子との一件があってから、琴絵はカフェーロイアルで完全に孤立した。
あの後、琴絵は何度か耀子に話しかけようとしたが、無視をされてしまい、誤解を解くことはできなかった。
仲の良かった女給たちも琴絵に構わなくなった。
胡蝶の取り巻きたちだけが琴絵に絡み、手が滑ったふりをして熱いスープをかけたり、足をひっかけて転かしたりと、いやがらせをしてくる。支配人に怒られそうになったら、
「あら、琴絵さんからぶつかってきたのよ」
「勝手に足を滑らせたのよ」
と、琴絵のせいにした。反論もできない琴絵を見て、胡蝶は楽しそうに笑っている。
女給として働くためには、美しい着物で装い、化粧もしなければならない。それらの費用は全て女給持ちだ。何枚も高価な着物を買えない琴絵は、スープをかけられ汚されても、替えがない。唯一の一張羅は、もうあちこちに染みができている。
「琴絵さん、しっかりしておくれよ。十番テーブルのお客様からご指名だ。くれぐれも粗相をしないように」
支配人から注意をされ、琴絵は素直に「はい」と頷いて、十番テーブルに足を向けた。
十番テーブルはフロアの奥まった場所にあり、他のテーブルからは目立たない。
琴絵が向かうと、身なりのいい紳士が待っていた。歳は五十を少し超えたぐらいだろうか。白髪の交じった髪が上品だ。
(身分の高そうな方なのに、こんなにみすぼらしい格好で接客をしなければならないのが申し訳ないわ……)
琴絵は内心では落ちこみつつも、努めて笑顔を浮かべ「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「お隣、失礼いたします」
腰掛けようとしたら、紳士は目の前の長椅子を指差した。
「そちらに」
たいていの客は女給を隣に座らせて、べたべたと体を触ろうとするのに、めずらしい方だと驚く。
「では、こちらに……」
琴絵が長椅子に腰を下ろすと、紳士は肘をついて手を組み、琴絵の顔をしげしげと眺めた。あまりにも凝視するので、不思議に思い、
「あの……私がお気に召しませんでしたら、代わりの者を呼びましょうか?」
と尋ねたら、紳士は「いいや」と首を横に振って笑った。
「むしろ、間近で顔を見て、ますます気に入ったよ」
「はい……?」
「君の名前は標野琴絵。父を亡くし、弟と二人暮らしをしている。伏見の造り酒屋の娘だったが、今は貧しく、生活費を稼ぐためにここで働いている」
いきなり紳士が琴絵の身の上を語り出し、驚いた。
「なぜ、私のことをご存じなのですか?」
紳士は思わせぶりに笑うと、顔を琴絵に近づけた。内緒話をするように小声になる。
「先程から君を見ていた。君はここでうまくいっていないようだね」
胡蝶たちとのいざこざを見られていたのかと恥ずかしくなり、琴絵は俯いた。
「私が君をここから助け出してあげよう。私の言うとおりにしたら、君は裕福な暮らしができる。弟にも楽をさせてあげられるだろう」
「どういうことですか?」
まっすぐに紳士を見つめる。
「私は佐代原道継という。君に頼みがある。とある男に嫁いでくれないか。そうしたら、君の願いを叶えてあげよう」
紳士からの提案を聞き、琴絵は目を丸くした。




